第8話 命の値段と、敗者の権利
巨大な戦斧が地面に突き刺さり、その横で守護者(ガーディアン)の死体が黒い血を流して沈黙している。
土煙が晴れた地下水路の奥。
そこには、耳が痛くなるほどの静寂があった。
僕は、肩で息をしながら眼下の惨状を見下ろしていた。
守護者の一撃で吹き飛ばされ、瓦礫の下敷きになっている3人の男女。
高価なプレートアーマーはひしゃげ、自慢の武器は泥水に浸かっている。
さっきまで僕らを「ゴミ」と呼んで笑っていた権力者たちの、あまりにも無惨な成れの果てだ。
手が震えている。
ナイフを握る指が白く変色し、感覚がない。
汗が目に入って沁みる。
勝った。殺した。生き残った。
脳内麻薬のような高揚感と、胃の腑が冷えるような恐怖が混ざり合って、僕は自分が何者なのか分からなくなりそうだった。
「あ、あ……」
瓦礫の隙間から、二階堂がパクパクと口を開閉させている。
言葉が出てこないのだろう。
ランク12の荷物持ちが、ランク50相当の怪物を単独で、しかも一瞬で葬り去ったのだ。彼らの常識という回路は完全に焼き切れている。
僕は深く息を吐き出し、乱れる心拍を無理やり落ち着かせた。
まだだ。まだ終わっていない。
怪物は倒したが、ここにはまだ「敵」がいる。
僕はゆっくりと、二階堂の目の前にしゃがみ込んだ。
血振るいをしたナイフを鞘に収め、できるだけ穏やかな声を作る。
「生きてますか? 二階堂さん」
「ひっ……!?」
僕が顔を近づけただけで、二階堂がビクリと震えた。
その目にあるのは、明確な「恐怖」だ。
怪物を殺した僕を、怪物以上の脅威として認識している。
いい反応だ。これなら話が早い。
「あ、朝霧……くん……?」
横で、瓦礫に足を挟まれたユリが、媚びるような上目遣いで僕を見た。
厚化粧が涙と泥で崩れ、幽霊のようになっている。
「す、すごかったわ! 本当にすごかった! まさか隠し玉を持ってたなんて……私たち、助かったのよね?」
「ええ、助かりましたよ。僕が殺しましたから」
「よ、よかったぁ……! ねぇ、早くここから出して! 足が挟まって痛いの! 治癒魔法かけなきゃ……あと、ポーション! ポーションちょうだい!」
ユリが泥だらけの手を伸ばしてくる。
その手を、僕は冷ややかに見つめた。
助ける?
なぜ?
どの口がそれを言うんだ。数分前、僕らを囮にして見殺しにしようとしたくせに。
「……朝霧、てめぇ……」
二階堂がようやく言葉を絞り出した。
恐怖を怒りで塗りつぶそうとしているのか、その表情にはまだちっぽけなプライドの残滓(ざんし)があった。
「隠してやがったな……? 実力を隠して、俺たちをハメやがったのか!?」
「ハメた?」
僕は首を傾げた。
あまりの理不尽な言いがかりに、怒りを通り越して乾いた笑いが込み上げてくる。
「ハメたのはそっちでしょう。僕と三浦くんを囮にして、自分たちだけ逃げようとした。違いますか?」
「そ、それは……! 作戦だ! 誰かが犠牲にならなきゃ全滅してた!」
「だから僕らを犠牲にした、と」
「荷物持ちが盾になるのは当然だろうが! それで金もらってんだろ! 契約だぞ!」
二階堂が唾を飛ばして叫ぶ。
ああ、こいつは駄目だ。
骨の髄まで腐っている。自分が強者であり、弱者は踏みつけにして当然だという思考が染み付いている。
吐き気がした。
こいつらと同じ空気を吸っているだけで、肺が汚れそうだ。
僕は立ち上がり、冷たく言い放った。
「分かりました。じゃあ、商談をしましょう」
「……あ?」
「僕はあなたたちを助けました。そして、あなたたちの『作戦』に従うなら、僕は対価をもらう権利がある」
僕は二階堂の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
【筋力】の数値が上がった腕は、大柄な男の身体を軽々と持ち上げる。
二階堂の足が宙に浮き、彼は呻き声を上げた。
「命の値段です。払ってください」
「な、何言って……」
「全財産。装備、アイテム、身につけている貴金属、それから魔石も全部だ。今ここで置いていけ」
二階堂の顔が赤黒く変色する。
「ふ、ふざけんな! この鎧がいくらするか分かってんのか! 特注品だぞ! ローンも残ってんだ!」
「命より高いんですか?」
僕は静かに問いかけた。
腰のナイフの柄に手をかける。
カチャリ、と微かな金属音が響いた瞬間、二階堂の喉がヒュッと鳴った。
瞳孔が開く。死の匂いを感じ取ったのだろう。
「は、払う……! 払うから! 殺さないでくれ!」
二階堂は震える手で、ポーチを差し出した。
続いて、自身の首にかけていた高価なネックレス、指輪、そして背負っていた大剣を地面に放り出す。
「おい、お前らもだ! 早く出しやがれ!」
二階堂が部下に八つ当たりするように叫ぶ。
ユリと梶も、青ざめた顔でそれに従った。
魔法の杖、予備のポーション、財布、採取した魔石。
彼らの財産の全てが、僕の足元に積み上げられていく。
「こ、これでいいだろ……! 全部だ! 文無しだ! さあ、瓦礫を退けろ!」
二階堂が喚く。
僕は積み上げられた戦利品を、自分の安っぽいリュックに詰め込んだ。
入り切らない大剣や杖は、束ねて紐で背負う。
重い。
けれど、それは心地よい重さだった。彼らが踏みにじってきた弱者たちの痛みが、金という形に変わった重さだ。
「……三浦くん」
僕は入り口の方で呆然と立ち尽くしている三浦に声をかけた。
「あ……は、はい!」
「これ、持ってて。君の分もあるから」
僕はポーションの入った袋と、現金が入った財布を一つ、三浦に投げた。
「え、でも……こんな大金……」
「今回の報酬だよ。当然の権利だ」
「……ありがとう」
三浦は袋を抱きしめた。
さて、回収は終わった。
「商談成立ですね。じゃあ、僕はこれで」
僕は踵を返した。
「は……? おい、待てよ! 助けていかねえのかよ!?」
二階堂の絶叫が響く。
「助けましたよ。守護者を倒して、命を拾わせてやった。それ以上のサービスは有料です」
「ふざけんな! このままじゃ動けねえだろ! 足が折れてんだぞ! 戻ってこい! 命令だ!」
「命令?」
僕は足を止め、振り返った。
その瞬間、僕の中で何かが切れた。
我慢していた「何か」が。
理性という名の薄い膜が剥がれ落ち、下から冷え切った感情が顔を出す。
「お前は、まだ自分が上の立場だと思ってるのか」
僕は二階堂の元へ歩み寄った。
殺意を隠そうともせずに。
その圧力に、二階堂が息を呑む。
「あ……が……」
僕は二階堂の目の前に落ちていた、彼の予備武器――装飾過多なだけで使いづらそうなショートソードを拾い上げた。
切っ先を、二階堂の鼻先に突きつける。
「この水路、血の匂いが充満してますよね」
「な、なんだよ……急に……」
「守護者の死骸と、お前らの流した血。これだけ匂いが強ければ、他のモンスターも寄ってくる。リーチだけじゃない、もっと厄介な肉食性の奴らがね」
僕はショートソードを、二階堂の足元の地面に突き刺した。
彼の手が届くか届かないか、ギリギリの位置に。
「運が良ければ、通りがかりのハンターが助けてくれるかもしれませんね。運が悪ければ……まあ、お前らが散々やってきたことだ。文句はないでしょう?」
「ひっ、お、置いてかないでくれ! 悪かった! 謝る! 金ならもっと払う! 親が金持ちなんだ! 家に連絡すれば……!」
二階堂が涙と鼻水を流して懇願する。
醜い。
さっきまでの威勢はどこへ行った。
ランク38のハンターが、今はただの怯える子供のようだ。
もう十分だ。これ以上こいつらと話していても意味がない。
僕は背を向け、歩き出した。
その時だった。
「……殺してやる」
背後で、小さな、けれど明確な殺意のこもった呟きが聞こえた。
振り返る必要もなかった。
スキル【気配遮断】を通して、研ぎ澄まされた殺気が肌に突き刺さる。
二階堂だ。
彼は隠し持っていたサバイバルナイフ――僕が買ったものよりずっと高級な業物だ――を抜き、這いずりながら僕の足首を狙っていた。
「テメェだけは……殺してやるぅぅぅ!!」
逆恨み。
保身。
屈辱。
様々な感情が混ざり合った、ドス黒い殺意。
彼は理解したのだ。ここで僕を生かして帰せば、自分の立場もプライドも全て失うと。だから、後ろから刺す。
――スローモーション。
僕の視界が赤く染まる。
怒りじゃない。
スキル【構造看破】が、自動的に「敵」を解析し始めたのだ。
二階堂の動き。
瓦礫に挟まった状態での無理な体勢。筋肉の強張り。ナイフの軌道。
そして、首筋に浮かぶ「死の線」。
身体が勝手に動いた。
思考するよりも早く、本能が「処理」を選択した。
僕は半歩下がり、二階堂のナイフを紙一重でかわす。
そして、流れるような動作で懐のナイフを抜き――
ザンッ。
乾いた音が響いた。
二階堂の首筋を、銀色の閃光が走り抜ける。
「あ……」
二階堂の動きが止まった。
首から、赤い線が噴き出す。
ナイフがカランと音を立てて落ちた。
彼は自分の首を押さえようとして、手が動かないことに気づいたようだった。
瞳から光が急速に失われていく。
最期に彼が見たのは、見下ろす僕の、あまりにも無感情な瞳だっただろうか。
ドサリ。
二階堂の上半身が泥水に沈んだ。
「キャアアアアアアアアアッ!!」
ユリの悲鳴が水路に反響する。
梶は腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らしている。
「あ、あ、ああ……殺した……人殺し……!」
ユリが震える指で僕を指差す。
「正当防衛です」
僕は淡々と答えた。
心臓が早鐘を打っている。指先が痺れている。
人を殺した。
モンスターじゃない。人間を。
手の感触が消えない。肉を断つ抵抗感。温かい血の飛沫。
吐き気がこみ上げてくるのを、必死で飲み込む。
視界の隅に、ログが出る。
【討伐記録:敵性人間(二階堂・ランク38)】
【評価ステータス:保存済み(次回のラン終了時に精算)】
人間も、討伐対象(スコア)になるのか。
その事実に、僕は戦慄した。
システムにとっては、人間もモンスターも等しく「数値」でしかない。
そして僕もまた、そのシステムの歯車の一つに過ぎないのだ。
今はこの経験値は入らない。次に僕が死んだ時、この罪も、成果も、まとめて清算される。
僕はユリと梶の方を向いた。
二人は悲鳴を上げて後ずさろうとするが、瓦礫に阻まれて動けない。
「ひっ、助けて! 言わない! 誰にも言わないから!」
「お、俺もだ! あんたが正当防衛だったって証言する! だから殺さないでくれ!」
二人が必死に命乞いをする。
証言?
信用できるわけがない。
ここを出れば、彼らはすぐにギルドへ駆け込み、あることないこと喚き散らすだろう。「狂った荷物持ちがリーダーを殺して金を奪った」と。
そうなれば、僕は犯罪者だ。
生かすリスクが高すぎる。
ここで口を封じるのが、一番合理的だ。
【暗殺者】のスキルが、彼らの急所を赤く照らし出している。
やれる。今の僕なら、瞬きする間に二人を終わらせられる。
僕はナイフを握り直した。
一歩、踏み出す。
「や、やめて……お願い……死にたくない……」
ユリが泣き崩れる。
その姿が、さっきの三浦と重なった。
そして、1周目の僕自身とも。
(……くそっ)
僕は足を止めた。
殺せない。
二階堂は向かってきたから殺した。反射的だった。
だが、抵抗できない無抵抗な人間を、処刑するように殺すことは――今の僕には、まだできなかった。
甘いと言われるかもしれない。
でも、ここで彼らを殺せば、僕は二階堂たちと同じ「怪物」になってしまう気がした。
人間としての最後の一線。それだけは越えたくない。
「……三浦くん」
僕は後ろを振り返らずに呼んだ。
「は、はい!」
「さっき拾った誘引剤(ルアー)、まだ持ってる?」
「え? あ、はい。カバンの中に一つだけ……」
「それをあいつらの足元に投げて」
「えっ……」
三浦が息を呑む。
ユリと梶が絶望の表情を浮かべた。
「そ、そんな……やめてくれ! モンスターが寄ってくる!」
「食い殺される! 殺す気か!」
「殺しはしませんよ」
僕は冷たく言った。
「ただ、運を試すだけです。あなたたちが言いましたよね? 『誰かが犠牲にならなきゃいけない』って。あなたたちの運が良ければ、助けが来るかもしれない。悪ければ……まあ、自業自得です」
直接手は下さない。
だが、助けもしないし、安全も保証しない。
このダンジョンという理不尽な環境に、彼らの身柄を委ねるだけだ。
「三浦くん、やって」
「……はい」
三浦は決意したように頷き、小瓶を取り出した。
彼もまた、彼らに殺されかけた被害者だ。同情の余地はないと分かっているのだろう。
カチャン、と乾いた音がして、小瓶がユリたちの足元に転がった。
刺激臭が広がる。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
「畜生ぉぉぉぉ!!」
悲鳴を背に、僕は歩き出した。
もう振り返らない。
背後で何が起きようと、それはもう僕の知ったことではない。
ダンジョンの出口までの道のりは、酷く長く感じられた。
行きよりも荷物は重い。二階堂たちから奪った装備と、守護者のドロップ品がずっしりと肩に食い込む。
だが、足取りは確かだった。
「あの……朝霧くん」
隣を歩く三浦がおずおずと口を開いた。
「なに?」
「ありがとう……助けてくれて。僕、君がいなかったら死んでた」
「……僕もだよ。一人じゃ無理だった」
それは本音だった。
彼が一緒にいてくれたから、僕は正気を保てた。
「ギルドへの報告、どうしようか」
三浦が不安そうに聞く。
「『守護者に遭遇してパーティは壊滅。僕らだけが運良く逃げ延びた』。……これでいこう」
嘘ではない。
二階堂が死んだのも、梶たちが残されたのも、元を正せば守護者戦の結果だ。
僕がトドメを刺したことは伏せる。死人に口なしだ。
もし梶たちが生きて戻れたとしても、あの装備もアイテムもない状態で深層から生還するのは絶望的だ。万が一戻れたとしても、彼らの信用は失墜している。
「分かった。……僕も、そう証言する」
三浦は強い目をして言った。
共犯者。
奇妙な連帯感が、僕らの間に生まれていた。
地上に出ると、朝の光が眩しかった。
空気の味が違う。
排気ガス混じりの東京の空気が、これほど美味いとは思わなかった。
駅前の雑踏。行き交う人々。
日常の風景が広がっている。
けれど、僕の世界はもう、昨日までとは決定的に違っていた。
僕は空を見上げた。
生き残った。
理不尽な死の運命をねじ伏せ、敵を排除し、戦利品を持って帰ってきた。
ポケットの中で、コインが微かに鳴った。
システムログを開く。
【現在のステータス】
名前:朝霧 透
ジョブ:暗殺者(アサシン)
レベル:10
コイン残高:1,370
レベルは変わっていない。コインも、戦う前に使ったままだ。
二階堂を殺した経験値も、まだ手に入ってはいない。
けれど、確かに僕は強くなった。
数値だけじゃない。生きるための覚悟が、僕を変えたのだ。
僕は拳を握りしめた。
もう、誰にも奪わせない。
僕の命も、尊厳も、この力も。
雑踏の中へ歩き出す。
すれ違うサラリーマンも、笑い合う学生たちも、誰も知らないだろう。
この平凡な青年の背中に、怪物を屠り、人を殺めた暗殺者の力が宿っていることを。
ランク12の就職活動は、最悪で、そして最高の形で幕を閉じた。
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