【短編怪談】タナトスの息
久保
タナトスの息
履き慣れないパンプスに辟易としながら、
私はもう一度、足を踏み出した。
改めて、初めて彼と話した日のことを思い出す。
彼───
私たちは同じ文学部で、
認知、神経、意識といった領域に関わる心理学研究を扱うゼミに所属していた。
彼と初めて言葉を交わしたのは、
大学二年生の夏に行われた、ゼミの懇親会だった。
正直に言えば、最初に彼を見たときの印象は、
決して良いものではなかった。
背中は少し丸く、服装は機能性優先で、流行とは微妙にずれている。
ゼミの初顔合わせの自己紹介の時も、早口な一方で語尾は曖昧で、
「心理学が好きです」という言葉だけが、やけに強調されていた。
──いわゆる、心理学オタク。
それが私の第一印象だった。
当時の私は、所属していた学園祭実行委員会の人間関係に疲れ切っていた。
大学二年生になり、後輩が入り、
先輩たちは引退し、執行代を引き継ぐ時期。
責任が増え、それに比例するように、
組織の中の歪みも肥大化していく。
面倒な役職は押し付け合われ、陰口は当たり前のように横行し、
誰も自分のこと以外は見ていないようだった。
実際私は、学園祭実行委員会の中でも、
特に仕事が多くて大変だと言われている「総務」という役職に就いていた。
委員会全体の運営管理。参加団体との連絡調整。
各団体から寄せられる、我儘とも取れる意見や不満の対応。
それらを、ほぼ一手に引き受ける立場だった。
総務に就いたのは、周囲からの多くの推薦があってのことで、
推薦されたときは、正直かなり浮足立ってしまった。
これまでの人生で、他人から推される、なんて経験が一度もなかったからだ。
けれど後になって、それが私の人望や能力を評価された結果ではなく、
ただ単に、
「私の学部は他より楽そうだから」
「私なら性格的に面倒な役職も断らなさそうだから」
という理由だったと知った。
裏では「便利の
偶然、立ち話を耳にしてしまったが故に。
しかも、そんな時期と重なるようにして、
小学生の頃から飼っていたラブラドール・レトリバーのらぶすけが、亡くなった。
私と一緒に成長をしてきた相棒が、
疲弊して帰宅した私を優しく迎え入れてくれる最高の癒しが、
何の前触れもなく、いなくなってしまった。
これらの出来事は、
思っていた以上に、静かに、確実に、
私の心を削っていった。
何のために生きているんだろう。
何でこんな目に遭わなきゃいけないんだろう。
湯船に浸かりながら、
そんな思いが頭をよぎることも、少なくなかった。
酒の酔いが回ってきていたこともあり、
私はそんな胸の内を、懇親会の席で、つい彼に話してしまったのだ。
彼は、
「かわいそうだったね」と同情することも、
「くよくよしていないで、今出来る行動を取った方がいいよ」と説教することもなく、
少し考えるような間を置いてから、言った。
────それは、死神の息がかかってるね。
想定していた言葉と違い過ぎる反応が返ってきて、
一瞬、頭が混乱した。
死神?
息?
私は、思わず彼の顔を見た。
「生きているとさ、立ち直れないくらい、落ち込むことって皆あると思うんだけど。
それについて、実は前から考えていることがあるんだ」
彼は、グラスを指先で転がしながら、
独り言みたいな調子で続けた。
「死後の世界──いわゆる冥界では、
死神たちによるゲームが行われているんじゃないか、ってね」
オタク特有の早口。
死神たちによるゲーム?
「ルールは、例えばこんな感じ。
死神一体につき、ターゲットにする人間を一人選ぶ。
そして、その人間に対し、『不幸な出来事』を与える。
その結果、その人間が自ら死を選ぶところまで追い込むことが出来たら、勝ち。
そんなゲーム」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「但し、一人の人間に与えられる『不幸』の量は、どの死神も基本的には同じ。
制限がなかったら、ひたすら不幸にすればいいだけだからね。
そんなんじゃゲームにならない。
限られた『不幸』リソースをどう配分するか。
どのタイミングで、どんな形で使うか。
それを考えながら、いかにターゲットの人間を、絶妙に、絶望させるか。
そんなことを、死神たちは競い合っているんだよ。きっと」
その場にいた数人は、みな呆気に取られていた。
冗談だと受け取っていいのか、
それとも、どう反応すればいいのか。
判断に迷っているように見えた。
その中で、私だけが。
変に、真剣に、話を聞いてしまっていた。
「死神によって『不幸な出来事が起きる』ことを、
僕は『死神の息がかかる』って呼んでる。
別府さんのさっきの話だって、まさにそうさ。あまりにも理不尽すぎる。
別府さんをターゲットにしている死神が、ここぞってタイミングで使ったんだろうね」
考えたこともないような話。
でも不思議と引き込まれる。
「…田中くんも、死神の息がかかったこと、あるの?」
気づいたら、そんなことを聞いていた。
「勿論、あるよ」
彼は、少しの間も置かずに答えた。
「僕の場合は、大学受験だね。
実は僕、一浪しているんだけど、現役時代は全落ちしたんだ。
模試だと全部A判定だったし、本番の手応えも全く悪くなかった。
なのに、結果は全滅。
親からも、『期待外れ』なんて言われちゃってさ。
こんなの、死神の仕業としか思えないだろ?」
…何故だろう。
こんなの、ただの自己正当化だ。戯言でしかない。
そんなことは分かり切っているはずなのに。
それでもどこか、あけすけなく話す彼の言葉に救われている自分がいた。
人間に降りかかってくる不幸の量は、誰しも等しい。
しかもその不幸ですら、死神たちが人間に自殺をさせるための、
しょうもないゲームに利用されているだけのものだ、と彼は言った。
無理やり押し付けられた、不条理に過ぎないのだと。
そう考えると、心がすっと軽くなる自分が、確かにいた。
気休めの慰めとか、教訓めいた説教なんかよりも、ずっと安心する。
「だからね」
彼は、少しだけ笑って言った。
「自殺してしまう人を見ると、
『死神の思い通りになってんじゃねーよ』、なんて思うんだよね。
俺はね、徹底的に戦うよ。
どんな『不幸』だろうがどんとこい、ってさ」
乱暴で、投げやりで、
理屈としてはどこか危ういはずの言葉。
それなのに、彼の声には、不思議と嘘がなかった。
私は、気が付けば彼に惹かれていた。
彼の話を、もっと聞きたかった。
何回か、私の方から食事に誘った。
理由なんて、後からいくらでも付け足した。
そして数か月後、私たちは、付き合うことになった。
彼の名前は「
私は彼を、ギリシャ神話の「死の神」の名前に因んで、「タナトス」と呼ぶことにした。
彼氏のことを死神呼びするのも、どうかと思ったけれども、
彼の方も、まんざらでもなさそうだった。
他にも彼はいくつか、面白い話をしてくれた。
例えば、心霊写真というのも、実は冥界の幽霊達によるゲームらしい。
手だけ写り込ませられたら十点。
顔までいければ三十点。
被写体の身体の一部を消せたら二十点。
そんな風に点数を稼ぎ、一定の点数を超えると、景品と交換出来るのだという。
(ちなみに景品は、自分が映った心霊写真を見た人間共の反応集、らしい。何だそれ)
これは私が前から不思議に思っていた、
「心霊写真、写り込むのは決まって手とか顔ばかりで、
何故か局部が写り込むことはない」問題にも説明がつくものだった。
────局部は幽霊界のコンプライアンス的にもNGで、減点対象。何なら罰金ものらしい。
くだらなくて、馬鹿みたいで、でもどこか妙に筋が通っていて、否定しきれない話。
こういう話を聞くのが、私はとても好きだった。
そこからは二人に嫌なことが起きたときも、
決まって、「死神の息がかかったね」と笑い合いながら、やり過ごすことが出来た。
私は、彼の考え方に、いつも救われていた。
だから、二年後に突然別れを告げられても、
私は耐えることが出来た。
他に、好きな人が出来たらしい。それだけ。
あまりにも唐突だった。
詳しい理由は、特に聞かなかった。
聞けば、より辛くなりそうだったから。
「…これも、死神の息がかかってるのかな」
そう呟いたけれど、彼は何も答えなかった。
それから、彼と連絡を取ることはなくなった。
彼との写真は全部消した。
LINEの履歴も迷ったけど、思い切って消した。
それでも私は、彼がくれた「死神の息」という考え方だけは、捨てなかった。
仕事で失敗しても、恋愛で上手くいかなくても、
「どうせ死神の息がかかってるんでしょ」
そう信じることで、どんな苦難にも立ち向かうことが出来た。
私は、決して、屈さなかった。
だから。
だからこそ、
私は、分からないのだ。
何故、彼は屈してしまったのか。
別れてから、五年が過ぎようとしていたとき。
知らせは、またも突然訪れた。
無断欠勤が三日続いた。
連絡が一切取れないことを不審に思った友人が家に訪れたが、応答はなし。
両親に連絡が入り、部屋の中に入ると、
首を括った状態で倒れている彼が発見されたという。
私は、信じられなかった。
全人類の中で、彼だけは、
自ら死を選ぶことはない。
そんな、確信に近い思い込みが、私の中にはあった。
自分の胸に、ぽっかりと穴が開いた感覚がした。
同時に、正体の分からない恐怖が、身体の内側からせり上がってきた。
そこまで考えていた彼が。
「死神の息」という逃げ道まで用意していた彼が。
自ら死を選ぶほど追い込まれるまでに、
一体、どんな絶望を見てしまったのだろうか。
私には到底想像もつかないほど、耐えがたい、
絶望に溢れた世界が、そこにはあったのだろうか。
実は今まで味わってきた絶望なんてものはほんのわずかで、
これから、もっともっと、死にたくなるほどの絶望が待ち受けているのだろうか。
その真相が少しでも知りたくて、私は通夜に参列した。
けれど、何も得ることは出来なかった。
ご両親は憔悴しきっていて、詳しい話を聞ける状態ではなかった。
棺の顔窓は、閉じられていた。対面も叶わなかった。
ただ、焼香を上げる際、
遺影の中で、久しぶりに彼の顔を見た。
懇親会で、初めて言葉を交わしたとき。
あの日の笑顔が、そのまま残っていた。
その笑顔を見た瞬間、
涙が、どうしても止まらなくなった。
記憶が、滝のように溢れて、蘇る。
言ってたじゃない。
俺は、徹底的に戦うって。
どんな『不幸』だろうが、どんとこい、って。
私、結構救われたんだよ。
君の言葉に。
あの日。
多分、覚えてないだろうけど。
あれから、私、見違えるほど強くなったんだよ。
なのにさ。
なんで。
まさに、今の君を見て、思うよ。
言わせてもらうけど。
死神の思い通りになってんじゃねーよ。
… でもね。
別にいいんだ。大丈夫。
だって。
これもどうせ、死神の息がかかってんでしょ?
ねぇ、タナトス。
君さ、死神になって、私をターゲットにしたりしないよね?
いいよ。別に。
受けて立ってやるから。
私は、絶対に、屈さないから。
そこから、見といて。
───あ、写真に写り込む方でも、全然いいよ。
いくらでも点数稼いでもらって。
そう心の中で話しかけて、最後に、遺影を一瞥した。
じゃあね。冥界でもお元気で。
斎場から出ると、強い風が吹いていた。
履き慣れないパンプスのせいで、
靴擦れを起こした足に、血が滲んでいた。
────もし、この先やるとしても。窒息はちょっと、嫌だな。もっと楽な方がいいな。
そんな考えが一瞬だけよぎって、
その後すぐに、消えた。
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