第6話 奈落の底―――「世界の歌」

 その時、エルから音が聞こえはじめた。下に降りるにつれかすかだった旋律が、だんだんとはっきりと響きだす。

 これは、あの夜にきいた旋律、エルが歌っていたそれ。ぼくはもう、背中に背負ったエルを見ることはしなかった。

 涙があふれてくる。エル・・・キミがいてくれればそれでいい。ほかに何もいらない。そうして、いつしか下についたその時、世界は静寂にありながら、あの夜に聞いた歌が響き渡っていた。


 僕は理解した、この歌は心に直接響いている。

 静寂につつまれながら、心に響き渡る。


 なぜか、エルと共に過ごした日々が心によみがえった。

 ともに泣き、笑い、たいせつに積み重ねてきたその日々。

 苦しいほどの愛しさ、泣きたくなる懐かしさと切なさがこの歌に込められていた。


 エルの結晶化した左腕が輝き、砕け散る。そして、


「あなたなの?」


 僕を両手で抱きしめてくる。結晶化は砕け、再生していた。


「ああ、僕だよ、エル、おはよう」


 僕は彼女を抱きしめた。


「そこにいるのね」


 彼女の確認に首を傾げる。

 エルの瞳は開かれていたが、僕を映してはいなかった。

 焦点があっていない。


「目が、見えないのか・・・?」


「ええ、でも感じるわ、あなたをはっきりと、そして・・・」


 突如、認識した。目の前になにか巨大なモノがある。そこから歌が聞こえている。


「あれはなんなのかしら」


 震える声で彼女が言った。


 見上げると、そこには巨大な構造物があった。

 金属のようでもあり、岩のようでもある。

 人工物にも、自然物にも見えるそれは、奈落の底で静かに佇んでいる。


 中心には、ぽっかりと空いた“窓”のような空間があり、

 そこから、あの歌が溢れ出していた。


 ――世界そのものが、歌っている。


 そうとしか思えなかった。


 音は耳ではなく、胸の奥を直接震わせる。

 怖いはずなのに、不思議と心は凪いでいた。

 まるで、ここに来ることが最初から決まっていたかのように。


 「……きれい」


 エルが、かすれた声でつぶやいた。


 彼女はもう、目では見ていない。

 けれど確かに、“感じ取って”いた。


 「ねえ……わたし、わかるの」

 「ここ……とても、懐かしい」


 その言葉に、胸の奥が締めつけられた。 


 違う。

 ここは懐かしい場所なんかじゃない。

 戻ってくる場所でも、安らげる場所でもない。


 ――それでも。


 この歌が、エルを呼んでいる。

 この場所が、彼女の命の行き先なのだとしたら。


 「……行こう」


 震える声で、そう言ったのは僕だった。


 怖くて、逃げ出したくて、それでも。

 ここまで来た理由は、たったひとつ。


 エルを、生かしたい。


 それだけだった。


 巨大な構造物の奥から、さらに深い光が脈打つ。

 まるで心臓の鼓動のように。


 その鼓動に合わせて、

 エルの身体が、かすかに光った。


 ――世界は、まだ終わっていない。


 そう告げるように。

 僕は彼女の手を、強く握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る