第二話 港の少年
「……ン、ベン!」
大きな呼び声にハッとして飛び起きた。
「ベン!時間は大丈夫?そろそろ行かないと帰りが遅くなるよ?」
眠気眼のベンを見て、メアリーは呆れながらキッチンに向かう。
夢を見ていたようだがよく覚えていない。周囲を見回すと、夜つけていたラッシュの灯りはとっくに消えて、天井の新たな黒ずみとなっていた。
夜遅くに帰ってきて倒れるように寝たのだろう。寒さを感じる贅沢もできず身を縮めて寝ていた寝具は、雪の湿気をすっかり含み重く冷たくなっていた。
(母さんの寝具もそろそろ中身を入れ替えないといけないな…)
やることの多さに思考が停止する。
「スープ用意しといたからおばさんにあとで飲んでもらってね。」
申し訳程度に具材が入ったスープと、固い黒パン。贅沢は言っていられないので素直に感謝した。
「…いつも悪いな。仕事が終わったらそのまま母さんの薬を取りに行くから。」
「…そっか…。お母さんの具合はどう?」
「変わらないよ。少し風邪気味なんだ、無理はさせられない。」
できることがあったら言ってねと泣きぼくろのある目元を困ったように細めてメアリーは帰った。
禄に仕切りもないため、うるさかったか?と心配になり母の部屋を伺った。小さな寝息が聞こえホッとする。一年前に比べ随分と痩せてしまった。寝ていても浮かぶ目元の隈に苦労が滲み出ている。
枕元のエールを交換し、目が冷めた時少しでも食べられるようにとメアリーからもらったパンとスープを用意してから自分も一杯のエールを飲み干し家を出た。
テムズ川沿いを歩き、船着き場に向かう。船着き場に近づくに連れ、腐敗臭と油、潮の匂いが濃くなる。よそ者には耐えられないだろう。到着すると仲間の少年や大人たちがもう忙しなく働いていた。
「ベン!今日は東ワーフに停泊してる船の荷運びだ。グズグズするなよ!」
両肩に荷物を軽々と乗せた仲間から指示と、手袋代わりの麻布をもらい東ワーフへ向かう。
ポーターである少年の仕事は主に商船に荷物を運び入れることだった。
歳の割に華奢なベンにとって重い荷物を運ぶことは辛く、楽な仕事とはとても言えなかったが、その分実入りがいいため病気の母を抱えるベンにとっては仕事があるだけありがたい。
前日に降った雪の除雪から始まるため、仕事はスムーズには進まない。
水分を含んだ荷物は重量を増すため、荷運びは更に重労働となるが、荷運びが遅れると賃金も減らされるためいつも以上にスピードが求められる。
何度も雪で転びそうになるが、怪我をしたら二度と雇ってもらえなくなる。怪我をしないことに気を使うことが作業効率を下げた。
以前、荷運びをしている時に積み上げた荷物が落ちてきて顔を怪我したことがあった。
幸い大事には至らなかったが、目の横だったので出血が多くその日は仕事にならなくなり賃金が減った。
サージョンに行くことなどもちろんできないため、ありあわせの布を貼り付け翌日には仕事を再開した。そのため、傷がしっかりと残っている。
容易に医者にかかれるわけではないから気を抜くことはできない。
仲間と声を掛け合い、食料から順々に積荷を運ぶ。
寒さで感覚がなくなった指先にヘンプのささくれが刺さる。血こそ出ないものの、いちいち抜いてもいられないため荷物を持つたびに刺すような痛みにチカチカとした。
一区切りついて休憩しようと甲板にでると、親方が船長らしき人物と話していた。こちらに気づくと声をかけられた。
「ベン、荷積みはどのくらい進んだ?」
「大きいのはあらかた…あとはあっちのだけです。」
甲板から船着き場の荷物を指さした。
「Mercy!」
フランス語で話しかけられベンが面食らう様子が面白かったのか、船の男はベンの頭をぐりぐりと撫でた。
ワインの甘いアルコール臭が全身から漂っており、側にいるだけで酔いそうになる。鼻の頭は寒さとアルコールで真っ赤になり、無精髭の長さはまちまちでいかにも海の男という様子だ。長年の日焼けにより肌はくすみとしみが浮き出ているが、笑っていても目の奥に鋭い光を宿しているためぶるりとベンは震えた。
「潮待ちだ。なるべく早く積み終わってろ。」
ぶっきらぼうに親方から指示を出されシッシッと追い払われた。
「ちょっと待て。」
ほらよ、とパンを投げ渡される。
ベンが母子二人で暮らしに窮していることを知っている親方はこうしてパンやエールをくれたりする。指示は厳しいが優しい面を持つところが皆に慕われている。
潮待ちだといつ船をだしてもいいようにしておかないといけない。短い休憩の後急いで残りの荷物を運んだ。
最後の積荷を運ぼうとした時、ふと足元を見ると乗船木札が落ちていた。
基本的には貨物船だが、余力があるときには人も運ぶと聞いている。
しかし、船賃はかなり高額で一般庶民にはとてもじゃないが買えるものではない。
魔が差した。
後ろから仲間たちの足音が聞こえてきたため慌てて木札をポケットに入れ、仕事に戻り荷物を船に運んだ。上の空で仕事をしながら胸がドキドキと高鳴る。
(これさえあれば…今の生活から抜け出せる…!)
船着き場に降りると、ポケットの中の木札をギュッと握りしめたまま傾きかける太陽を仰いだ。
(病気の母も、重い荷物も、薄汚いこの服も、固いパンもうんざりだ…。)
そして思いを馳せるのは見たことも聞いたこともない外国の街。さっきの男が話していたのがフランス語なら、この船の行き先もフランスなのだろう。
ここではないどこかにさえ行けば今よりは『まし』な暮らしができるのではないかと夢を見る。いや、夢などという甘いものではなく叫びのようなものだった。暖かい布団で眠りたい、お腹いっぱい食べたい、母さんを幸せにしたい…。
母を置いて行こうとしているのに、そんな矛盾した考えにより陰鬱な気持ちになった。
船員らしき人々が慌ただしくなってきた。出港が決まったのだろう。
そんなとき、一人の見窄らしい男が船員を捕まえて何かを訴えていた。
「間違いなく買ったんです!あれがないとフランスに帰れない…家族が待っているんです!」
「何を言われようが木札がなければ乗せることなんてできないって言ってるだろ!離せ!」
乱暴に男を突き放すと船員は船に乗り込んだ。
しばらく蹲っていた男はフラフラと立ち上がり、俯きながら波止場を彷徨った。
この木札を探していることは明らかだったが返すことなどできないと、ベンは身を隠した。心臓は早鐘のように鳴り響き自分の耳にまで届く。
木札の所有権は買った者ではなく、持っている者にある。
(これは…これは拾った俺のものだ!)意地になりギュッと目を瞑る。ポケットの中の木札を握る手は震える手を止めるがごとく力が入る。
早く逃げてしまえばいいのにあの男から目が離せない。
惨めにも地面を這いつくばり、独り言をブツブツと呟く様子は滑稽で、船員たちから暴言を吐かれたりツバを吐きかけられたりしていた。
その男の目がこちらを捕らえた気がした。
急いで木箱の影に身を隠したが、男の燃えるような二つの瞳が残像として残り離れない。
(早く諦めろ…)
祈るように木札を更に握った。木がじっとりとベンの汗を吸い込み呪物のように存在感を増す。
もはや海の先の新天地に思いを馳せる余裕はなく、目の前の男が消えることを第一に祈った。
しかし、本当に母を置いていけるのか。自分が消えれば母の命も儚いだろう。エミリーが少しは面倒を見てくれたとしても、エミリーの家にも余裕などない。
家賃が払えなければ即日追い出される。女子供でも容赦はなく、身ぐるみ剥がされることなど日常茶飯事だ。それに加え、ロンドンの冬は寒さが厳しく、室内にいても凍える。
父親のことを聞いたことは一度もなかった。母がどこかの金持ちの家で使用人として働いていたらしいこと、自分を身籠り追い出されたことは近所のおしゃべりなおばさんから聞いた。
母の実家は商いをしていたようだが、兄妹が多かったため裕福とは言いがたかったらしい。
しかし、母はそのような家庭環境だったため読み書きもでき、時間があると字を教えてくれたり自作の本を読んでくれた。。ベンも字を学ぶことが楽しくて、唯一文字と関われるミサにも熱心に通った。
もちろん意味までは分かっていない。けれども、暗記するほどに覚えたその文字を地面に書き連ねたり、夜寝るときに見上げた天井に思い浮かべた字を確かめるように指でなぞった。
『C A L Ⅲ ✝』
乗船木札に書かれているのはこれだけだ。自分以外の少年ポーターが拾ったらゴミだと思われてもおかしくない。
そっと文字をなぞる。バランス悪く掘られた文字はささくれだっており、ザラザラとした感触がまだ真新しさを感じさせた。
その感触に、これは自分のものではないと実感させられた。
何度も何度も練習し、一度も使うことのない不格好な自分の字。それでも愛着だけは人一倍あるただ一つのアイデンティティでもある。
不透明ながらも、自分の行く先はこの文字の向こうではないと告げられているかのようだった。
(返そう…)
母を捨てる勇気もなく、新天地で幸せになる勇気もないのかと誰かが自分を罵る声が聞こえる。
そうだ、自分は根っからの臆病者で救いようのない不幸なのだと自嘲した。
「おじさん!」
まだ這いつくばって探している男の後ろから大きく声をかけた。
はっとして振り返る男に突き出すように木札を渡した。
「あんたが探してるのこれだろ。」
木札に未練があるためついぶっきらぼうになってしまう。
「これ…これだ!坊主、これをどこで?」
奪うように木札をとった男はしっかりと胸に抱えた。
「あっち。」男がいたところとは真逆の位置をわざと指さした。
「そうか…そうか…あんなところに…。ありがとよ、坊主。できるお礼がないんだが…。」
そう言って男はゴソゴソと古びたコートのポケットを弄り始めた。
そして小さな本を取り出し、ベンの手に握らせた。
「これくらいしか渡せるものはないが、受け取ってくれ。」
そう言うと出港間近の船に乗っていった。
自分の幸福が出向する様子をロンドンの空のような面持ちで見つめていたが、感慨にふける間もなく仕事に追い立てられた。
母の薬を受け取り、家に帰ると少し元気になった様子の母がベッドに起き上がっていた。
「母さん、大丈夫なの?」
「ベン、今日はなんだか気分がいいわ。」
母に薬を飲ませ、今日あった出来事を木札は拾ったから届けたという形にして話した。
そういえば、とお礼にもらった本を母に見せると、
「聖書ね。…ラテン語と英語が混ざった…古いものだわ。」
「待って、読まないで。自分だけで読みたいんだ。」
そう言うと母は驚いたように目を見開き
「そういうところ…あの人にそっくりね。」
と笑った。
「あの人?」
「そう…あなたの父親。頑固で、わがままで、誰の言うことも聞かない。魅力的で…私にはそばにいると燃やされてしまいそうで…。怖くて逃げたの。」
母から父親について聞いたのは初めてだった。気の弱い母がけんか別れしたとは思えないが、憎んでいるんだろうと勝手に思っていたのに、表情からはそんな様子は見て取れない。
「そんなやつに似てるの?ひでぇや。」
笑って母の冷たくなった手を包み込み息を吹きかけた。
「明日、起きれたら寝具の藁を入れ替えよう。あと…分からない字があったら教えてほしい。」
そう言うと母は嬉しそうに笑った。
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