擦り寄るドロドロ
仕事を終わらせ、ホームで待つ私の前にゆっくりと止まる電車。見る限り乗客は少ない。座れてラッキーだ。
車内を見渡し、空いている7人掛けの椅子の真ん中に座る。
乗客は私以外に数人しか乗っていない。全員が背を丸め、ほぼ下を向く姿勢でスマホの画面だけを見ている。スマホの明かりが目立つせいか、いつも乗る電車に比べて車内が薄暗い気がした。
私もすることがなく手持ち無沙汰なのでカバンからスマホを取り出しウェブサイトをチェックしている。
画面の上部には通知を知らせるアイコンがいくつも並んでいる。母からの着信、留守電の録音記録、追い打ちのメッセージ、見る気もないのでスワイプして全部消した。
母からの着信によって減ったバッテリーアイコンが赤く点灯していた。
「帰るまで持たないな……」
ため息と一緒に出た一言と共にスマホを消した。やはりこの電車内は少し暗い。数少ない乗客はみんなスマホをを見ている。まるで、スマホ以外の何かを見ないようにしているかのようだ。
最終電車1本前、ガラガラの薄暗い電車……
目を合わせたらいけない何かが乗っている電車。朝、キラキラな高校生が話していた電車。
……まさかね。
都市伝説の電車を思い出し、私は他の乗客と同様、背を丸めうつむいて下を向く。ガタゴトと電車の走る音が聞こえる。その中にヒタヒタと一歩、また一歩と近づいてくる音がある気がした。
ヒタ…… ヒタ…… ヒタ……
気の所為じゃない。確実に近づく音がする。薄く目を開け音のする方に、姿勢はそのままで目だけ動かして見てみる。
見えるのは黒い影の様な脚。表面は濡れている様に光を反射している。ゆっくりゆっくりと私のいる方へ近づいている。
『何あれ? 人?』
脚が私の直ぐ目の前まで近づいた。真上から見下ろされている視線を感じる。
怖い!
何だか分からないけど見るだけでも不快になるものがそこにある。得体のしれないものが側にいる。それだけで心臓が激しく早くなっていく。
影は私の様子を窺うように目の前でじっとしている。電車が走る音の隙間から、「こっちに来るな」と言う他の乗客の声が遠くに聞こえていた。
しばらくして私に向いていたつま先が動き、くるりと向きを変える。頭上から振り下ろされる刺さるような視線も外れた気がした。
『やっと、どっか行ってくれた』
安心した瞬間、隣の席がズシンと大きく沈んだ!
さっきのやつがすぐ横に座ったんだ。ビッタリと私のすぐ真横に。
湿った空気を纏った生温い何かが私に擦り寄るようにそこにいる。
ヤツは私の耳に近づいて唸るような声をあげた。
「ミナ…モト…サン、ソンナ…コト…モ、デキナインデスカ?」
「ミナモト……サン、キョウモ…ザンギョウ、ナンデス、カ?」
耳元で囁かれたそれは昼いつも聞いている不快なあれだった。自分のミスをなすりつける上司。人に仕事押しつけるお局。そいつらの声の内容そのままだった。
「ルリ…チャン、コンドハ、チャントヤッテヨ」
おまけに母の声までしてくる。
『もう、どっか行ってよ。こんなとこまでついてこないで! 早く! 早く消えて!』
耳を塞いでうずくまる。それでもさっきのヤツは私のそばから離れない。同じ車内にいた乗客も助けてくれない。早く。早くどこか行って!
祈るようにうずくまって耳を塞いでいたらドロドロした手が私の手首をつかんできた。塞いでいる手を強引に剥がしにきた。
「ミナモトサン、ハナシハ、チャント…キイテ」
不快なぬめりと生温かい手が私の腕を掴んでいる。
「すみません。離してください。やめてください!」
手を掴んできたそれに必死になって抵抗したが、それは一向に離してくれない。ドロドロとした黒い人影のようなものは全く離れない。
「すみません! ホント離して!」
ずっと私の癖になってしまっている“すみません”をこんな不快なヤツにも付けてしまっている。
強引な力で引っ張られ、私は座っていた席から立たされてしまった。それでも引っ張るそいつを直接見たくなくて視線を横に逸らした。その先にある窓には酷い顔をしたみっともない私が映っていた。
私はいつから傷つかないことだけを考えるようになったのだろう。
嫌な事から目を背け、怖い事があれば見つからないように身を屈めた。
傷つかないように逃げる方法を考えるだけ。
そんな事で本当に傷つかなかったのか?
いいや、違う!
傷つけられる前にぶっ飛ばせば良かったんだ!
「うぉぉぉぉぉりゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
全身の力を一点に込めるように思いっきり握り締めた拳を振り抜いた。
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