1-2 それは訓練ではなく、絶望を教えるための儀式

兵舎に着くと、ラセルは周囲を見回し、すぐに兵舎の中から偉そうな人物を呼んできた。


「ようこそ、新兵の諸君。ここが我らの王国――レガルドだ。まあ皆さんもご存じかとは思いますが、人間の希望であり、最終防衛ラインです。」


 胸を張って語る男の声は兵舎の壁で反響し、妙に大げさに聞こえる。


「先に名乗ったほうがいいのではないか、ガルド殿。」


 ラセルが控えめに提案すると、白衣を着た男――ガルドは「あぁ」と頷き、急に場を仕切り始めた。


「私の名前はガルド・ヘルトン。みんなからはヘルトンと呼ばれているよ。まあ本当はガルドって呼ばれるほうが多いんだけどね。ここ、笑うところだよ?」


 無理に笑わせようとするガルドに対し、新兵たちの反応は薄い。誰もが長旅の疲れを引きずり、靴に付いた砂埃すら落とす気力がない。


「そんなに反応が薄かったら、魔族が迫ってきたとき情報共有が遅れちゃうよ?困るよ?まあ、そうならないために君たちは兵舎でこれから一年間学んで――」


「ガルド殿、新兵は長旅で疲れているので、手短に寮の説明だけしてもらえると助かります。」


 ラセルがもう一度止めに入るが、ガルドの勢いは衰えない。


「そうだよねえ。じゃあ手短にね。寮の使用方法は……入ってすぐのところに張り付けてあるから読んで!忘れたときに――」


 そこから延々と、同じような注意点が続いた。

 どれくらい時間がたっただろうか。


 兵舎に着いたときは太陽が真上にあったのに、今は西の地平に沈み、空は群青色に染まっていた。冷えた風が首筋を撫で、疲れが一気に押し寄せる。


 隣で聞いていたアスカは立ったまま舟を漕ぎ、ほかの徴兵者たちも半分は眠りかけ、残りの半分は現実逃避するように周囲をぼんやり見回している。

 ラセルに至っては、途中でそっといなくなっていた。


「……っというわけで、みんな今日はお疲れ様! 明日から訓練始めるからね!」


 ガルドが満足そうに締めると、グラウンドの隅にある小屋に軽い足取りで帰っていった。

 残された俺たちは疲労で動きが鈍い。


「おいアスカ。起きろ。」


 軽く肩を叩くと、アスカは「んぁ?」と寝ぼけた声を出して立ち直る。

 兵舎の中へ入ると、すぐ目の前の壁に寮のルールと部屋割りが貼られていた。


「これさえ見せてくれたら、あんなじじいの長話聞かなくてよかったのにな〜」


「そうだなアスカ……強くなるために来たのに、初日からあれはきつい。」


「おっ! レイルと俺、一緒の部屋じゃん。よろしくな!」


 アスカは疲れも忘れたように喜んでいるが、俺は黙って頷き、二人で部屋へ向かった。


 二段ベッドの下に潜り込み、湿った木の匂いを嗅ぎながら、アスカが嬉しそうに夢を膨らませる。


「なあレイル!これから俺たち二人でレガルドの英雄になろうな!」


「レガルドの英雄ってなんだ?」


「はあ!?そんなことも知らねーの? お前、王国の近所に住んでたんだから普通知ってるだろ。」


「ごめん……父さんと母さんは、王国についてあまり教えてくれなくて。」


「普通、レガルドの英雄くらい話すだろ〜。まあいいや。レガルドの英雄ってのはな、今の王国軍トップのリュシアンと、当時リュシアンと肩を並べて――」


 アスカの声は次第に遠のき、子守歌のように聞こえてくる。

 まぶたが重くなり、意識が闇に引きずられていった。


 今思えば――

 あの時ちゃんと聞いておけば、リュシアンの覚悟も、王国の正義も、少しは理解できたのかもしれない。


 ほんと、俺ってダメだ。

 肝心なことだけ、いつも覚えてない。

 

ーー王国歴142年 7月2日 5:45


 兵舎の中に、けたたましいサイレンが響く。眠気を吹き飛ばす大音量だというのに、アスカはベッドで丸くなってまだ眠っている。


「アスカ、起きろよ」


「んー……もうちょっと……」


 呆れながら、俺は部屋の備え付けの王国兵士の制服に着替え始める。

 布地の冷たさと香りが、まだ半分夢の中の俺を現実に引き戻した。


 着替え終わると、サイレンはぴたりと止み、代わりにラセルの声が兵舎中に響き渡った。


「お前ら! 新兵は制服に着替えて早くグラウンドに来い! 部屋から出てくるのが早かった新兵には、私からご褒美をやろう」


 ラセルの声に、俺はすぐさまアスカを叩き起こし、二人で急いでグラウンドに向かった。


 グラウンドに着くと、すでに多くの新兵たちが整列しており、ラセルが点呼をとっている。

 朝の冷たい空気が頬を刺す。地面には露が残り、靴底が濡れてキュッと音を立てた。


「みんな、起きるの早いなあ。どうしてこんなに早く起きられるんだ?」


「あんな大音量のサイレンが鳴ったら、アスカ以外誰でも起きるよ」


 俺たちは堂々と列に向かって歩き、ラセルに気づかれると彼が近づいてきた。


「レイルとアスカだな? 二人とも遅刻だぞ」


「え? こんなに早く起きたのにか」


 アスカはまっすぐな目でラセルに向かってアホなことを言う。

 ラセルは苦笑しながらアスカの頭を軽く叩いた。


「もう6時だぞ! 戦場で熟睡できるのは強みにもなるが、弱みにもなりうる。弱みになる可能性のあるものは、なるべく減らしておくべきだ」


 呆れながらも丁寧に指導するラセルに従い、俺たちは列に加わる。


「新兵のみんな、おはよう!! 昨日はよく眠れたか? 今日から本格的な訓練が始まる!! 君たち全員が無事に訓練を終えられることを祈る!!」


 ラセルの声が止むと、新兵たちは自然とガルドの家の方に視線を向ける。

 扉が開き、勢いよく飛び出してくる3つの影――犬のような姿の魔族だ。

 低く唸りながらグラウンドを縦横無尽に駆ける。


「アスカ、あれって犬か?」


「犬にしては、走るの早すぎじゃね?」


 困惑する新兵たちを前に、ラセルが淡々と説明した。


「お前ら新兵100人には、この犬型魔族3匹と半日を共にしてもらう!! もちろん、殺しても構わん。12時になったら迎えに来る」


 驚きと恐怖の声が一斉に上がる。


「ラセル長官! 私たちはまだ何も教わっていません!」

「いやー! 私の人生こんなところで終わっちゃうの!」

「いっちょやってやるぜ!」

「俺のすごさを見せる時だな」


 反応は人それぞれ。初めて目にする魔族の前で、顔色はみんな真っ青だ。


 俺はアスカに疑問を投げかけた。


「なあアスカ。あの犬の魔族、本当に俺たちの敵なのか? かわいいけど」


「レイル……それはお前が純粋すぎるだろ。魔族をかわいいと思うのは流石に引くぞ?」


 アスカは言うと黙って、魔族が走る方向を見据えた。俺もつられて目を向けると、すでに先に突っ込んだ新兵の何人かが、噛まれたり踏まれたりして倒れている。


「なあ、アスカ……これ……」


 横を向いて話しかけようとしたとき、アスカはもういなかった。

 一匹の犬型魔族目がけて全力で走り出している。


 俺も反射的に後を追った。

 胸が熱くなる。恐怖と興奮が入り混じり、心臓が激しく打つ。


 走り出す俺たちの足音と、犬型魔族の低い唸り声。

 グラウンドは一瞬で戦場になった――。


 「お前は俺が倒す!」


 アスカは近くに落ちていた枝を握りしめ、犬型の魔族に突進した。

 しかし魔族は素早く体をかわし、後ろ足でアスカを蹴り飛ばす。


 アスカは声も出さず、5メートルほど後方に吹き飛ばされた。

 地面に叩きつけられる音と、枝が折れる音が乾いたグラウンドに響く。


 俺も遅れてアスカのところに駆けつけるが、目の前の光景はまさに地獄だった。


 すでに気絶している屈強な男。

 泣き崩れて立てない赤髪の女。

 血まみれの眼鏡をかけ、噛まれたまま倒れている男。

 そしてようやく立ち上がろうとするアスカ。


 ラセルが魔族を解き放ってまだ5分もたっていないというのに、新兵たちは次々と倒れていく。

 俺は自然とグラウンドの端にいるラセルの方に目をやった。

 ラセルは新兵が血を流そうと、気絶しようと、泣きわめこうと、一切表情を変えずにそれらを見ているだけだった。


「本当に……人なのかよ、あいつ……」


 俺が呟くと、立ち上がったアスカが俺の横に駆け寄った。


「レイル、手伝ってくれ。あいつを俺たちで止めないと、今戦わずにグラウンドの真ん中にいる奴らもこうなる!」


「……そうだな、二人で戦おう!」


 アスカは近くの石を拾い、犬型魔族に投げつける。

 魔族は軽く石をかわし、アスカの方へ振り向く。


「お前の相手は俺だ! こっちこい!」


 アスカはそう叫ぶと、グラウンドの端へ走り出す。

 俺も少し尖った枝を握り、後を追った。


――――――――――――――――――――――――――

 

 端に着いたアスカは肩で荒い息をしながら、魔族を見据える。

 しかし魔族もすぐに追いつき、アスカが息を整える前に襲いかかってきた。


「仕方ねえ……こうなったら、もうこれしかねえだろ!」


 アスカは叫ぶと同時に魔族に殴りかかった。

 しかし、力の差は圧倒的だった。魔族の一撃は人間のそれを遥かに超える。


「アスカ! 大丈夫か!」


 俺が駆けつけたとき、戦い始めてまだ20秒も経っていないはずなのに、アスカはすでにボロボロだった。


「レイル……助かったぜ。ここからは……」


「そうだな、二人で戦おう!」


 俺たちは無謀にも魔族に立ち向かう。

 蹴られ、噛まれ、血を流しながらも、二人で立ち上がり続けた。

 しかし、魔族は軽くあしらい、こちらの力を完全に上回っている。


 アスカがとうとう起き上がれなくなり、俺一人が立ち向かう。

 それでも必死に向かっていく。


 ――どこで間違えたのか。

 どこで力尽きたのか。


 俺も、立ち上がれなくなった……。


 俺はそこで初めて、“守る”という言葉がどれほど軽かったのかを思い知った。


  ――包帯の温もりを感じながらゆっくりと意識が浮上していく。

目を開けると、そこに広がっていたのは、さっきまでの青空ではなく真っ白な天井だった。


 起き上がろうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走り、ベッドから体を起こすことはできなかった。仕方なく首だけ横に向けると、赤い髪が視界に入る。アスカが俺のすぐ隣で、子どものように穏やかな寝息を立てていた。


 さらに奥のベッドには、徴兵のとき同じ荷台にいた男。そしてその隣には、グラウンドで血まみれだったメガネの男が横たわっている。

皆、生きている。


「アスカ……生きてたんだな」


「訓練で死ぬわけないだろ」


 小さく漏らした俺の声に、足元のほうから低い声が返ってきた。

ラセルだった。


「やっと起きたか、レイル。もう十五時だぞ」


「ラセル……なんで俺たちは生きてるんだ?」


 絞り出した疑問に、ラセルは鼻で笑って言う。


「言っただろう。訓練で死なせるわけがない。あの魔族は王国が調教してある。人間を殺さない程度までに攻撃を制限している。それと——私は長官だ。呼び捨てはやめろ」


 胸の奥が一気に軽くなる。

アスカも、荷台の男も、メガネの男も。

みんな、生きている。


 安心したせいか、俺は前から気になっていたことをそのまま口にした。


「……ラセル長官、なんで大声で話さないんだ?」


「いつも大声で話していては疲れる。私の言葉を印象づけたいときだけ大声を出している。それだけだ。——ゆっくり休め、レイル」


 そう言うとラセルは踵を返し、次に目を覚ました兵士のもとへ歩いていった。


 見えなくてもわかる。

その背中は、淡々としていながら、どこか覚悟のようなものを帯びていた。


 そして同時に、この訓練の本当の意味を痛感した。


 ――魔族と戦うということは、守ることは命を失う危険があるのだと。

 それを、身をもって叩き込むための訓練なのだと。

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