prologue
少年は不思議な光を見た。
湖の表面に浮かぶ、白く光る球体を見た。
「シスターイーダ、あれ見て」
少年は、光球が見えた方向を指さす。小さな火のようにも見えるそれは、未だゆらゆらと浮遊している。
「あら、また何か見えたんですか。残念ながら私には何も見えませんよ。さあ、中に入ってみんなと食事をしましょう」
孤児院を取り仕切るシスターに、いつものように軽くあしらわれる。少年は諦めて、彼女の指示に従った。
渋々湖畔から立ち上がり、食堂へ向かって歩き出す。
それでも名残惜しくなって、湖の方を振り返る。あの光球がただ珍しいからではなく、特異な美しさを放っていたからだ。その妖しさに、少年の心はすっかり惹きつけられていた。
しかし光球は既に粒ほどの大きさとなっており、やがて少年にも見えなくなった。
少年は妖精と出会った。
いたずら好きの、無垢な子供みたいな妖精だった。
彼――あるいは彼女だったか――と出会ってすぐに仲良くなり、一緒に色々な場所へ探検に行った。
ある時いつものように外を歩いていると、近くの山を流れる川に面白い物があると言われたので、ついていくことにした。
山と言っても険しいものではなく、子供の脚でも目的地までは難なく辿り着いた。しかし川は至って普通で、何も変わった所や「面白い物」も見当たらない。
「もっと近づいて見てみろ」と催促されたので、言われた通り少年は川辺に立ち、周囲を観察した。
「やっぱり何もない」。そう伝えようとした直後、自身の背中に何かが触れたのを感じた。瞬間、身体全体が冷たい水に覆われる。
――突き落とされたのだ。
真冬の間の、突き刺すような凍てつく川でなかったことは、せめてもの救いかもしれない。しかしまだ幼い少年が死を覚悟するには充分だった。
幸運なことに、偶然通りがかった猟師に助けられたため事なきを得たのだが、その後は散々だった。大人達は少年が勝手に山へ入った挙句、川に落ちたと思っていたようで、彼らから話を聞いたシスター達にもこっぴどく叱られることとなった。
無理もない。少年以外には妖精の姿など見えないのだから。
少年を陥れた妖精は、いつの間にか姿を消していた。そしてこの件以降、二度と彼の前に現れることもなかった。
少年は悪魔と出会った。
不思議なことに、今も「それ」の姿を一切思い出すことはできないが、交わした言葉の断片は記憶している。
「へえ、お前『特異霊媒体質』か」
「とくい……?」
「普通見えないものが見えたり、厄介な存在を引き寄せやすい体質のことだよ」
少年はその言葉で、即座に理解した。今まで自分の身に起きたことも含めて。
「正直、オレからしても呪いみたいなモンだね。でもまあ、それも神様からの大切な贈り物だよ。……なんて、オレが軽々しく神様のことなんて語ったらダメかな」
「どうして」という少年の疑問は、口から吐き出す前に「それ」に飲み込まれた。
「だって、悪魔だからね。オレ」
悪魔は、冗談みたいな軽い口調でそう言った。まだ幼い少年には、その言葉をどう受け取っていいものか分からなかった。
「じゃあね、ヴィンセント。お前が愛に満ちた、幸福な人生を歩むことを願ってるよ」
少年に皮肉めいた言葉を言い残して、「それ」は雑踏の中へと消えていった。
少年は、常人と異なる特性を持っていた。
特異霊媒体質。
いつか出会った悪魔によれば――悪魔、悪霊、妖精といった、人の理から外れた存在を引き寄せてしまう能力。彼の言う通り、呪いのような能力。
それもそうだ。群がってくるのは、悪意に満ちた生き物ばかり。周りの大人も、子供も、そんな彼を気味悪がった。
どれだけ歩みよっても、皆少年から遠ざかってしまう。
そんな経験が積み重なったせいか、いつしか彼は他人に期待しなくなっていた。
「期待」を犠牲に「落胆」を避けることを学んだ。一種の防衛本能のようなものだろう。
そんな彼に残されたものは、どうしようもない孤独感だけだった。
イングランドコッツウォルズ地方。長閑で美しい田舎町の、修道院が運営する小さな孤児院で少年は育った。
両親のことは何も知らない。顔も、名前も、事故死だったのか病死だったのかもわからない。
少年は、時折考える。
――もし自分の両親が生きていたとして、彼らは自分を愛してくれただろうか。
――呪われた自分を、変わらぬ愛を持って優しく抱きしめてくれるだろうか。
全ては夢。叶う筈のない「もし」ばかり。
それでも少年は、淡い夢をみる。
新しい家族ができて、大切にされて、大人になったら愛する人と結ばれて。
――そうしたら自分にも、「愛」というものを理解できるのかもしれない。
◇
少年が八歳を迎えたある日、彼に会いたいという人物が現れた。話を聞くに、教会の中でも結構偉い人らしい。
面会の当日、シスター達はいつになく落ち着かない様子だった。そして少年は、それ以上に緊張していた。元より、孤児院や修道院にいる大人達以外とはあまり交流がないから、ということもある。
予定時間ぴったりに、彼らはやって来た。現れたのは賢そうな男性と、女性にも見える、髪の長い男性だった。
彼らと、対応を任されていたシスターイーダと共に、来客用の部屋へと入る。入室するなり椅子に掛けるよう、シスターイーダに促される。来訪者二人は、少年とテーブルを挟んで反対側の椅子に腰を掛けた。同じく入室した筈のシスターは、来訪者と何か言葉を交わしたかと思うと、少年には何も言わず退室してしまった。
少年の緊張が高まる。一体全体、ここで彼らと何をするというのか。もしかしたら、気が付いていないだけで、自分はとんでもないことを仕出かしてしまったのかもしれない――。
「やあ、初めまして。君がヴィンセントかな?」
賢そうな男性が、最初に口を開く。
少年は緊張で上手く喋れず、黙って首を縦に振ることしか出来なかった。
「私はウィリアム・クレイヴン。教会治安維持部隊の隊長だ」
極めて簡潔な、無駄の無い自己紹介。
その様は、決められた動作を正確にこなす機械のようだった。
「私はミカ・ハンニカイネン。一司祭の身ではあるけど、今日は司教代理として同席させてもらうことになったんだ」
よろしくね、と髪の長い男性が続けて挨拶し、朗らかに微笑む。その動作も相まって、やはり女性と見間違えてしまいそうだ。
「君のことは聞いているよ。何でもよく不思議なものを視たりするんだとか」
ウィリアムと名乗った男が、冷めた視線で少年を見下ろす。
悪いことはしていない筈なのに、少年はなんだか罪を罰せられているような気持ちになった。
「何も私たちは、君を連れ出してどうこうしようなんて考えていないさ。むしろ、君にとっては良い話かもしれないよ?人助けが出来るんだから」
咄嗟に司祭が間に入る。どうやら、機転の利く人物のようだ。恐らく彼が同席しているのは、少年に重圧をかけない為だろう。事実そのおかげで、少年の緊張の糸はいくらか緩んだ。
「人助け……?」
「そう。悪い話じゃないだろう?」
ウィリアムは少年を真っ直ぐ見据える。
綺麗な瞳だと思った。そのままの意味ではなく、己が信じるものを信じ続ける、ある種の純粋さが滲んでいたからだ。
「少し説明が難しいけれどね……彼は人々に悪さをする連中をこらしめるお仕事をしてるんだ」
司祭の言葉には、最低限少年を不安にさせまいという意図が感じられた。しかし今の話だけでは、少年とあまり関係があるとは思えない。
「人は適材適所だとよく言うだろう?宝石のように輝かしい才能も、活かされなければゴミとして廃棄するも同然だ。私なら君の価値を活かせる。君を生きるべき場所へ連れて行ってあげられるよ、ヴィンセント」
ウィリアムは口角を上げて笑う。
少年はこの時初めて、彼の「人間らしい」表情を見ることが出来たような気がした。
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