第4話 死に損ないの対価
登録証がないと気づいたのは、帰宅して靴を脱いだ直後だった。
上着のポケット、鞄の内側、財布のカード入れ。祈るような手つきで順に探しても、指先に触れるのは虚空だけ。最後に、今日一度も開けていないはずの予備ポケットをめくって、ようやく理解した。
――ない。僕の名前が印字された登録証だけが、きれいに消えている。
落とした場所を考えるのに、時間は要らなかった。
研修ダンジョンの通路。段差を避けようとして足を止めた瞬間か。袖を引かれた気がして、身体が半歩ずれたあの刹那か。カードが滑り落ちた感触など覚えていないのに、そこ以外の光景が浮かばない。
失くせば資格停止。研修は最初から。手続きと費用。
説明資料の無機質な文字が、頭の奥で冷える。僕の生活に、そんな回り道を許容する余裕はない。今の貯金残高と、次の給料日までの日数を計算しかけて、すぐにやめた。計算しても数字は増えない。
正しい手順は、管理局に届けて回収手続きを待つことだ。けれど、今日は久我さんから「封鎖継続」と言われたばかりだった。立ち入りの許可が下りるまで時間がかかるのは目に見えている。待っている間に停止処理が進むかどうか。それを分からないまま放置できるほど、僕は楽観的じゃなかった。
机の上のスマホに手が伸びかけて、止まる。
相談したら、記録が残る。封鎖中の場所に入った時点で、僕のキャリアは終わる。
誰も助けてくれない。この「死に戻り」のことだって、誰にも言えていないのだから。
僕は深く息を吐き出して、部屋の隅に置いてあった鉄パイプを掴んだ。
研修用の貸与品。中身が空洞の安物で、持っているだけで安心できるほどの武器じゃない。それでも、丸腰よりはマシだと言い聞かせるしかない。
鍵を閉め、階段を降り、夜の街に出る。
人の気配があるうちは、普通の帰宅者の顔を作った。コンビニの袋を提げたサラリーマンや、塾帰りの学生とすれ違う。彼らは僕のことなんて見ていない。僕も彼らを見ない。
電車に揺られ、駅で降りて、管理局の敷地に近づくにつれて、世界から色が抜けていくようだった。耳が勝手に、夜の静けさを拾い始める。
研修時間帯のテントは片付いていた。入口の前にはフェンスと警告テープ、立入禁止の札。照明は最低限で、地面に落ちる影が濃い。巡回の警備員の足音がいつ聞こえてきてもおかしくない。
僕は物陰に身を潜めて、周囲を見回した。監視カメラの位置は昼間に確認している。死角になるフェンスの端、身体を横にして滑り込める程度の隙間があった。
テープが衣服に擦れて、カサリと乾いた音を立てる。耳がその音だけを過剰に大きく拾って、心臓が跳ねた。足を止めて、数秒待つ。外側の気配が増えないことを確認して、僕は息を殺して中へ滑り込んだ。
入口へ。
湿ったコンクリートの匂いが鼻孔を突く。蛍光灯の白すぎる光。天井を這う配管の影。昼間と同じ造りのはずなのに、夜はまるで別物だ。僕の足音が壁に反響して、距離感が歪む。
手持ちのライトを点けた。
光の輪が床の段差と、ひび割れと、昨日の誰かの乾いた血の黒ずみを拾う。
視線は足元に固定した。滑る場所、躓く場所。通路の真ん中に立ち止まらない。背中を壁に預けない。曲がり角の手前で止まらない。
研修で何度も言われた「基本」を、呪文のように脳内で反芻する。
角を曲がって少し行った先だった。
ライトの光が、床の一点を捉えた。
暗闇の中で、そこだけ不自然に鋭い、四角い反射。
「……あった」
プラスチックの登録証だ。僕の写真と名前が入った、唯一の身分証。
その一瞬、張り詰めていた肩から力が抜けかけて――同時に、空気が沈んだ。
湿った匂いが、急激に濃くなる。喉の奥に、あの鉄錆のような味が張りつく。耳の奥がじり、と鳴る。
僕はしゃがむ動作を途中で止めた。
揺れるライトの輪の先で、柱の影が黒く滲んだように見えた。
二つの頭が、影の奥で同じ方向に向き直る。
犬の形をしているのに、関節が逆に曲がっていて、首が妙に長い。
前に倒した個体と似ている。けれど、明らかに違う。
背中から肩にかけて、板を幾重にも重ねたような硬質な装甲があり、ライトが当たると鈍く光る。歯も太い。爪も太い。
いまの僕が知っている「二頭型」より、はっきりと強そうだった。上位個体、あるいは変異種。
逃げなければ。
そう思った時には、もう遅かった。
動いた、と思う前に「距離が消えた」。
次に見えた時には、巨大な口が目の前にある。
息が止まる。首筋に冷たい感触。痛みを感じるよりも早く、視界が鮮血の色に塗り潰された。
【死亡ログ】
原因:咬断
部位:頸部
【ラン終了ログ】
終了理由:死亡
総合評価:D
内訳:
・討伐成果:あり(異界獣・二頭型)
・貢献行動:誘導/被害軽減
・難易度補正:あり
・死亡要因:単独行動(違反)
「……D?」
声にしたつもりが、音にならない。
意識だけがある暗闇の中で、表示は淡々と続く。
討伐成果が「あり」になっている。昨日、あの通路で皆と協力して倒した記録が、死んだ時点の集計に入っている。消えていない。
消えるかどうか不安だった部分が、最悪の形で証明された。僕の命と引き換えに。
【報酬処理中】
【獲得報酬】
・獲得コイン:+120
・現在コイン残高:120
【成長選択】
・レベル上昇:可能
Lv1 → Lv2(コイン消費なし)
・ジョブ選択:可能
コイン。報酬。ジョブ。
何の冗談だと言いたくなるのに、表示の方が先へ進む。僕の感情などお構いなしだ。
【解放可能ジョブ】
・見習い走者(基礎) 消費:30コイン
・見習い盾役(基礎) 消費:30コイン
・見習い剣士(基礎) 消費:30コイン
文字を追うたび、さっきの口の近さが蘇る。生々しい死の感触。
盾があれば受けられたのか。剣があれば届いたのか。
いや、どっちも現実味がない。僕が一番はっきり想像できるのは、武器を握ったまま恐怖で固まって、また噛み砕かれる自分だ。正面から戦って勝てる相手じゃない。
欲しいのは、敵を倒す力じゃない。
噛まれる前に、間合いの外へ出るための速さだ。
選択肢を端から見ていく指が、最後に「走者」で止まった。遅れて、淡い補足テキストが浮かぶ。
【補足】
走者:短距離加速(ブースト)/機動補正(持続短)
短距離のブースト。
あの一瞬に、間に合うかもしれないのは――これだけだ。
「……走者」
意思を込めると、文字が光った。
【ジョブ取得】
・見習い走者(基礎)
・消費コイン:30
【残高:90】
即座に別の枠が開いた。ジョブに紐づくスキルツリーのようだ。
【スキル解放(走者)】
・瞬発強化Ⅰ 消費:20コイン
※初動加速・踏み込み補正(微)
スキル。今度は言葉だけで分かる。
「微」という注釈が妙に現実的で腹が立つ。劇的な変化なんてない、反射神経が少し良くなるとか、足が少し速くなるとか、そういう「地味な能力」の延長線上に過ぎないのだろう。
けれど微差でも、さっきの一瞬に届くなら意味がある。0.1秒あれば、首が繋がるかもしれない。
「……取ります」
【スキル取得】
・瞬発強化Ⅰ
・消費コイン:20
【残高:70】
【レベル上昇】
Lv1 → Lv2
反映しますか?
頷く。
【反映完了】
【最終状態】
・レベル:Lv2
・ジョブ:見習い走者(基礎)
・スキル:瞬発強化Ⅰ
・コイン残高:70
【ログ通知】
再挑戦が可能です
次の瞬間、僕は激しく息を吸い込んで跳ね起きた。
蛍光灯の白。コンクリートの匂い。入口直後の通路。
首に手を当てる。傷はない。血も出ていない。
さっきまでの赤い表示が消え、代わりに現実の壁と床が戻っている。
心臓が早鐘を打っている。まだ死の恐怖が身体に張り付いている。
それでも、僕は足を一歩出した。
――軽い。
思ったより前へ出る。身体の重心が、踏み出す動作よりも先に移動するような感覚がある。勝手に転びそうになって、慌てて歩幅を小さくした。
……今のが「補正」なのか。
そう理解するより先に、角の先を思い出す。
床の四角い反射。しゃがんだ瞬間に沈む空気。二つの頭。そして、装甲の硬い輝き。
同じことを繰り返したら、また噛まれる。次は確実に拾って、逃げなければならない。
僕は壁際を選んで進んだ。
通路の真ん中を避け、曲がり角の手前で止まらない。足元を見て、段差をまたいで、呼吸を乱さない速度に抑える。自分の足音が反響するたび、背中がざわつくが、視線は外さない。
登録証が落ちていた場所に着く。
ライトが同じ四角を拾う。しゃがむ。指先が届く距離まで手を伸ばした瞬間、やはり空気が沈んだ。
来る。
柱の影が黒く滲んで、二つ頭が輪郭を持つ。背の板が、ライトを弾く。
距離が消える直前、僕は「正面に残らない」とだけ決めた。
踏み出した瞬間、身体が前方へ持っていかれる感覚に襲われる。
速い、というより――「間に合って」しまうのだ。牙の圏内に囚われる前に、横へ逃れる余裕がわずかに生まれる。
僕は通路の中央を避けた。
真ん中に立てば、あいつは一直線に跳んでくる。二つの頭が同時に僕を捉えるだろう。
かといって、壁際に寄りすぎるのも危険だ。逃げ場を失い、押しつぶされればそれで終わる。
選んだのは、柱と柱の間。退路を確保できる場所。
そこで僕は、装甲を纏った二頭型と対峙した。
怪物の背が低く沈む。
直後、距離がゼロになり、目の前に巨大な顎(あぎと)が迫った。
僕は身体ごと横へ滑り込ませる。牙が頬のすぐ横をかすめていった。
空気を引き裂く轟音が響き、遅れて獣の涎(よだれ)の臭いが鼻を突く。
来る。もう片方の頭だ。
僕は鉄パイプを振り上げた。
まともに受け止めるのではない。牙の軌道だけを、強引に逸らす。
ガン、と硬質な衝撃音が鳴り響いた。
手首に痺れが走る。装甲に弾かれただけで、ダメージは与えられていない。
「……っ」
思わず息が漏れる。焦って連打すれば、先にこちらの握力が尽きるだろう。
一撃で決め、次の一手へと繋ぐしかない。
二頭型が身を翻した。柱を回り込むようにして、こちらの死角を取ろうとする。
僕も半歩ずれ、柱を「噛みつきの射線」を遮る遮蔽物として挟み込んだ。
再び、距離が消える。
柱の影から頭が飛び出し、牙が剥かれる。
僕はすれ違う寸前で踏みとどまり、その進路だけをずらした。牙は空を切り、勢い余った顎が床を削る。
砕けたコンクリートの粉塵が舞った。
戻りが遅い。敵の首が持ち上がるまでの一瞬――。
その隙を突き、僕は前へ踏み込んだ。
ライトの光が、装甲の重なりを捉える。
装甲板の端、その継ぎ目にわずかな隙間が見えた。
僕はそこを狙って叩きつける。
ギッ、と嫌な金属音が響き、鉄パイプが跳ね返されそうになる。だが、装甲板はわずかにズレ、その重なりが浮き上がった。
二頭型が、一瞬だけ体勢を崩す。
その一瞬こそが、僕にとっての命綱だった。
次が来る。三度(みたび)、距離が消滅する。
僕は同じ場所には留まらない。かといって、柱の陰に完全に隠れもしない。
完全に姿を消せば、現れる瞬間を狙い打たれるからだ。
見せて、ずらす。
肉薄し、叩き、即座に離れる。
牙が肩口をかすめ、上着の布地が裂けた。
冷たい風が肌を撫で、心臓が跳ね上がる。
――近い。近すぎる。
僕は短く息を吐き出した。
足を動かす。思考よりも先に、身体を反応させる。
背が沈む。来る。
横へ逃げると見せかけ、あえて半歩だけ前へ。
噛みつきの軌道が狂い、牙が柱に激突して火花を散らした。
その刹那、僕は再び装甲の縁を叩いた。
ズレていた板の隙間に、今度は鈍い手応え。中身を揺さぶる感触が伝わってくる。
二つの頭の連携が、そこで初めて瓦解した。
「今だ……!」
追いすぎず、離れすぎず。攻撃が届く最短の距離を保ったまま、
装甲が途切れる首の付け根へ、渾身の力で鉄パイプを叩き込んだ。
骨が砕けるような音が響き、
装甲の二頭型は、その場に崩れ落ちた。
黒い塊が床に広がり、糸が解けるように霧散していく。
最後に残った白い歯も、ライトの残光の中で消えていった。
視界の端が、チリッと光った。
僕は鉄パイプを構えたまま、数秒間立ち尽くしていた。
そしてようやく、その光の正体を見つめた。
【討伐ログ】
対象:異界獣(二頭型・装甲種)
討伐記録:保存済み
貢献行動:単独討伐
状態:未確定
文字が表示されると同時に、黒い霧の中から小さな欠片が残った。
石のような、骨のような、灰色の塊。
それを拾う余裕はなかった。僕は震える手で、床に落ちていた登録証を掴み取った。
プラスチックの感触。これだ。これを取りに来たんだ。
安堵よりも先に、吐き気がこみ上げてくる。
勝った。生き残った。
けれど、あの感覚が手に残っている。骨を砕く感触。鉄パイプがひしゃげる音。
そして何より――自分の身体が、自分のものではないみたいに動いた感覚。
レベル2。瞬発強化。
たったそれだけの「数値」が、生死を分けた。
僕は逃げるように出口へ向かった。
足音を殺し、フェンスの隙間を抜け、夜の街の空気を吸い込むまで、一度も振り返らなかった。
帰り道、手の中の登録証を握りしめながら、僕は思う。
これで研修は続けられる。資格も失わずに済んだ。
でも、もう元には戻れない。
僕は知ってしまった。
死ねば、強くなるシステムを。
そして、その力を使えば、あの化け物さえ殺せることを。
夜風が、汗ばんだ首筋を冷やした。
その冷たさは、ダンジョンの中の空気とよく似ていた。
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