3.不協和音 ――世界は、名前を欲しがり始めた

最初に変わったのは、言葉だった。


国際会議の発言録から、「一時的に」という表現が消え始めた。

代わりに増えたのは、「選別」「適応」「受容」という曖昧な単語だ。


指揮官は違和感を覚えながら、各国の報告書に目を通していた。

被害規模、死亡率、回復速度――数字は冷静で、正確だった。


だが、その数字の横に添えられる注釈が、少しずつ変わっていく。


「この地域は復旧の優先度が低い」

「地理的条件を考慮すると、救助は非効率」


誰も「見捨てる」とは言わない。

ただ、「合理的ではない」と言うだけだ。


噂は、正式発表よりも早く広がった。


「助けが来ない町があるらしい」

「選ばれた地域だけが守られている」

「神に近い場所ほど、被害が少ないらしい」


根拠はなかった。

だが、人々は根拠を必要としていなかった。


指揮官は、国内の治安報告に目を走らせる。

物資配給所での小競り合い。

宗教施設への人の集中。

夜間の無許可集会。


「世界的に武器の所持率が上がっています」


部下の声は淡々としていた。


「理由は?」


「自衛、だそうです」


自衛。

それは、誰も否定できない言葉だった。


海外の映像に、変化が現れ始めた。


救助隊の腕に、即席の装甲が追加されている。

医療キャンプの周囲に、武装した兵士が立つ。

協力の象徴だった国際旗の横に、各国の軍旗が並び始めた。


「念のためだ」


そう説明されるたび、指揮官は頷くしかなかった。

実際、治安は悪化している。

人は追い詰められると、守るために疑う。


だが――

守る対象が「人」から「思想」にすり替わり始めていることに、彼は気づいていた。


ある夜、妻が言った。


「最近、教会で話される内容が変わったの」


指揮官は書類から目を離さずに答えた。


「どう変わった?」


「神は、すべてを救う存在じゃないって」


彼の手が、止まった。


「選ぶ存在なんだって。

 信じ、受け入れ、恐れない者だけが残る……って」


その言葉は、穏やかだった。

恐ろしいのは、声ではなく、確信の方だった。


「それは……誰が決める?」


妻は少し考え、そして答えた。


「神よ」


指揮官は、何も言えなかった。

彼の仕事は、人が決め、人が責任を取る世界の中にある。

だが今、責任という言葉が、どこかへ退避し始めている。


数日後、国際通信の一部が遮断された。


「セキュリティ上の理由です」


説明はそれだけだった。

共有されていたはずのデータに、空白が増える。


指揮官は、地図を見つめた。

かつて赤く点灯していた警告が、消えている地域がある。


「復旧したのか?」


「……報告が来ていません」


沈黙が、答えだった。


街では、壁に文字が書かれ始めた。


――受け入れよ

――抗うな

――選ばれし者となれ


それは脅しではなく、祈りに近かった。


指揮官は、防災庁舎の屋上に出て、空を見上げた。

雲は相変わらず重く、だが以前より“形”を持っているように見える。


誰もが、何かを信じ始めている。

問題は、それが同じものではないということだった。


「……団結は、終わりじゃない」


彼は自分に言い聞かせるように呟いた。

だが、団結が壊れるとき、それは崩壊ではなく、分岐として現れる。


人は、正しいと信じた方向へ、それぞれ歩き出すだけだ。


その足音が、少しずつ、戦争の前触れに変わっていくことを――

この時点では、まだ誰も公には認めていなかった。

灰色の空は、沈黙したまま街を覆っていた。

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