第10話 黒の外套と、最初のソロ攻略
三日後。
約束の時間に合わせて『柳商会』の重い扉を開けると、そこには異様な熱気が籠もっていた。
鉄を打つ熱と、研磨剤の匂い。
カウンターの奥で、柳爺さんが最後の手入れを終え、ウエスで刃を拭っているところだった。
「……来たか、坊主」
爺さんの声は嗄れていたが、その瞳はギラギラと輝いている。
目の前には、黒いベルベットの布が敷かれていた。
「いい素材だったぜ。守護者の甲殻ってのは、鉄より硬いくせに魔力を通すと生物みたいに脈打ちやがる。加工するのに骨が折れたが……その分、とびきりのモンが出来た」
爺さんが布をめくる。
そこには、一振りの短剣(ダガー)と、黒いコートが鎮座していた。
「まずは武器だ。『守護者の牙剣(ファング・ダガー)』とでも名付けておけ」
僕は震える手でそれを手に取った。
軽い。
見た目の重厚さに反して、羽毛のように軽い。
刃渡りは25センチほど。刀身は闇夜のように黒く、光を吸い込むような艶消しの質感だ。よく見ると、刃の表面には血管のような赤い紋様がうっすらと浮かんでいる。
「グリップには衝撃吸収材を噛ませてある。刃は守護者の牙を芯にして、甲殻を何層にも重ねて鍛造した。鉄なんかじゃねえ、これは『魔力の塊』だ」
軽く振ってみる。
ヒュンッ、と空気が鳴く音すらしない。あまりにも鋭利すぎて、空気抵抗すら切り裂いているようだ。
試しに、意識して魔力を込めてみる。
ドクン、と掌から脈動が伝わった。僕のわずかな魔力が、抵抗なく刃先まで浸透し、切っ先が赤く発光する。
「す……すごい」
言葉が出なかった。
前のサバイバルナイフとは次元が違う。これは道具じゃない。僕の神経と繋がった、身体の一部だ。
「防具はそっちだ。『黒影(こくえい)のコート』。表地はアラミド系の特殊繊維だが、裏地には守護者の甲殻繊維を織り込んで防御力を底上げしてある。多少の刃物や銃弾なら通さねえし、熱にも強い」
爺さんがニヤリと笑う。
「何より、気配を殺すのに特化してる。闇に溶け込むにはうってつけだ」
僕はコートに袖を通した。
身体に吸い付くようなフィット感。フードを深く被ると、視界は確保されているのに、外からは顔が完全に見えなくなる。
鏡に映った自分の姿は、ランク12の荷物持ちには見えなかった。
死神。あるいは、闇に潜む処刑人。
少なくとも、真っ当なヒーローの姿ではない。
「……完璧です。想像以上だ」
「おうよ。代金分の仕事はしたつもりだ」
爺さんは満足げに鼻を鳴らした。
僕は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……行ってきます」
「ああ。死ぬんじゃねえぞ」
その言葉を背に、僕は店を出た。
外の空気は冷たいはずなのに、今の僕には心地よい涼しさにしか感じられなかった。
腰には牙剣。背には黒影。
準備は整った。
向かったのは、都心から少し離れた『Dランク・廃棄坑道』。
かつての地下鉄工事現場がダンジョン化した場所で、入り組んだ地形と暗闇が特徴だ。
ソロでの隠密行動を試すには、これ以上ない舞台だった。
管理局の受付カウンターに、登録証を出す。
ここまではいつも通りだ。だが、ここからが違う。
「入坑手続きをお願いします」
受付の女性職員が、事務的にカードを受け取り――そして、眉をひそめた。
モニターに表示された僕のランクを見たからだ。
「あの……朝霧さん? ここはDランク指定ですよ。あなたのランクは12……Fランク相当ですが」
「知っています。ソロでの潜行許可を」
「いえ、規則では禁止されていませんが……危険すぎます。最低でもランク20以上の3人パーティが推奨されています。死にに行くようなものですよ?」
職員の声には、明らかな呆れと、少しの軽蔑が混じっていた。
身の程知らずの自殺志願者を見る目だ。
その時、後ろから野太い声がかかった。
「おいおい姉ちゃん、通してやんなよ。死にたい奴は死なせてやるのが慈悲ってもんだろ?」
振り返ると、いかにも柄の悪そうな3人組のハンターが立っていた。
リーダー格の男はランク40。ニヤニヤしながら僕の新しい装備を品定めしている。
「へぇ、装備だけは一丁前じゃねえか。どっかの坊っちゃんが親の金で揃えたコスプレか? 悪いことは言わねえ、そのコート置いて帰んな。中で死んだら俺らが剥ぎ取ることになるぜ?」
下卑た笑い声。
以前の僕なら、恐怖で縮こまり、媚び笑いを浮かべていただろう。
だが、今は違う。
こいつらは敵じゃない。モンスターですらない。ただの背景だ。
僕は男の目を真っ直ぐに見つめ返した。
無言で。
ただ、少しだけ殺気を混ぜて。
「……あ?」
男の笑顔が引きつった。
僕の瞳の奥にある、本物の「死」の匂いを感じ取ったのかもしれない。
男はたじろぎ、視線を逸らした。
「チッ、なんだよ……気味の悪ぃガキだ……」
彼らはバツが悪そうに離れていった。
僕は再び受付に向き直る。
「自己責任で構いません。通してください」
僕のあまりにも淡々とした態度に、職員は毒気を抜かれたように溜息をついた。
「……分かりました。誓約書にサインを。何があっても管理局は責任を負いませんからね」
サインを済ませ、ゲートをくぐる。
背後で「あーあ、明日の朝には死体回収か」という声が聞こえたが、僕は振り返らなかった。
ゲートを抜けると、そこは湿った闇の中だった。
崩れかけたコンクリートの壁。天井から垂れ下がる錆びた鉄骨。
遠くで、キィキィという魔物の鳴き声が反響している。
僕はフードを目深に被り直した。
ここからは、誰の目もない。
ランク12の「朝霧透」である必要はない。
「……ふぅ」
息を吐き、意識を切り替える。
スキル発動。
【気配遮断Lv1】
フッ、と世界から僕の存在感が希薄になる。
足音が消え、呼吸音が闇に溶ける。
心臓の鼓動すら、コントロール下にある感覚。
歩き出す。
暗視ゴーグルなんて必要ない。
Lv10のステータスと、【暗殺者】の補正が、暗闇を「視える」ものに変えている。
空気の流れ、地面の微細な振動、臭い。
それらが複合的な情報となって、脳内にマップを描き出していく。
(……前方、30メートル。敵影2)
角を曲がった先に、人影があった。
身長150センチほど。土色の肌に、長い耳。粗末な棍棒を持った亜人。
『コボルト・ワーカー』。
Dランクダンジョンの雑魚だが、集団戦法と鼻の良さが厄介な相手だ。
以前の僕なら、この距離で見つかっていただろう。
だが、奴らは気づかない。
互いに何かを喋りながら、無警戒に背中を向けている。
(試してみるか)
僕は音もなく近づいた。
一歩、二歩。
地面の瓦礫を避ける必要すらない。足が勝手に、音の出ない場所を選んでいる。
これがアサシンの本能か。
距離、5メートル。
ここでスキルを重ねる。
【構造看破】
視界がモノクロームに沈み、コボルトたちの身体に赤いラインが走る。
首筋。心臓。脊髄。
生物としての「脆い」部分が、発光して主張している。
(そこか)
僕は地面を蹴った。
【瞬発強化】。
爆発的な加速。けれど、音はない。
黒い風となって、コボルトたちの背後に肉薄する。
抜き放つ。
『守護者の牙剣』が、闇の中で黒い軌跡を描く。
ザンッ!
抵抗感は、皆無だった。
豆腐を切るよりも容易く、右側のコボルトの首が飛んだ。
血飛沫が上がるよりも早く、僕は身体を回転させ、左側のコボルトの心臓へと刃を突き立てる。
「ギャッ……!?」
悲鳴すら上げさせない。
肋骨の隙間。心臓の動脈。一点の狂いもなく貫通し、刃から流し込んだ魔力が心臓を内側から破壊する。
コボルトは白目を剥き、糸が切れたように崩れ落ちた。
二体同時撃破。
所要時間、0.8秒。
「……すごい」
僕は自分の手を見た。
血が一滴も付いていない。刃が血を弾いているのだ。
そして何より、僕自身の動き。思考と動作にラグがない。
「殺す」と思った瞬間には、もう敵が死んでいる。
これが、Lv10の世界。
これが、特注装備の力。
高揚感が湧き上がる。
やれる。これなら、このダンジョンの奥まで行ける。
順調だった。
道中に現れる『ジャイアント・バット』や『ロック・リザード』も、相手にならなかった。
感知される前に接近し、急所を一撃で断つ。
正面から戦えば硬いリザードの鱗も、【構造看破】で見える「鱗の隙間」に刃を通せば紙切れ同然だった。
さらに進むと、通路の真ん中に不自然なタイルの隆起があった。
【構造看破】を通して見ると、その下に細いワイヤーが張り巡らされているのが見える。
爆発罠(トラップ)だ。
以前なら気づかずに踏んでいただろう。あるいは、三浦のような生贄を使わされていただろう。
だが今は、その構造すら手に取るように分かる。
僕は起爆装置に繋がる魔力回路をナイフの先で切断し、無効化した。
敵を殺し、罠を外し、道を切り開く。
経験値が入ってくる感覚はない(死んだ時の精算だからだ)が、身体が動きを学習していくのが分かる。
殺せば殺すほど、動きが洗練されていく。
だが、中層エリアに差し掛かった時、状況が変わった。
広場のような空間に出た。
そこには、焚き火を囲んでたむろする集団がいた。
『コボルト・ソルジャー』の群れだ。
数は8体。
しかも、粗末な棍棒ではなく、錆びた剣や盾、槍で武装している。
そしてその中央には、一回り大きな体躯を持つ『コボルト・ジェネラル』の姿があった。
(……多いな)
僕は物陰に隠れ、状況を分析する。
迂回ルートはない。ここを通らなければ、ボス部屋へは行けない。
やるしかない。
僕は呼吸を整え、飛び出した。
奇襲。
見張り役の二体の首を、すれ違いざまに刎ねる。
「グギャアアアッ!!」
敵の反応が速い。
ジェネラルが咆哮し、残りのソルジャーが一斉に武器を構えて散開した。
囲まれた。
「グルァァッ!」
槍を持ったコボルトが、鋭い突きを繰り出してくる。
僕は半身でかわし、懐に飛び込んで喉を掻っ切る。
三体目。
だが、刃を抜くその一瞬の隙に、横から剣が迫っていた。
「チッ……!」
僕はダガーで受け止めることができない。リーチが短すぎるし、一本しかないナイフで受けてしまえば、攻撃の手が止まる。
バックステップで回避するしかなかった。
剣先が鼻先をかすめる。
体勢を立て直そうとした僕の死角から、別のコボルトが盾を構えて突進してくる。
ドンッ!
タックルをもろに受け、吹き飛ばされた。
コートの防御性能のおかげで痛みはないが、衝撃で体勢が崩れる。
そこに、ジェネラルが大剣を振り上げて襲いかかってきた。
(……くそっ、手が足りない!)
右手のダガーで大剣を受け流す。
ガギィン! と火花が散る。
重い。
どうにか逸らしたが、その隙にソルジャーの槍が左脇腹を狙ってくる。
防げない。
攻撃に転じれば防御が空き、防御に回れば反撃の手が止まる。
右手の刃一本だけでは、全方位からの殺意に対応しきれないのだ。
一対一なら負けない。だが、集団戦においては、このスタイルはあまりにも脆い。
「ガアアアアッ!」
ジェネラルが追撃してくる。
僕は地面を転がって回避し、足元にあった石を左手で掴んで投げつけた。
ガッ!
石がジェネラルの顔面に当たり、一瞬だけ動きが止まる。
「そこだッ!」
僕は踏み込んだ。
右手のダガーが閃く。
ジェネラルの眉間を貫き、返す刀で隣のソルジャーの頚動脈を断つ。
残りはソルジャーが数体。
指揮官を失えば、ただの烏合の衆だ。
僕は【瞬発強化】で背後に回り込み、残党を処理した。
静寂が戻る。
広場には、コボルトたちの死体が転がっていた。
勝った。無傷だ。
だが、息が上がっていた。
「はぁ、はぁ……」
ナイフを持つ右手が、微かに痺れている。
ギリギリだった。
もし敵があと2体多かったら?
もし相手がコボルトじゃなく、もっと速い敵だったら?
僕は自分の左手を見つめた。
何も持っていない、空っぽの手。
コートの袖が裂けている。
「……足りない」
一本じゃ、限界がある。
守りながら攻めるには。
群れを単独で蹂躙するには。
左右(つい)となる刃が必要だ。
その課題を胸に刻み込み、僕は広場の奥へと進んだ。
この先にいるボス、『マイン・オーガ(坑道の鬼)』。
そいつで、今の僕の限界を試す。
ボス戦は、死闘だった。
マイン・オーガは、以前戦った守護者ほどではないが、硬い皮膚と怪力を持つ強敵だった。
狭い坑道での戦闘。
巨大なツルハシが壁を砕き、破片が弾丸のように飛んでくる。
僕は逃げ回った。
走って、避けて、隙を見て斬りつける。
浅い。皮膚が硬くて、致命傷にならない。
――【構造看破】。
視るんだ。
奴の弱点を。魔力の流れを。
見えた。
首の裏。太い血管が浮き出ている一点。
オーガがツルハシを振り下ろす。地面に突き刺さり、動きが止まる一瞬。
僕は壁を蹴った。
垂直に近い角度で壁を走り、オーガの頭上へと躍り出る。
「貫けぇぇぇッ!!」
全身の魔力を、右手のダガーに注ぎ込む。
『守護者の牙剣』が、赤黒く脈動し、咆哮するような音を立てた。
ドスッ!!
刃が根元まで吸い込まれた。
魔力が体内で炸裂する。
「ゴ、ア……!?」
オーガが白目を剥き、巨体が痙攣した。
ドサリ、と音を立てて崩れ落ちる。
終わった。
僕はオーガの背中から降り、荒い息を吐いた。
やはり、このナイフは強い。魔力を通した時の爆発力は桁違いだ。
けれど、決定打を撃つまで時間がかかりすぎた。
敵の攻撃を「防げない」から、回避に専念せざるを得ず、攻撃の機会が極端に少ないのだ。
もっとアグレッシブに、攻撃を攻撃で潰すような手があれば……。
オーガの死体が光の粒子となって消えていく。
後に残ったのは、拳大の魔石と、折れたツルハシの欠片だけだった。
僕は魔石を拾い上げ、リュックに放り込んだ。
「……足りないな」
僕は自分の左手を見つめて呟いた。
今はまだ、片手の牙剣でなんとか勝てた。
けれど、これから挑む敵はもっと強く、速く、数も多くなるだろう。
今のスタイルのままでは、いつか必ず捌ききれなくなる。
(どうすればいい……?)
盾を持つか? いや、それじゃアサシンの速さが死ぬ。
魔法を覚えるか? 魔力適性が低い僕には効率が悪い。
何か。
何か、この「一撃必殺」の長所を殺さずに、弱点を補う方法があるはずだ。
答えは見えない。
焦燥感が胸を焼く。
力は手に入れた。装備も強くなった。
それでも、「死」の予感は常に背中に張り付いている。
答えを見つけなければ、次は死ぬ。
僕は出口へと向かった。
ゲートを出ると、受付の女性職員が目を丸くして僕を見ていた。
生きて帰ってくるとは思っていなかったのだろう。
しかも、僕の身体には目立った傷一つない。
「あ、朝霧さん……? ご無事、だったんですか?」
「ええ。運が良かったので」
僕は短く答え、カードを受け取って外へ出た。
夕日が眩しい。
初のソロ攻略。
成果は上々だ。魔石の稼ぎも悪くない。
だが、満足はしていなかった。
テレビのニュースを思い出す。
ランク82のハンターの死。世界の崩壊。
今のままじゃ、全然足りない。
僕は雑踏の中へ歩き出した。
その背中には、以前のような怯えはない。
あるのは、次なる「壁」をどう乗り越えるか――その答えを必死に探そうとする、冷徹な狩人の思考だけだった。
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