2日目 ②

 彼女の言葉に思わず一歩後退りしてしまいそうになる。


 ――名前。


 確かに名前は必要だった。


 一度死んだ私は生前名乗っていた名前をすでに喪ってしまった。


 もう思い出せない遠い昔の記憶のように。


 だから新しい名前が私には必要なのだけど……。


 抵抗したい気持ちもある。


 このまま死ぬべきなのだと、私の内で誰かが囁くようだった。


 それがあるべき姿なのだと。


 身体を半分以上失った人間が木と継ぎ接ぎにして生きながらえるのは不自然なことなのだと。


 私に誰かが訴えかけてくる。


 そうだ。その通りだ。


 なぜ私は起き上がり、こんなところに来てしまったんだろう。


 そのまま土に還ることを待っていればよかった。


 これから行く所もなく、振り返る過去もなくなったというのに。


 死体は死体らしく、冷たい世界で、孤独にいるのが安心であったはずなのに――。


 ようやく思い出した。


 この身体にかつていた『私』はすでに何処かへ行ってしまったんだ。


 今あるのはただの抜け殻。


 早く終わりに――この身体を終わりにしなくちゃいけない。


 部屋を出るために振り返ろうとした。


「待ってね、いま決めるから」


 彼女は呟いた。


 そう呟いただけなのに。


 身体がブレーキをかけたように固まる。


 なぜだろう。この声に呼び止められると、話を聞こうという気になってしまう。


 一刻も早く還らなきゃいけないはずなのに。


 夢から醒める前にやりたいことやらなきゃいけないと焦る明晰夢のような気分のはずなのに。


 それでも彼女の次の言葉を待っている私がいた。


「曇天模様で目を覚ましたからハイイロ? それとも見に来た時に雪虫が付いてたからユキムシがいいかな?」


 拍子抜けするような口調で言う。


 どうやら彼女のネーミングセンスは人に名前をつける域にはきていないみたいだ。


 というよりペットにつける名前としても微妙なので名前をつけるのが絶望的に下手くそなのかもしれない。


 どっちがいい? と首を傾げているが、どっちも良くないと眼で訴えかける。


「どっちも良いって顔が言っているね、うんうん」


 彼女は自信満々に頷いていた。


 呆れてしまいそうになるが、内心待ち遠しくなっている。


 彼女から贈り物が貰えることに、最初に声をかけられた時と同じような震えが身体の奥底から湧き上がってくるみたいだ。


「そうだね。ここは後者をとって――」


 彼女の二つの瞳がまっすぐ私を見据える。


「今からキミはユキムシだ」


 心臓を持たない私は、胸が高鳴ることはない。


 でも、それに取って代わるように、身体の内側が熱くなり全身がザワザワするような感覚を味わう。


 卵から孵った幼虫の蠢きのように、満たされた水分の沸騰のように、身体のそこらじゅうがボコボコと脈動していた。


 感動しているのか、絶望しているのか、どちらとも取れないそわそわした感情が私を満たした。


 ――私の名前は、ユキムシ。


 その名前に特別な感情はない。


 別にもう一つの候補の名前でもよかった。


 ただ彼女に与えられたという事実が嬉しくもあり、悲しくもあった。


 何か大切な帰る場所をひとつ失ってしまったような気がした。


「良い名前でしょ?」


 彼女は何のことなしに言う。


「これで生きていた時と同じように話したりすることができるよ」


 特別に何かされたわけじゃないけど、彼女に言われたらその通りな気持ちになる?


「――ぁ――」


 彼女に促されるように息を吸い込みゆっくりと喉を震わせると、呻くような声が私の口から漏れた。


「ゆっくりでいいよ。再び目覚めた新しいカラダでの最初の声を聞かせてよ」


 期待する声を弾ませる彼女の顔を見上げる。


 にこりと微笑むその顔に向けて私はまた口を開いた。


 今までの鬱憤をぶつけるように。


「私の身体にいったい何したんですか? この変態――」


 止まっていた時間が動き出したかのように、冷たい風が2人の間を通り抜けたような気がした。

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