第9話 鉄屑と宝石

 地下鉄A駅の改札前。

 夕方のラッシュアワーが始まろうとしている時刻、駅前は疲れた顔をした会社員や、学校帰りの学生たちで溢れかえっていた。

 その雑踏の片隅で、僕と三浦は立ち尽くしていた。


 周囲の人間は誰も気に留めない。

 泥と汚水で薄汚れた服を着た二人の男なんて、この街では「よくあるホームレス」か、あるいは「質の悪い労働者」くらいにしか見えないのだろう。

 だが、僕らの服に染み付いているのは、ただの泥じゃない。

 数時間前まで生きていた人間と、怪物の血だ。


「……あの、朝霧くん」


 三浦がおずおずと口を開いた。

 彼の顔色はまだ蒼白で、唇が小刻みに震えている。リュックを抱きしめる指は白くなっていた。


「本当に……いいの? こんな大金」


 三浦の手には、二階堂たちから巻き上げた財布と、僕が渡した現金が入った袋が握られている。

 総額で数十万円はあるはずだ。ランク11の彼が、一回の探索で稼げる額じゃない。


「いいんだよ。それは『分け前』だから」


 僕は淡々と答えた。


「君が誘引剤を投げてくれたおかげで、僕は手を汚さずに済んだ。……いや、違うな。君がいてくれたおかげで、僕は正気を保てた。その礼だよ」


「で、でも……倒したのは朝霧くんだし、僕はずっと腰を抜かしてただけで……」


「受け取ってください。借金、あるんでしょ?」


 その言葉に、三浦は息を呑んだ。

 以前、休憩中に彼が漏らしていた身の上話を覚えていたのだ。


「……うん。親父が作った借金で、妹の学費も払えなくて……。だから、ハンターになるしかなくて」


 三浦が俯く。

 ありふれた話だ。

 この「大ダンジョン時代」、金のために命を削る人間なんて掃いて捨てるほどいる。僕だってその一人だ。

 だけど、だからこそ共感できる痛みがある。


「なら、それで妹さんに美味いものを食べさせてあげてください」


 僕が言うと、三浦は弾かれたように顔を上げた。

 その瞳に、涙が溜まっている。

 そして、それ以外の「何か」――強い光のようなものが宿っているのを感じた。


「朝霧くん、僕……」


 三浦は涙を拭い、真っ直ぐに僕を見た。


「僕、辞めないよ。ハンター」


「……え?」


 意外だった。

 あんな地獄を見た直後だ。金も手に入った。普通の神経なら、これを機に足を洗って堅気の仕事を探すだろう。


「怖かった。死ぬかと思った。……ううん、一度死んだようなもんだ」


 三浦は言葉を探すように、胸のあたりを握りしめた。


「でも、見たんだ。朝霧くんが、あの化け物を倒すところを。震えながら、吐きそうになりながら、それでも立ち向かって……勝ったところを」


 三浦の声に熱がこもる。


「僕も、強くなりたい。朝霧くんみたいに、理不尽な運命をねじ伏せられるくらい、強くなりたいんだ」


 それは、吊り橋効果による一時的な心酔かもしれない。

 あるいは、極限状態での錯覚かもしれない。

 けれど、彼の言葉は僕の胸の奥にある「何か」を震わせた。


「……僕は、そんな立派な人間じゃないよ」


 僕は苦笑した。

 実際、僕はただの死に損ないだ。何度も死んで、やり直して、その結果として今の力があるだけだ。

 だけど、それを彼に言う必要はない。


「それでも、僕は朝霧くんを尊敬する。……これ、連絡先。いつでも連絡して。僕にできることがあったら、なんだってするから!」


 三浦は深々と頭を下げた。

 その姿は、どこか忠誠を誓う騎士のようにも見えた。

 少し大げさだな、と思いながらも、悪い気はしなかった。


「分かった。また連絡するよ」


 僕らはそこで別れた。

 人混みに消えていく三浦の背中は、まだ頼りないけれど、最初に出会った時よりずっと大きく見えた。


 一人になった僕は、駅の裏手へと向かった。

 表通りの華やかな看板とは無縁の、薄暗い路地裏。

 室外機の熱風と、腐った生ゴミの臭いが漂うエリア。

 その最奥に、錆びついたシャッターが半開きになった店がある。


 『柳(やなぎ)商会』。

 通称、鉄屑屋。

 正規のルートでは換金できない訳あり素材や、出所が怪しいジャンク装備を扱う、この街の吹き溜まりだ。

 数日前、僕がなけなしの五千円でナイフを買った店でもある。


 周囲を警戒し、誰も見ていないことを確認してから、僕は店の中へと滑り込んだ。


 カラン、と乾いたベルが鳴る。

 店内の空気は、相変わらず鉄錆と古い機械油の匂いで満ちていた。

 雑然と積まれたジャンクパーツの山。壁に掛けられた刃こぼれした剣。埃を被ったポーションの空き瓶。

 まるで墓場だ。


「……いらっしゃい」


 カウンターの奥から、不機嫌そうなダミ声が響く。

 白髪交じりの短髪に、油汚れのついた作業着。店主の柳(やなぎ)爺さんだ。

 彼は手元の古びたラジオのチューニングを合わせながら、横目で僕を見た。


「なんだ、坊主か。……生きてたか」


 その言葉には、皮肉ではなく、本心からの驚きが混じっていた。

 無理もない。

 ランク12の荷物持ちが、安物のナイフ一本でDランクダンジョンへ行くと言ったのだ。死体袋に入って帰ってくるのがオチだと、誰もが思う。


「ええ、なんとか。親父さんの忠告通り、ヤバかったら逃げましたよ」


 僕はリュックをカウンターに置きながら答えた。


「そりゃ重畳。で? 今日は何の用だ。まさかナイフが折れたから返金しろって話じゃねえだろうな」


「買い取りをお願いしたくて」


「買い取りだぁ? 低ランクが拾えるモンなんざ、たかが知れて……」


 爺さんは面倒くさそうに鼻を鳴らし、リュックの口を開けた。

 そして――動きを止めた。


 最初に目に入ったのは、ひしゃげたプレートアーマーと、装飾過多なショートソード。

 二階堂たちが装備していた品だ。

 所々に乾いた血痕が付着し、激しい戦闘の跡が生々しく残っている。


「……おい。こりゃあ……」


 爺さんの目が鋭くなる。

 ただのドロップ品じゃない。「遺品」だ。

 それも、ついさっきまで主がいた生々しいやつだ。


「出所は聞かねえが……こいつはランク30台の装備だな。随分と派手にやったもんじゃねえか」


「拾ったんですよ。運良くね」


「ほう、運良く、か。……で? お前の見せたいモンは、これだけじゃねえだろ?」


 さすがだ。

 僕は無言で頷き、リュックの底を示した。

 爺さんは眉をひそめながら、装備の下にある黒い布包みを取り出した。


 ズシン、と重い音がカウンターに響く。

 布を解く。

 現れたのは、黒光りする巨大な甲殻片。

 そして、禍々しいオーラを放つ、柄の折れた巨大な戦斧の刃。


「ッ……!?」


 爺さんが息を呑み、椅子をガタつかせて立ち上がった。

 ラジオの音が遠のく。

 爺さんは震える手でカウンターの下からルーペを取り出し、甲殻の表面に顔を近づけた。


「馬鹿な……。この密度、この魔力残滓……『守護者(ガーディアン)』クラスか!? いや、それにしては硬度が異常だ。変異種か?」


 爺さんの視線が、素材の上を這うように動く。

 そして、ある一点で止まった。

 僕がナイフを突き立てた、甲殻の「断面」だ。


「……おい坊主」


 爺さんの声が低くなる。

 空気が張り詰めた。


「こいつ、どうやって切った?」


「え?」


「とぼけるな。見ろ、ここだ」


 爺さんはルーペ越しに断面を指差した。


「力任せに叩き割ったんじゃねえ。装甲の繊維に沿って、刃物が滑り込んでる。しかも、ただの刃物じゃねえ。魔力を乗せた『点』の一撃で、神経ごと焼き切ってやがる」


 爺さんが顔を上げ、僕を射抜くように見た。


「こんな芸当ができるのは、手練れの暗殺者(アサシン)か、達人級の剣士だけだ。……腐敗水路に、そんな化け物がいたのか?」


 心臓が早鐘を打つ。

 バレている。

 いや、正確には「誰かがやった」ことは見抜かれているが、「僕がやった」とは信じていないようだ。ランク12の僕が、そんな芸当をできるはずがないという先入観が、僕を守っている。


「……さあ。僕は必死に隠れていたんで、よく見てません。通りがかりの凄いハンターが、一瞬で倒して去っていきました。僕はそのおこぼれを……」


「……ふん、そういうことにしておくか」


 爺さんは深く追求しなかった。

 それがこの店のルールであり、美学だからだ。

 彼は椅子に座り直し、電卓を叩き始めた。


「この装備類は血抜きとリペアが必要だが、モノはいい。それにこの守護者の素材だ。……正規ルートなら分析班が飛んでくるレベルだが、ここではそうはいかねえ。足元を見るぞ?」


「構いません。今は現金が必要です」


「……全部まとめて、280万だ」


 280万。

 数字を聞いた瞬間、膝が震えそうになった。

 僕が深夜まで残業して、上司に怒鳴られ続けてやっと1年かけて稼ぐ額。

 それが、たった数時間の、命のやり取りで手に入った。


「即金で頼みます」


「あいよ。……少々お待ちを」


 爺さんは金庫を開け、帯封のついた札束を3つ取り出した。

 カウンターに置かれた現金の重み。

 これが、僕が命懸けで勝ち取った対価だ。


「それと、親父さん。もう一つ注文があります」


 僕は札束の一つを、そのまま爺さんに押し戻した。


「この金と、守護者の素材を使って、僕専用の装備を作って欲しいんです」


「ほう?」


 爺さんの目に、職人の色が宿る。


「既製品じゃ不満か?」


「ええ。市販の武器じゃ軽すぎるし、脆い。僕が欲しいのは、一撃必殺のための武器です」


 僕は頭の中でイメージを組み立てる。

 【暗殺者】のスキルを最大限に活かせる装備。


「武器はダガータイプ。刃渡りは短めでいい。その代わり、魔力伝導率を極限まで上げてほしい。突き刺した瞬間に、魔力を流し込めるようなやつを」


「注文が細かいな。……だが、悪くねえ。この守護者の牙を使えば、相当な業物ができるぞ」


 爺さんがニヤリと笑う。


「防具は?」


「動きを阻害しないコート。色は黒。フード付きで、気配を消しやすい素材がいい。あと、可能なら守護者の甲殻を繊維に織り込んで、急所だけは守れるように」


「……お前、本当にランク12か? 発想が手練れのそれだぞ」


 爺さんは呆れたように笑いながらも、メモ用紙にさらさらと設計図を描き始めた。


「いいだろう。納期は3日。楽しみに待ってな」


「お願いします」


 商談は成立した。

 僕は残りの200万弱をリュックに詰め込み、店を出た。


 外に出ると、すっかり日は落ちていた。

 夜風が心地よい。

 懐の重みが、僕に「生還した」という実感を強く与えてくれる。


 その時、ポケットの中でスマホが震えた。

 画面を見る。『部長』の文字。

 仕事先の上司だ。そういえば、今日は仕事のはずだった。無断欠勤に対する怒りの電話だろう。


 コール音が鳴り続ける。

 昨日までの僕なら、身体を縮こまらせて「すみません」と謝り続けていただろう。生活のために、クビになるわけにはいかなかったから。

 でも、今は違う。

 リュックの中には200万がある。そして何より、僕には「力」がある。

 あんな場所にしがみつく理由は、もう1ミリもない。


 僕は通話ボタンを押した。


『おい朝霧! お前今どこにいるんだ! 仕事に穴開けて連絡もなしか! 社会人としてどういうつもりだ、あぁ!?』


 耳をつんざくような怒鳴り声。

 鼓膜が痛い。でも、心は驚くほど凪いでいた。

 守護者の咆哮に比べれば、ただのノイズだ。


「……部長」


『なんだ! 言い訳なら聞かんぞ! 今すぐ会社に来て土下座……』


「辞めます」


 僕は短く告げた。


『は? 今なんて……』


「仕事、辞めます。もう二度と行きません。給料は……まあ、いいです。手切れ金だと思って受け取ってください」


『おい待て! 勝手なこと言うな! 代わりが見つかるまで……』


 プツッ。

 僕は通話を切り、着信拒否設定にした。

 携帯をポケットに戻す。

 胸の奥にあった澱のようなものが、きれいに消え去った気がした。


 アパートへの帰り道。

 少し回り道をして、スーパーに寄った。

 半額シールを待つ必要はない。カゴに、国産の厚切りステーキ肉と、新鮮な野菜、それに少し高いビールを入れる。


 家に着き、鍵を開ける。

 狭くて古い1Kのアパート。

 けれど、今日はそこが王城のように快適に感じられた。


 ステーキを焼き、ビールを開ける。

 肉を噛み締め、酒を流し込む。

 生きている。

 その実感が、胃の腑から全身に染み渡る。


 食事を終え、僕はベッドに座り込んだ。

 空間に指を走らせる。


「……ログ、表示」


 空中にウィンドウが浮かび上がる。


【ステータス】

・氏名:朝霧 透

・ジョブ:暗殺者(アサシン)

・レベル:10

・コイン残高:1,370


 見慣れた数値。けれど、まだ変化はない。

 コイン残高も、あの時のままだ。

 ショップ画面を開こうとしても、『現在アクセスできません』の文字が出るだけ。

 やはり、スキルを買ったりステータスを上げたりできるのは、死んだ後の「リザルト画面」だけのようだ。


「不便なシステムだ……」


 僕はため息をつく。

 鑑定スキルや、罠探知スキルが欲しかったが、次の「死」までお預けだ。

 つまり、次の探索も、今のステータスと、自分の感覚だけで乗り切らなければならない。


「次は、ソロだ」


 僕は天井を見上げて呟いた。

 パーティはもうこりごりだ。背中を預けられるのは、自分だけ。

 ランク12のまま、ソロで潜れるダンジョンを探さなければならない。

 もしくは、ランクを上げるための再試験を受けるか。

 いや、目立つのは得策じゃない。


 ふと、つけっぱなしにしていたテレビから、緊急ニュースのチャイムが流れた。


『――ニュース速報です。本日未明、国内トップランカーの一人、鳴神氏が、北海道の高難易度ダンジョン内にて行方不明との情報が入りました』


 僕は画面を見た。

 瓦礫の山と化したダンジョンの入り口。規制線の向こうで、救助隊が右往左往している。


『なる神氏は、国内でも十数名しか存在しないランク82の最精鋭であり、今回の攻略失敗は日本支部にとって壊滅的な痛手となります。現在、生存は絶望的と見られており……』


 ランク82。

 日本の最高戦力の一角が、あっけなく消えた。

 画面の中の出来事は、遠い世界の悲劇のように見える。

 けれど、僕には予感があった。


 高ランクハンターの減少。

 強まるダンジョンの活性化。

 そして、僕が得た「ロード」の力。


 これらは、きっと無関係じゃない。

 世界が、少しずつ壊れ始めている。

 いつか、この崩壊が僕の目の前までやってくる。

 その時までに、僕は生き残れるだけの力をつけなければならない。

 誰にも頼らず、誰にも奪わせない、絶対的な力を。


「……やるしかない」


 僕はテレビを消し、目を閉じた。

 明後日には、新しい装備ができる。

 それが出来上がったら、本当の「攻略」を始めよう。


 泥のような、けれど深い安息の眠りが、僕を包んでいった。

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