第13話 日常への帰還と、冷めた熱
廃棄坑道のあるエリアを離れ、電車に揺られること三十分。
駅の改札を抜けると、そこはいつもの見慣れた日常だった。
会社帰りのサラリーマン、楽しげに歩く学生、スーパーの袋を下げた主婦。
ネオンサインが瞬き、街頭ビジョンからはダンジョン関連のニュースが流れている。
『本日、千葉県のCランクダンジョンにて大手クランがスタンピードを鎮圧し――』
行き交う人々は、それを天気予報と同じ感覚で聞き流している。
誰もが、無防備な背中を晒して歩いている。
数十分前まで、殺すか殺されるかの殺伐とした空間にいたことが嘘のようだ。
「……ふぅ」
僕は人混みに紛れながら、小さく息を吐いた。
ロングコートの内側に隠した二本の剣――『守護者の牙剣』と『銀蜂』の硬質な重みだけが、あそこで起きたことが現実だと告げている。
アドレナリンが引いていくにつれ、全身に鉛のような疲労感がのしかかってきた。
ダンジョンの攻略自体よりも、その後の対人戦での神経の消耗が激しい。
肉体的な疲れというよりは、精神的な摩耗だ。
レベルが16に上がり、肉体は強化されているはずなのに、脳の奥が痺れるように熱い。
(死んで、戻って、殺し返して……)
冷静に考えれば、狂っている。
一度殺された相手の動きを記憶し、数時間前に戻って、今度は顔色一つ変えずに逆に追い詰める。
客観的に見れば、異常者の行動だ。
だが、その狂気を受け入れなければ、この理不尽な世界で「持たざる者」が這い上がることはできない。
僕は駅前の自動販売機で冷たいブラックコーヒーを買い、一気に流し込んだ。
強烈な苦味とカフェインが、現実感を取り戻させてくれる。
すれ違うカップルが、楽しげに笑い声を上げている。
彼らは知らない。
ニュースで流れる「モンスターの脅威」なんてものは表層的な情報でしかないことを。
その裏側で、ハンター同士が餌を奪い合い、平然と殺し合いをしているドロドロとした現実があることを。
「……疲れた」
僕は空になった缶をゴミ箱に投げ入れ、アパートへの道を歩き出した。
世界は平和なままだ。少なくとも、この街の地上だけは。
築三十年の木造ボロアパート。
その二階の一室が、僕の「拠点(セーフハウス)」だ。
鍵を開け、ドアを閉め、チェーンをかけ、さらにドアノブに魔物除けの鈴を吊るす。
靴を脱いで部屋に上がり、重たいリュックを床に下ろした瞬間、ようやく本当の意味で肩の力が抜けた。
狭いワンルーム。
安物のベッドと、書類が散乱したローテーブルがあるだけの殺風景な部屋。
だが、ここにはモンスターも、悪意あるハンターもいない。
僕はまず、シャワーを浴びて血と汗と埃を洗い流した。
熱い湯が身体の強張りを解いていく。
鏡に映る自分の体を見る。
以前よりも筋肉が引き締まり、腹筋のラインが浮き出ている。腕や胸には、今回の探索で負った細かな擦り傷があるが、レベルアップの恩恵か、すでにかさぶたになり始めていた。
レベル16。
ハンターとしての能力値は、すでに一般人のそれを遥かに超えてしまった。
五感は鋭敏になり、シャワーの水滴が落ちる音さえ鮮明に聞こえる。
この感覚のズレ(・・・)に慣れていかなければならない。日常で誤って力を使いすぎれば、生活が破綻する。
風呂上がり、冷蔵庫から缶ビールと適当なツマミを出して腹を満たすと、僕は今日の「戦利品」の整理を始めた。
これがハンターにとって、最も楽しみな時間であり、最も重要な業務だ。
リュックの中身をテーブルに広げる。
・コボルトの牙、毛皮などの素材多数
・コボルト・ジェネラルの魔石
・マイン・オーガの魔石(大)
・ポーション類(西条のマジックバッグから押収)
・解毒薬、研磨剤、携帯食料などの消耗品
部屋の中に、わずかに鉄錆と獣の臭いが充満する。
素材の保存状態は悪くない。
そして、メインディッシュ。
僕は『守護者の牙剣』と、奪い取った魔法剣『銀蜂』を並べた。
黒と銀。対照的な二振りだ。
『守護者の牙剣(ファング・ダガー)』は、相変わらず禍々しくも美しい黒光りを放っている。
手に馴染み、まるで体の一部のように魔力が通る。やはりこれが僕のメインウェポンだ。耐久値もまだ余裕がある。
対して、『銀蜂(シルバー・ビー)』。
大手クランの幹部候補が使っていた特注品だけあって、造りは精巧だ。
刀身はミスリルを混ぜた合金製で、柄には小さな緑色の魔石が埋め込まれている。
「……【構造看破】」
僕はスキルを発動し、剣の内部構造を視る。
物質の「線」と「点」が浮かび上がる。
(なるほど。刀身の中空部分に風属性の魔力回路が刻まれているのか)
魔力を流すと、この回路を通って刀身の周囲に空気の層が生まれる仕組みだ。
空気抵抗を極限まで減らし、刺突速度を加速させる。
単純だが、職人の技術が詰まった良い剣だ。
「……悪くない」
僕は左手で『銀蜂』を握ってみた。
少し柄が太いが、許容範囲だ。
『双剣士』のスキル補正のおかげで、利き手ではない左手でも違和感なく扱える。
軽く振ると、ヒュンッという高い風切り音が鳴った。
牙剣で受け、銀蜂で突く。
あるいは銀蜂で牽制し、牙剣で断つ。
脳内でシミュレーションを行う。
西条との戦闘で得た経験値が、そのまま僕の技術として定着しているのが分かる。
二刀流(デュアル)。
攻守のバランスが良く、手数で圧倒できるスタイル。
だが、課題もある。
両手が塞がるため、アイテムの使用や、とっさの掴み合いに弱い。
それに、遠距離攻撃の手段がない。
ナイフ投擲は牽制にはなるが、決定打には欠ける。空を飛ぶ敵や、遠くから魔法を撃ってくる敵には相性が悪い。
(次の課題は『遠距離手段』の確保か……)
魔法を覚えるか、あるいは弓か銃か。
いずれにせよ、金がかかる。
僕はスマホを取り出し、ハンター専用のマーケットアプリ『ハンターズ・マーケット』を起動した。
魔石や素材の相場を確認するためだ。
「……オーガの魔石、平均取引価格は30万前後か」
画面をスクロールする。
コボルトの素材も合わせれば、今日の稼ぎは合計で50万近くにはなりそうだ。
同年代の会社員の月収の倍近い額が、たった一日で手に入ったことになる。
だが、僕はすぐに現実に引き戻された。
同じアプリの「オークション」タブをタップした時だ。
トップページに、目玉商品として表示されていたアイテム。
【スキルブック:『火球(ファイアボール)』】
【現在価格:1,200万円】
「……は?」
思わず声が出た。
初歩的な攻撃魔法のスキルブックが一冊で1000万超え。
その下にある【希少級(レア)防具:ワイバーンの革鎧】に至っては、3000万の値がついている。
桁が違う。
この世界で「強くなる」ためのアイテムは、札束で殴り合うような価格で取引されているのだ。
ダンジョンのドロップ率が極端に低い「スキルブック」は、金持ちクランが血眼になって買い漁るため、一般ハンターには手が出ない高嶺の花だ。
「50万なんて、端金(はしたがね)だな……」
装備のメンテナンスとポーションの補充で消えてしまう額だ。
強くなるには金がいる。金を稼ぐには強さがいる。
その循環を高速で回すしかない。
僕には「ロード」がある。死ぬリスクを回避できる分、他のハンターよりも効率的に「危険な狩場」に挑めるはずだ。
次の目標は、Cランクダンジョン『水没都市』。
だが、そこで一つの現実的な問題にぶつかる。
「積載量(インベントリ)」の限界だ。
Cランクの魔物は素材一つ一つが大きく、重い。ソロで潜った場合、すぐにリュックが一杯になってしまう。
かといって、戦闘中にリュックを抱えたままでは動きが鈍る。
効率よく稼ぐには、戦利品を管理し、運搬してくれる「専門職」が必要だ。
「荷物持ち(ポーター)か……」
口が堅く、余計なことを詮索せず、安く使える人間。
そんな都合のいい相手がいるだろうか。
僕はスマホのアラームをセットし、布団に潜り込んだ。
明日は買取屋に行って、それから次の「狩り」の準備だ。
西条たちは、今日の恥辱を誰にも言えず、内々に処理したのだろう。
「ランク12の底辺ハンター」と「ランク40台を瞬殺した双剣使い」が結びつくはずがない。
僕は思考を切り上げ、深い眠りへと落ちていった。
翌朝。
僕は日課のトレーニングを済ませると、少し遠回りをして『柳商会』の暖簾をくぐった。
開店直後の店内は、埃っぽい古書の匂いがした。
「いらっしゃい……って、またあんたか」
カウンターの奥で新聞を読んでいた店主の柳が、眼鏡越しに呆れたような視線を向けてくる。
まだ数日しか経っていない。常連というには早すぎる再訪だ。
「今日は何の用だ? 装備の不具合なら、メーカー保証はついてないよ」
「いえ、買取をお願いしたくて」
僕はリュックをカウンターに置き、中身をドサドサと取り出した。
大量のコボルトの毛皮。牙。
そして、ゴロリと転がる赤黒いオーガの魔石。
「……ほう」
柳の目が、一瞬だけ鋭く光った。
彼は新聞を畳み、魔石を手に取って鑑定用のルーペを覗き込む。
その手つきは、ただの古道具屋の親父のものではない。かつて裏社会で鳴らしたという噂も、あながち嘘ではないのかもしれない。
「マイン・オーガの魔石だね。それも、かなり純度が高い。傷ひとつない綺麗な処理だ。……『廃棄坑道』のボスか」
「ええ、まあ。運良く死体を見つけまして」
僕は嘘をついた。
柳はジロリと僕を見たが、すぐに口元を緩めた。
「そういうことにしておこうか。あそこは昨日、大手クラン『銀百合』が新人の研修で占有してたって噂を聞いたがね。……まあ、詮索は野暮か」
柳はそれ以上聞かず、手際よく計算機を叩き始めた。
こういう所が、この店を信用できる理由だ。
彼は「品物」には興味を持つが、「経緯(ストーリー)」には興味を持たない。
「全部で52万だ。……低ランクハンターの稼ぎにしては多すぎる額だが、どうする? 振込にするかい?」
「現金でお願いします」
「はいよ」
札束が入った茶封筒を受け取る。
重みがある。命の重みだ。
これがあれば、当面の活動資金には困らない。
僕は封筒を内ポケットにしまい、店を出ようとした。
だが、ふと足を止めた。
ドアノブに手をかけたまま、振り返る。
柳は顔が広い。ダメ元で聞いてみる価値はあるかもしれない。
「あ、そうだ。柳さん」
「まだ何か?」
「人を探してるんですけど……最近、どこかで『荷物持ち(ポーター)』の募集ってしてませんか? ちょっと、手伝ってほしい案件がありまして」
柳は少し考え込み、顎を撫でた。
「ポーターねぇ……。最近はなり手が少なくてね。みんな一発逆転を夢見てアタッカーになりたがるから。荷物持ちなんて地味な仕事、誰もやりたがらないよ」
「……ですよね」
「ただまあ、一人だけ心当たりはあるな」
柳は苦笑し、一人の男の顔を思い浮かべるように言った。
「いっつも売れ残ってる男がいてね。真面目だけが取り柄で、魔力測定値はそこそこ高いのに、スキルの発現が遅くてアタッカーになれない。だから万年ポーター扱いの……名前は確か、三浦だったかな」
三浦。
聞き覚えのある名前だった。
間違いない。僕が最初に入った臨時パーティで、僕と一緒に荷物持ちをさせられていた男だ。
おどおどしていて、気が弱くて、いつも損な役回りを押し付けられていた。
「あいつ、まだ辞めてなかったのか」
思わず口に出た。
あの時、三浦は震えながら言っていた。「ハンターは辞めない」と。
てっきり強がりだと思っていたが。
「……そうですか。もし見かけたら、声をかけてみます」
僕は短く礼を言い、店を出た。
その後、僕は情報収集のために『ハンター管理局』の東京支部に足を運んだ。
一階のロビーには、仕事にあぶれた低ランクハンターや、パーティメンバーを募集する掲示板の前でたむろする連中がごった返している。
熱気と、安っぽいタバコの臭い。
ここには「夢」と「現実」が入り混じった独特の空気がある。
僕は目立たないように壁際のベンチに腰を下ろし、端末でCランクダンジョンの情報を検索し始めた。
次の目標は、Cランク『水没都市』。
そろそろソロでの活動に限界を感じ始めていた。
戦力的な問題ではない。単純な「効率」の問題だ。
素材の回収、ポーションの管理、周囲の警戒。
全て一人でやるには手間がかかりすぎる。
「あーあ、マジ最悪だよなー」
「だよなー、あいつマジ使えねーし」
不意に、隣の喫煙エリアから話し声が聞こえてきた。
安っぽい装備の若手ハンターたちが、缶コーヒーを片手に愚痴をこぼしている。
「あの三浦ってポーターさ、またドジ踏んでパーティ追い出されたらしいぜ」
「ギャハハ! マジ? あいつハンター向いてねーよな。魔力だけはあるくせに、ビビリだから魔法撃てないとか終わってるわ」
「しょうがねーだろ、親父さんのせいで借金まみれらしいし。どんな仕事でもしがみつくしかねーんだよ」
三浦。
またその名前だ。
僕は操作していた指を止め、会話に聞き耳を立てた。
親の借金。
そういえば、最初のパーティの時もそんな話をしていた気がする。
だからこそ、どんなに馬鹿にされても、危険な目に遭っても、ハンターを辞められない。
辞めると言えないのだ。
「……」
ビビリで、攻撃魔法が撃てない。でも魔力はある。
そして、金のためにどんな汚れ仕事でも引き受ける切迫した事情(弱み)がある。
僕の脳内で、計算が走る。
今の僕に必要なのは、Cランクへ行くための「雑用係」だ。
自己主張が強く、取り分の配当で揉めるようなアタッカーはいらない。
言うことを聞き、裏切らず、ただ荷物を持ってついてきてくれればいい。
三浦なら条件に合う。
借金があるなら、相場より少し高い報酬を提示すれば確実に食いつく。
それに、彼には「魔力」がある。
今は荷物持ちしかしていないが、その魔力を別の用途――例えばアイテムの使用や、単純な魔力供給源として使えれば、ただの荷物持ち以上の価値が出るかもしれない。
悪くないプランだ。
少なくとも、見ず知らずの野良ハンターを雇うよりは、事情を知っていて扱いやすい彼の方が、僕にとっても都合がいい。
「……まずは、接触してみるか」
僕は端末をポケットにしまい、立ち上がった。
ロビーの喧騒が、少しだけ心地よく感じられた。
日常は退屈だが、準備期間としては悪くない。
次は、この「管理局」という人混みの中で、三浦という名の「便利アイテム」を探すとしよう。
僕は久しぶりに、狩場へ向かう時のような微かな高揚感を感じながら、掲示板の方へと歩き出した。
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