5.選択肢 ――誰も口にしない言葉が、机の上に残される
その言葉は、最初から口に出されたわけではなかった。
国際防衛回線の会議は、異様なほど静かだった。
誰も怒鳴らず、誰も理想を語らない。
ただ、共有された画面に、いくつかの赤い円が表示されている。
「想定被害半径です」
淡々とした説明。
爆心地、放射線拡散、風向き。
数字と色分けされた地図が、命の重さを均一にしていく。
指揮官は、腕を組んだまま動かなかった。
「限定的使用、という理解でよろしいですね」
誰かが確認する。
「全面衝突を避けるための、抑止的措置です」
抑止。
その言葉は、何度も歴史の中で使われてきた。
そして一度も、完全には成功していない。
指揮官は、発言を求められた。
「……我が国としては」
声が、自分のものとは思えないほど冷静だった。
「現時点では、使用を前提とした議論には参加しない。
まず、民間人の完全退避が不可能である以上――」
「不可能だからこそ、早期に終わらせる必要がある」
遮る声。
責める調子ではない。
むしろ、説得に近かった。
「長引けば、死者は指数関数的に増える」
誰も間違ったことは言っていない。
それが、この場の恐怖だった。
会議が終わった後、指揮官はしばらく席を立てずにいた。
机の上には、正式な提案書が一部だけ残されている。
核という単語は、どこにも書かれていない。
――最終手段
――不可逆的抑止
――神の裁きを代行する力
言い換えだけが、丁寧に並べられていた。
彼は書類を閉じ、立ち上がった。
守るためにここにいる。
だが今、守るという行為そのものが、破壊と隣り合っている。
その夜、妻は何も聞かなかった。
停電は続いていたが、今日は発電機が動いている。
ランプの下で、彼女は静かに湯を注いだ。
「疲れてる顔」
「……ああ」
それ以上、言葉は必要なかった。
しばらくして、彼女がぽつりと言う。
「神の話をね、皆すごく簡単にするようになった」
指揮官は、黙って頷いた。
「でもね」
妻は、彼の方を見た。
「神の名前を使う人ほど、人の顔を見ていない気がする」
その言葉は、断定ではなかった。
祈りでも、批判でもない。
「あなたは、見てる」
それだけを言って、彼女は微笑んだ。
指揮官は、胸の奥がわずかにほどけるのを感じた。
世界がどう語ろうと、少なくともここには、判断を委ねない人がいる。
「……ありがとう」
それは、弱音に近い言葉だった。
翌朝、警戒レベルが一段階引き上げられた。
防衛システムが起動し、発射準備のチェックが始まる。
「念のため」という但し書きが、あらゆる命令に付け加えられる。
指揮官は、作戦室の中央に立ち、部下たちを見回した。
若い顔も、老いた顔もある。
皆、命令が出れば従うだろう。
それが仕事であり、責任だからだ。
だが、誰も「それを望んでいる」わけではない。
「避難計画を最優先で進める」
指揮官は言った。
「想定より遅れてもいい。
完全でなくてもいい。
――一人でも多く、生き残らせる」
異論は出なかった。
それが、この国の答えだった。
空は、以前よりも暗くなっていた。
雲の向こうで、何かが進行しているのかもしれない。
あるいは、人間が勝手に意味を見出しているだけかもしれない。
指揮官は、静かに息を吐いた。
核は、まだ使われていない。
だが、使えるものとして世界に置かれてしまった。
それだけで、世界は一線を越えている。
「……神じゃない」
彼は、小さく呟いた。
「決めているのは、俺たちだ」
そしてその責任は、
いずれ、血の通った形で返ってくる。
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