プロローグ
二〇〇三年、初冬。東京、日比谷。
自動ドアが無機質な吐息を漏らして開くと、都市の乾いた冬の風は背後で断ち切られた。代わりに流れ込んできたのは、出所の知れぬ洗練された香気と、空調によって漂白された静寂だ。
フランチェスカ・ヴィスコンティは、その均一な平穏の中へ、ゆっくりと身を投じた。
八十年の歳月を刻んだ彼女の足取りは、記憶の底に沈んだ石畳を一つ一つ確かめるように、重く、慎重だ。
彼女の指先は、手摺りの磨き上げられたステンレスに触れ、そのあまりの滑らかさに微かな眩暈を覚えた。
かつての大谷石が持っていた、火山の荒い呼吸を封じ込めたようなざらつきは、もうどこにもない。現代はあまりに清潔で、傷一つなく、それゆえに彼女のような老いた異邦人を静かに拒絶している。
かつて「東洋の宝石」と謳われた煉瓦造りの迷宮は、もう存在しない。フランク・ロイド・ライトが執念で刻み込んだ幾何学的なスクラッチ・タイルも、大谷石の柱も、すべては戦火と再開発という、容赦のない歴史の地層に埋没してしまった。
しかし、彼女の歩みは、今なお別の感触を踏みしめていた。厚い絨毯の地表を突き抜け、その底に沈殿している、かつての冷徹で重厚な石の拒絶を。
ロビーを行き交う人々は、忙しなくスマートフォンの画面を覗き込み、自分たちが踏みつけているこの土壌に、かつてどれほどの血と熱狂が降り積もったかを知らない。彼らにとって、ここはただの便利な空間に過ぎないのだ。
世界から切り離されたような孤独の中で、彼女一人が、地層の底に閉じ込められた幽霊たちと、視線を交わし合っている。
フランチェスカは、ロビーの片隅にある深いソファに、己の老いた肉体を預けた。
八十代の肉体にとって、イタリアから極東へと至る長途の飛行は、鉛のような重力となって肩にのしかかる。
コートのポケットの中で、指先に触れる古びた紙の、ささくれ立った感触。つい先日、イタリアの屋敷に届けられたその手紙は、数十年の断絶を嘲笑うかのように、あまりに鮮烈な筆致で彼女の名を呼んでいた。
なぜ、今になって墓所の下から呼び声が届くのか。
その疑問こそが、彼女をこの「現在」という浮標に繋ぎ止める唯一の錨(いかり)であり、同時に、封印していた過去という深海へ引き摺り込む、死者の指先でもあった。
紙の端が指先に触れるたび、彼女の心臓は、枯れかけた井戸に石を投げ込まれたように、不自然な鼓動を刻む。
(……ああ、そうだわ。あの日も、空気はこれほどまでに、疼くように震えていた)
彼女は、静かに瞼を閉じた。
意識の輪郭が、熱を帯びた蜜のようにゆっくりと溶け出していく。映画のフィルムが映写機の熱で焼き切れるように、目の前の現在が白濁し、崩落した。
閉じた瞼の裏側に差し込んできたのは、二〇一三年の淡い冬日ではない。もっと暴力的で、逃れようもなく鮮烈な、一九三七年の太陽の輝きだった。
シベリア鉄道の果てしない単調に耐え、ようやく辿り着いた極東の帝都。
そこには、「日独伊防共協定」という名の危うい蜜月に酔いしれる、狂おしいほどの熱狂と、その裏側に潜む死の予感が、硝煙の匂いと共に渦巻いていた。
耳の奥で、現代の喧騒を浸食するように、ある旋律が蘇る。それは磨き上げられた軍靴が、威圧的な規律をもって床を叩く不協和音。
そして、視界を浸していくのは、現在の明るすぎる照明ではなく、空気中の埃さえも黄金に染め上げた、あの重苦しくも甘美な琥珀色の光だ。
意識の深淵で、若き日の彼女が、重い扉を押し開けて光の中へと踏み出していく。
「――お嬢様、ようこそ大日本帝國へ」
幻聴のように響いた、その低く静かな日本語。
彼女の魂は、黄金色に発光する記憶の淵へと、音もなく沈下していった。
────。
──。
一九三七年、十一月。帝都、帝国ホテル。
フランク・ロイド・ライトが執念を込めて組み上げた「東洋の宝石」は、今宵もまた、外交という名の冷徹な演劇を供する舞台と化していた。火山の吐息を封じ込めたような大谷石の壁面は、幾何学的な紋様を刻み込み、執拗なまでに深淵な陰影をフロアに落としている。
シャンデリアが放つ光は、磨き抜かれた床に散乱しては、軍服の金モールや淑女たちの胸元に踊るダイヤモンドと無機質な火花を交わし、そして消えていく。
ホールの空気は、むせ返るような香水の粒子と、脂ぎった葉巻の煙、そして幾つもの言語が折り重なる不協和音に満ちていた。
狂騒が深まれば深まるほど、フランチェスカの目には、それが崩壊を待つ砂の城の、最後の一刻を埋めるための無意味な儀式に見えてくる。
「……まるで、嵐の前の静けさね」
駐日イタリア大使の娘、フランチェスカ・ヴィスコンティは、手にしたクリスタルグラスの中で弾ける一筋の気泡を見つめ、誰に届くともなく呟いた。
外交官の娘として、言葉の裏側にある沈黙を読み解く訓練を受けてきた彼女にとって、この過剰なまでの喧騒こそが、来るべき破滅を隠蔽するための不自然な静寂に他ならなかったのだ。
母譲りの艶やかな黒髪と、地中海の底知れぬ深淵を写し取ったような碧い瞳。わずか十七歳。社交界に咲きこぼれたばかりの彼女を、大人たちは「ローマの真珠」と愛でた。
だが、彼らが彼女を無垢な器と信じて疑わぬ一方で、彼女の眼差しは、父から密かに受け継いだ冷徹な業(ごう)をもって、眼前の華やかな狂騒をすでに死者たちの列として数え上げていた。その碧い深淵の裏側で研がれた知性は、一振りの剃刀となって、時代の喉元を静かに狙っているのだ。
その刃の輝きを増すために、彼女がこの一年で選び取った研磨石は、異国の言語――日本語に他ならなかった。彼女にとってこの国の言葉は、情緒を交わすための手段ではなく、敵地の深度を測る計器であり、孤独という名の城壁を築くための武器だったのである。
「日独伊防共協定」
その祝宴の熱気は、彼女の目にはひどく空虚で、脆い皮膚のようなものに映る。
「上海の戦況が……」「南京への進撃も……」
軍服の男たちが日本語で交わす密やかな囁きは、祝祭のワルツを侵食する黒い壊死のようだ。自分を「言葉を持たぬ愛玩物」と信じて疑わぬ彼らの傲慢を、彼女は軽蔑を孕んだ沈黙で受け流していた。
「退屈ですか。それとも、この極東の祝宴は、あなたを満足させるにはいささか野蛮すぎましたか」
不意に背後から滑り込んできた声は、驚くほど流麗で、それでいて氷の硬度を保ったイタリア語だった。
フランチェスカが驚いて振り返ると、そこには夜の闇をそのまま裁断して仕立てたような、漆黒の燕尾服を纏った日本人の男が立っていた。
整えられた髪、彫りの深い輪郭。だが何より彼女を射抜いたのは、その完璧な発音以上に、周囲の狂信的な熱狂を徹底して拒絶する、凍てついた瞳だった。
「……失礼。独り言を盗み聞きする趣味はないのですが、あまりに鋭い警句だったので。シニョリーナ(お嬢さん)」
男は皮肉げに口角を歪めると、銀色のシガレットケースを指先で弄んだ。そこからは火の気配ではなく、白檀と古い紙、あるいは墓碑銘を思わせるような、静謐な死の匂いが漂う。
「嵐はもう、すぐそこまで来ています。その美しいドレスが、硝煙の煤に染まるのも、もはや時間の問題だ」
「……それは警告ですか? それとも、あなたの国の総意としての宣戦布告かしら」
フランチェスカは扇を静かに閉じ、男の瞳を真っ向から見据えた。意志を宿した細い指が、扇の骨をきつく握りしめる。男はふっと視線を窓の外、果てのない漆黒の闇へと投じた。
「ただの独白ですよ。……この国は今、美しい悪夢を見ている。世界を掌中に収め、永遠の繁栄を貪るという、救いのない夢をね。だが、夜明けと共に灰を被るのは、いつも夢に殉じすぎた者たちの側だ」
男は手の中の銀色のケースを、まるで不要になった過去を葬るように、音もなく燕尾服の隠しポケットへと滑り込ませた。空いたその両手には、もはや未練も火の気配も残っていない。
「……ダンスは、お好きですか?」
男が差し出した手は、白く、長く、人を殺めることも楽器を奏でることも自在にこなしそうな、不気味なほどの説得力に満ちている。
フランチェスカは一瞬、呼吸を止めた。天井の低い、圧迫感のある回廊を抜け、開放的なフロアへと導かれるその歩みは、まるで彼が予見する冷酷な未来へと引きずり込まれる、不可逆の儀式のように感じる。
「……音楽が止まるまでなら」
彼女が手を重ねた瞬間、男は無言のまま、確かな膂力で彼女を旋回させた。オーケストラが奏でるのは、ヨハン・シュトラウスの軽快なワルツ。だが、二人のステップは祝祭の法悦とは無縁の、凍りつくような静寂を纏っていた。
「お名前を、伺っても?」
「九条、とだけ」
彼は巧みな歩法で人々を斥ける。その瞳は、ワルツに興じる参謀たちを、戦火に焼かれるべき紙屑を眺めるような眼差しで見据えていた。
「九条……。あなたは、何と戦っているの? その瞳は、まるで世界すべてを敵に回しているようだわ」
「戦ってなどいませんよ、シニョリーナ。私はただ、手遅れになる前に幕を引く準備をしているだけだ。……もっとも、その幕さえも火に包まれることになるのでしょうが」
男の声は、音楽の奔流の中でも驚くほど明瞭に、彼女の鼓膜を震わせる。
ふいに、ダンスフロアの端で給仕に扮した若い男と視線が交差した。その若者は、九条とは対照的に、柔らかな、日だまりのような光を瞳に宿していた。一瞬の邂逅。若者はフランチェスカの碧い瞳に射抜かれたように足を止め、トレイをわずかに揺らした。
その時、九条の眉がわずかに動いた。氷のようだった彼の相好に、一瞬だけ、人間らしい戸惑いのような影が差したのを、彼女は見逃さなかった。
「……お気をつけて。美しい真珠は、泥の中でもその光を失わないが、それゆえに踏みにじられる運命にある」
曲が終熄へと向かう中、九条は彼女の耳元でそう囁いた。最後の一音がホールを揺らして消えた瞬間、九条は優雅に、しかし冷淡に一礼した。彼はそれ以上何も語らず、幾何学的な彫刻が落とす濃い影の中へと、幽霊のように飲み込まれていった。
残されたフランチェスカの手のひらには、彼の手が触れていた場所にだけ、刺すような冷たさが澱みのように残っていた。
彼女は喉を焼くような渇きを覚え、サイドテーブルへ向かった。
「お嬢様、よろしければこちらを」
控えめだが、秋の風のように涼やかな声。顔を上げると、先ほどの若い給仕がそこに立っていた。トレイの上には、クリスタルのグラスに満たされた透明な水が用意されている。
「……ありがとう(Grazie)」
フランチェスカは無意識に母国語を漏らし、それから慌てて、舌に馴染まぬ日本語を重ねた。
「……ありがとう。気が利くのね」
彼女の日本語は、硬貨が触れ合うような澄んだ響きを帯びていたが、どこか危うい異国のアクセントが混じっていた。
間近で見る若者は、やはり九条とは対極にある存在だった。
「……滅相もございません。お嬢様は、日本語がお上手なのですね」
若者は少し驚いたように目を丸くし、それから戸惑いを隠すように、陽だまりのような微笑を浮かべた。
「あの方は、ここ数日よくお見かけしますが。何と言えばよいのでしょうか、これほど華やかな場所にいながら、お一人だけ、別の冷たい場所を凝視していらっしゃるようで。先ほどお二人が踊られていたときも、あの方の周りだけ、火が消えたように……」
若者は適切な言葉が見つからないのか、あるいは言い過ぎを恐れたのか、そこで言葉を濁した。だがフランチェスカは、彼が抱いた得体の知れない予感を、自身の肌で既に理解していた。
「ええ。あなたの言う通りだわ。彼は、冬の夜そのものね」
彼女が微笑むと、若者は一瞬呆然としたように彼女を見つめ、それから慌てて会釈をして雑踏へ消えていった。
フランチェスカは一人、バルコニーへと続く窓を押し開けた。十一月の夜気は鋭く、露出した肩を刺す。
窓の外には、星一つない漆黒の天蓋が、重い鉛のように帝都を押し潰していた。
だがその地平の縁だけは、これから始まる劫火をあらかじめ映し出しているかのように、鈍く、赤黒い血のような熱を帯びて明滅している。
その不吉な照り返しを浴びて、ライト館の入り組んだ幾何学模様は、まるで生贄を閉じ込める巨大な鳥籠のような影を、バルコニーの床に落としていた。
九条が語った「美しい夢」と、その果てに降る「灰」。
フランチェスカは、手のひらに残る冷たさを握りしめ、二度と戻らぬ「静寂」の終焉を、静かに予感していた。
琥珀の残照 空飛ぶチキンと愉快な仲間達 @sabanomisoni0730
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