第6話 肌色の絆創膏
午後のオフィスに戻ると、明里は黙々と仕事を再開した。
メールの返信、資料の作成、データの入力。 単調な作業の繰り返し。でも、それが心地よかった。余計なことを考えずに済むから。
三時を過ぎた頃、コピー機の前で立ち止まっていると、背後から気配がした。
「小日向さん」
振り返ると、蓮見がいた。 片手に、小さな箱を持っている。
「これ、良かったら」
差し出されたのは、絆創膏だった。 肌色の、ごく普通の絆創膏。
「え……」
「さっき、隠したでしょ?」
蓮見の声は、責めるようなトーンではなかった。ただ静かに、事実を述べるように。
「指、痛そうだったから。ささくれ、引っかけたんじゃない?」
明里は言葉を失った。
(見て——いたんだ)
給湯室で、必死に手を隠そうとしていたこと。 袖の中に引っ込めて、見られないようにしていたこと。
全部、気づいていた。
「あ、あの……」
恥ずかしさで、顔が熱くなる。 明里は俯いて、自分の足元を見つめた。
「隠さなくていいのに」
蓮見の声が、優しく降ってくる。
「僕は——その手、頑張ってて綺麗だと思うよ」
「——え?」
明里は顔を上げた。
「あ、いや、変な意味じゃなくて……仕事してる手だなと思って。僕は、そういう手、綺麗だと思うよ」
蓮見は、穏やかに微笑んでいた。 お世辞を言っている顔ではない。何かを誤魔化している顔でもない。ただ、本当にそう思っている、という顔。
でも、明里の頭は違う解釈をした。
(慰めてくれてるんだ)
(優しい人だから、傷つけないように言ってくれてるんだ)
こんな荒れた手が、綺麗なわけがない。 ささくれだらけで、爪も短くて、ネイルもしていない、手入れを放棄した手。
蓮見は優しいから、そう言ってくれているだけ。
「そ、そんなことないです!」
明里は首を横に振った。
「全然、綺麗じゃないです。お恥ずかしいところをお見せして、すみません。あの、これ、ありがとうございます」
絆創膏の箱を受け取り、明里は逃げるようにその場を離れた。
蓮見の声が、背中に追いかけてくる。
「小日向さん——」
振り返らなかった。 振り返れなかった。
こんな自分を「綺麗」だなんて言われたら、期待してしまう。 「もしかしたら」なんて、馬鹿な夢を見てしまう。
だから、信じない方がいい。 最初から期待しない方が、傷つかずに済むから。
***
定時を過ぎても、明里のデスクには人の気配があった。
「小日向さん、これ明日の朝イチで必要なんだけど、お願いできる?」
「あ、はい。大丈夫です」
断れない性格が災いして、また仕事を押し付けられてしまった。
他の社員たちは次々と帰っていく。後輩の吉田さんも、「お疲れ様でーす!」と明るく手を振って退社していった。
(……帰りたいな)
心の中で呟きながら、明里は黙々とキーボードを叩き続けた。
気がつけば、時計の針は二十一時を指していた。
フロアにはもうほとんど人がいない。 照明も半分ほど消されていて、昼間とは違う静けさが漂っている。
「……やっと終わった」
大きく伸びをして、パソコンをシャットダウンする。
ふと、フロアの奥を見ると、蓮見のデスクにまだ明かりが灯っていた。
(……蓮見先輩、まだ残ってる)
立ち上がりかけて、少しだけ躊躇う。 でも、素通りするのも失礼な気がして、明里は彼のデスクへと向かった。
「あの、お疲れ様です。お先に失礼します」
蓮見は顔を上げて、少し驚いたように目を丸くした。
「小日向さん、まだいたの? もう九時過ぎてるよ」
「あ、ちょっと頼まれ仕事が……。先輩こそ、遅くまでお疲れ様です」
「ああ、これはもう少しで終わるから」
蓮見は眼鏡を外し、目元を揉みながら微笑んだ。 蛍光灯の下で、彼の顔にも疲労の色が滲んでいる。
「疲れたでしょう。ゆっくり休んでね」
(……また、その言葉)
明里は曖昧に頷いて、足早にオフィスを後にした。
***
エレベーターの中。
明里は、金属の壁に映る自分の顔をぼんやりと見つめていた。
(疲れただろうから、か……)
蓮見の言葉が、胸の奥で反響している。
(そんなに疲れた顔してたかな……)
きっと、酷い顔だったのだろう。 化粧も落ちて、目の下にクマができて、髪も乱れて。 「女として終わってる顔」を、見られてしまった。
ポケットの中の口紅に、指先が触れる。
(……やっぱり、湊に返そう)
こんなもの、私には似合わない。 塗ったところで、疲れた顔が余計に惨めになるだけだ。
絆創膏は、ポケットの中にある。 蓮見にもらった、肌色の絆創膏。
(優しい人だな)
でも、それだけだ。 あの人の優しさは、誰にでも向けられるもの。 私だけが特別なわけじゃない。
明里はスマホを取り出し、湊に短いメッセージを送った。
『今から行ってもいい?』
返信は、すぐに来た。
『いいよ。待ってる』
明里は深く息を吐いて、夜の街へと歩き出した。
新宿二丁目へ。 親友が待つ、あの店へ。
指先に巻いた絆創膏が、微かに温かかった。でも、この温かさは私だけのものじゃない。誰にでも優しい彼の、気まぐれな温かさだ。
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ミラー・コンプレックス 蒼井モノ @a013020_o4n4
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