第5話

翌朝、目が覚めた瞬間に、世界が違って見えた。


見慣れた天井のシミ。窓から差し込む朝日の粒。カーテンの繊維のほつれ。

それらが、まるで高解像度の写真みたいに鮮明に目に飛び込んできた。

起き上がろうとして、手がシーツを掴む。布が擦れる音。筋肉が収縮する感覚。血液が指先に巡る熱。自分の身体の中で起きている情報のすべてが、ダイレクトに脳に伝わってくる。


「……なんだ、これ」


声が少し嗄れていた。

首を回す。ゴリ、という音が頭蓋に響く。

昨夜の「死」の記憶がフラッシュバックして、反射的に首元を押さえた。傷はない。痛みもない。

あるのは、奇妙な全能感だけだ。


キッチンへ行き、コップに水を注ぐ。

手が滑った。ガラスのコップが指先から離れ、床へと落ちていく。


――遅い。


落ちていくコップが、スローモーションに見える。

水滴が空中で形を変えながら飛び散る様子まで、はっきりと目で追える。

僕は無意識に手を伸ばした。

思考するより先に指が動き、空中でコップの底をキャッチする。

中の水は半分ほどこぼれたが、コップは割れなかった。


「……すごい」


自分の手を見つめる。

これが「レベル2」か。あるいは、スキル「瞬発強化Ⅰ」の影響か。

たった一回のレベルアップ。「微」と書かれた補正。

それだけで、一般人の枠組みから、何かが決定的にずれてしまった気がした。


僕は小さく息を吸い、頭の中で強く念じた。

――ログ、表示。


瞬きした次の瞬間、何もない空中に薄い半透明のウィンドウが浮かび上がった。

現実の風景の上に重なる、僕にしか見えない文字列。


【ステータス】

・氏名:朝霧 透

・レベル:Lv2

・ジョブ:見習い走者(基礎)

・スキル:瞬発強化Ⅰ

・コイン残高:70


昨夜の戦果だ。

死んで、ランを終了し、評価され、報酬を得て、再挑戦した結果。


この現象をどう呼べばいいのか、ずっと考えていた。

「死に戻り」なんて呼ぶと、あの一瞬の痛みが蘇ってくるようで気が滅入る。感覚としては、もっと無機質なものだ。

失敗したデータを破棄して、直前のセーブポイントから読み直す作業。

ゲームで言うところの、リセット&ロード。


……そうだ、「ロード」だ。

その方がいい。

死ぬんじゃない。データを読み込むだけだ。

そう定義するだけで、恐怖がシステムの一部に変わる気がした。

僕はこれから、何度だって「ロード」する。


ウィンドウを消し、出勤の準備をして家を出る。

駅までの道、通勤ラッシュの人の波。いつもなら肩がぶつかり、足を踏まれるストレスフルな雑踏が、今日は違った。

人の動きが読める。次に誰がどちらへ動くか、予測線が見えるように分かる。

僕は人混みの隙間を縫うように、一度も誰とも接触せずに改札を抜けた。


電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。

見た目は変わっていない。冴えない顔色の、どこにでもいる会社員。

けれど、その内側には「ロード」の記憶と、人外の力が宿っている。


スマホを取り出し、ニュースアプリを開く。

トップニュースは、昨夜の「異常気象」についてだったが、少しスクロールすると、小さな記事が目に入った。


『管理局第七出張所管轄・研修ダンジョンにて異常発生か。周辺住民から異音の通報』


心臓が跳ねる。

昨夜の戦いだ。鉄パイプで装甲を叩いた音や、怪物の咆哮が、外に漏れていたのかもしれない。

記事には詳細は書かれていないが、「封鎖継続」「調査中」の文字が並んでいる。


僕は画面を閉じて、深く息を吐いた。

バレていないはずだ。監視カメラの死角を選んだし、誰にも見られていない。

……本当に、そうだろうか?

不安が胸の奥で燻る。けれど、今さら確かめようがない。

僕はただの一般市民として、今日も仕事をするしかないのだ。


その頃。

ダンジョン管理局第七出張所、所長室。


部屋の中には、重苦しい空気が漂っていた。

所長のデスクを挟んで、二人の人物が対峙している。

一人は、研修担当職員の久我。手には報告書の束を抱え、表情を硬くしている。

もう一人は、黒いスーツを着た長身の男。胸元には、管理局のロゴではなく、民間大手クラン『金剛(アダマント)』のバッジが光っている。


「……説明していただきましょうか、久我さん」


男の声は低く、威圧的だった。

テーブルの上に置かれたのは、ジッパー付きの保存袋に入った「灰色の塊」。

昨夜、透が拾い損ねたドロップアイテムだ。


「封鎖中のダンジョンから、これが見つかった。しかも、ただ落ちていたわけじゃない。装甲種の反応があった地点で、討伐された痕跡と共に回収された」


男は指先で袋を叩く。


「『装甲種』だぞ? 推定ランクは30後半……ヘタなDランクボスより硬い。見てみろ、この装甲密度」


久我は唇を噛む。

彼女自身、状況が飲み込めていなかった。

昨夜の警報。急行した調査班が見たのは、激しい戦闘の痕跡と、消滅したモンスターの残滓。そして、このレア素材だけだった。


「こいつの甲殻硬度は、ランク50の攻撃ですら弾く場合がある。それを、誰が倒した? しかも、現場に残っていた打撃痕は『鉄パイプ』のような鈍器だ」


久我は息を呑む。

鉄パイプで、ランク50相当の装甲を砕くなど不可能だ。


「力任せじゃない。……『継ぎ目』だ」


男が低い声で続ける。


「どんな硬い装甲も、動くためには『遊び』が必要だ。装甲板が重なり合ってスライドする、そのわずかな継ぎ目……奴が大きく動いた一瞬だけ生じるコンマ数ミリの隙間を、正確に貫いている」


「……監視カメラの映像は?」


「ノイズだらけです。侵入経路のカメラも、戦闘地点のカメラも、肝心なところが映っていない。まるで、カメラの位置を知り尽くしているような動きでした」


男が鼻を鳴らす。


「プロの仕業だな。それも、相当手慣れた暗殺者(アサシン)のようなタイプだ。ランク50以上の正規ハンターが、お忍びで素材狩りに来たか……あるいは、同業者の嫌がらせか」


男の視線が鋭くなる。


「まさかとは思うが、研修生の中に混じっていた、なんてことはないよな?」


久我は即座に首を振った。


「あり得ません。今回の研修生は全員、適性検査ランク10台の初心者です。一番マシだった子でも、せいぜい逃げ足が速いくらいで……装甲種の弱点を狙い撃てるような人材はいません」


「ふん。まあ、そうだろうな」


男は興味を失ったように、保存袋を懐にしまった。


「この件はウチ(金剛)が預かる。素材の分析と、犯人探しも含めてな。管理局のザル警備のせいで、貴重なサンプルを横取りされるところだったんだ。貸し一つだぞ」


男が部屋を出て行く。

ドアが閉じる音が、銃声のように響いた。

久我は溜息をつき、デスクの上の研修生名簿に目を落とす。

そこに並ぶ名前の中に、「朝霧透」の文字があった。


「……逃げ足が速い、か」


彼女は独り言ちて、すぐに頭を振った。

考えすぎだ。あの臆病そうな青年が、あんな化け物を倒せるはずがない。

彼女は名簿を閉じ、業務に戻った。


数日後。

僕の元に、管理局から一通の封筒が届いた。

中に入っていたのは、新しい「ハンター登録証」。以前のプラスチックカードとは違い、ICチップが埋め込まれた正式なものだ。

そして、一枚の通知書。


『ハンターランク認定通知書』

『氏名:朝霧 透』

『認定ランク:12』


12。

予想はしていたが、実際に数字として突きつけられると、少し堪えるものがある。

研修生の下限が10。つまり、僕はほぼ最低ラインでのスタートということだ。

備考欄には、『基礎能力:低』『実戦適性:E』『特記事項:的確な状況判断(誘導)』と書かれている。

あの装甲種との戦いは、当然ながら評価に含まれていない。公式には、僕は「逃げ回って叫んでいただけの雑魚」だ。


「……まあ、いいか」


僕は通知書を机に放り投げた。

目立てば、それだけリスクが増える。昨夜の件もある。今は、この「ランク12」という隠れ蓑がある方が都合がいい。

それに、中身は違う。

僕は知っている。自分が、あの化け物を殺せる力を持っていることを。


その日の夕方、研修の最終手続きのために管理局へ向かった。

ロビーには、同じ研修組だった顔ぶれが揃っていた。

皆、新しい登録証を手に、どこか誇らしげな顔をしている。あるいは、これから始まるハンター生活への不安を隠しているのかもしれない。


「あ、透くん!」


声をかけられて振り返る。

明菜さんだった。

彼女も新しい登録証を持っている。ちらりと見えた数字は「18」。僕よりずっと高い。やはり、あの盾での防御行動が評価されたのだろう。


「お疲れ様です、明菜さん。……いい数字ですね」


「え? あ、はい。運が良かっただけですよ。……透くんは?」


「僕は12です。ギリギリですね」


苦笑して見せると、明菜さんは困ったような顔をした。

慰めの言葉を探しているのが分かる。優しい人だ。


「あの……透くん」


明菜さんが、少し声を潜める。

視線が、僕の上着の袖口に向けられていた。

そこには、小さな裂け目がある。先日、装甲種の牙がかすめた跡だ。縫い合わせたが、完全には隠せていない。


「その怪我……大丈夫でしたか?」


ドキリとした。

鋭い。

いや、彼女はあの時、誰よりも僕を見ていた。だからこそ、僕の変化に敏感なのかもしれない。


「……ああ、これですか。帰りにちょっと転んでしまって。ドジですよね」


精一杯の笑顔で誤魔化す。

明菜さんは、じっと僕の目を見た。その瞳の奥に、探るような光が見える。

けれど、彼女はそれ以上踏み込まなかった。


「……そうですか。気をつけてくださいね。透くん、たまに無茶をしそうな時があるから」


「肝に銘じます」


会話が途切れる。

気まずい沈黙を破るように、明菜さんがスマホを取り出した。


「あの、もしよかったら……連絡先、交換しませんか? 同期ですし、何かあったら情報交換とかできると心強いなって」


「ええ、もちろん」


QRコードを読み取り、連絡先を交換する。

『飯田明菜』。画面に表示された名前を見て、少しだけ安堵した。

この世界で、唯一「友人」と呼べるかもしれない存在。

けれど、今の僕には、彼女を巻き込むことはできない。


解散後、僕は一人で駅前のハンター専用掲示板の前に立っていた。

電子掲示板には、無数のパーティ募集が流れている。


『Dランク周回、前衛募集。ランク30以上必須』

『素材集め、魔術師急募。ランク25〜』

『初心者講習付きクラン入団募集。※適性検査あり』


スクロールしても、スクロールしても、条件に合うものがない。

どこもかしこも「ランク」の壁がある。

ランク12。武器は鉄パイプ。実績なし。

そんなハンターを雇う物好きは、正規の募集にはいない。


「……やっぱり、こうなるか」


ため息をついて、掲示板の隅にある「フリーワード検索」に切り替える。

正規のフィルタリングを外した、いわゆる「闇鍋」状態の募集一覧。

詐欺やトラブルも多い危険地帯だが、今の僕には贅沢を言っている場合じゃない。

研修費や登録費でだいぶ貯金崩したし、装備も買わないといけないし、何より「次のレベル」へ進むための経験値が必要だ。


指先で画面を弾いていく。

怪しい投資話や、出会い目的の書き込みをスワイプして飛ばす。

その時、一つの募集が目に止まった。


『【急募】Dランク・地下水路マップ。荷物持ち兼雑用』

『報酬:固定2万+成果歩合。即日払い』

『条件:健康な方。ランク不問。初心者歓迎』


条件が良すぎる。

Dランクダンジョンは、正規ならランク20〜30が推奨される難易度だ。そこに「ランク不問」で、しかも即金。

裏があるのは明白だった。

捨て駒扱いか、あるいはもっと酷い扱いを受けるか。


けれど、今の僕には「走者」の足がある。

いざとなれば逃げられる。

それに、危険な場所ほど、実入りも経験値も多いはずだ。


「……行ってみるか」


僕は募集主のIDをタップした。

画面に『申請完了』の文字が出る。

数秒もしないうちに、返信が来た。


『承認。明日9時、地下鉄A駅3番出口集合』


短すぎるメッセージ。

それが、僕の「正規ハンター」としての最初の仕事の始まりだった。

この時の僕はまだ、自分の「数値」と「実力」のギャップが、どれほどの歪みを生むかを知らなかった。

そして、人の悪意が、モンスターよりも遥かにタチが悪いということも。

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