第3話 紙の上の現実

翌朝、目が覚めた瞬間に、僕はまず自分の首元に触れた。

傷はない。噛み砕かれた感触もない。

だというのに、指先が触れた皮膚には、あの時の冷たさだけがこびりついているようで、何度も確かめずにはいられなかった。


キッチンへ行き、蛇口をひねる。

水流の音が、静かな部屋にやけに大きく響く。

コップに注いだ水を一気に煽ると、冷たさで喉の奥がキリリと痛んだ。けれど、その痛みが逆に僕を落ち着かせてくれた。


昨日まで見慣れていたはずの部屋が、どこか遠い。

窓の外に広がる日常が、一枚の薄いガラス越しに見ているかのように現実味を欠いていた。


スマホの画面を点ける。

並んでいるのは、いつも通りの通知だ。仕事の連絡、今日の天気、ポイント還元の案内、どうでもいい広告。

しかしその中に一件だけ、異質な文字の羅列が紛れ込んでいた。


【ダンジョン管理局 第七出張所】

『研修ダンジョン案件について:確認事項がございます。朝霧透さん、本日業務終了後、当出張所へお越しください』


胸の奥が冷えた。

僕だけが覚えている「死に戻り」のことは、誰にも言えない。

だが、昨日の事故そのものは記録に残っている。管理局が動いている以上、呼び出されるのは当然だった。


――行くしかない。

行かないまま放っておく方が、あとで面倒になる気がした。


仕事は、いつも通りだった。

上司の叱責、キーボードを叩く音、コピー機の排熱の匂い。

何も変わらないはずなのに、ふとした瞬間にオフィスの蛍光灯がダンジョンの照明と重なって見える。

椅子のきしむ音が、あの通路に響く足音に聞こえる。

そのたびに呼吸が浅くなり、僕は意識して深く息を吐き出すしかなかった。



退社後、駅前の雑居ビルへ向かった。

ダンジョン管理局、第七出張所。三階。

受付で名前を告げると、昨日と同じように奥の部屋へと通された。


殺風景な面談室には、白い長机とパイプ椅子、そして壁掛け時計だけがある。


「朝霧さん、本日はご足労いただきありがとうございます」


入ってきたのは、昨日の現場にもいた女性職員だった。名札には「久我(くが)」とある。

髪をきっちりとまとめ、手には厚いファイルを持っている。丁寧な口調だが、その瞳に温度はない。


「いえ……こちらこそ」


「まず状況の確認です。昨日の研修ダンジョンで遭遇した個体は、本来出現するはずのないイレギュラーでした。現在、当該ダンジョンは封鎖されています」


封鎖。

つまり、あそこにはもう誰も入れないということだ。

それを聞いて、張り詰めていた糸が少し緩んだ気がした。安堵していい話ではないと分かっていても、身体が勝手に反応してしまう。


「参加者への聴取は順次行っています。朝霧さんには、昨日の『誘導』について確認したい点がいくつかありまして」


僕は慎重に言葉を選んだ。

話していいのは、他の人間が見ていた範囲のことだけだ。余計なことを口にして、不審がられるわけにはいかない。


「……必死だったので。敵の動きがあまりに速くて、近づいたら危ないと思ったんです。だから叫びました」


久我さんは淡々とメモを取る。


「その『速い』という表現が、他の研修生よりも具体的でした。跳躍ではなく、『距離が消えるように見えた』と」


「……はい。僕にはそう見えました」


「分かりました。では、ここからは事務的な通達になります」


久我さんがファイルから一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。

管理局のロゴが入った厚手の用紙。そこに並ぶ活字が、現実を突きつけてくる。


『異常個体発生に伴う対応について』

『当該ダンジョンの無期限封鎖』

『研修生の安全確保を最優先とする』

『本件の記録は、ランク算定資料として一部参照される』


「……ランク算定」


思わず呟くと、久我さんは頷いた。


「はい。研修はあくまで訓練ですが、現場での行動記録は実績として残ります。今回の件も、あなたの評価に影響する可能性があります」


脳裏に昨日の光景が蘇る。

鼻をつく血の匂い。二つの頭を持つ影。砕け散る人体。

あの惨劇が、この紙の上ではただの「実績」というデータに変換されている。

酷く無機質で、だからこそ現実的な響きだった。


「……ランクというのは、やっぱり強さの指標なんですよね」


「一概に強さだけとは言えません。総合評価です」


久我さんは一拍置いて、説明を続けた。


「管理局の定めるランクは、単純な戦闘力だけでなく、過去の実績、生還率、挑んだダンジョンの難易度、適性などを点数化して決定されます」


彼女は淡々と数字を挙げる。


「研修生は通常、ランク10番台からスタートします。正規ハンターの平均は30から40。一流と呼ばれる層が50から70。そしてランク80を超える者は、国内でも8人しかいません。90以上となれば、日本には一人もいない。これが世界共通の指標です」


途方もない数字だ。

僕らのような一般人が足元にも及ばない、雲の上の世界。


久我さんは紙をめくり、次の項目を指し示した。


『研修・登録・記録作成:アカデミー(管理局)』

『攻略組織:クラン(民間)』


「クラン、ですか」


「ええ。ダンジョン攻略を事業とする民間組織のことです。大手になればスポンサーがつき、装備、医療、情報通信などの支援を受けられます」


昨日見たのは、管理局の簡易テントだけだった。

あれでも十分だと思っていたが、プロの世界はさらに物量と金がモノを言うらしい。


「……じゃあ、強いクランに入れば、それだけで生き残れる確率が上がるんですね」


「有利なのは間違いありません。ただし、義務も生じます」


久我さんの声が少し低くなった。


「スポンサーがいる以上、成果は絶対です。契約に基づいた攻略が優先され、もし事故が起きれば、その責任は現場のハンターにのしかかる。……そういう厳しい側面もあります」


責任。成果。契約。

血生臭いダンジョンの話なのに、まるで会社の営業会議のようだ。だが、それが今の「ハンター」という職業なのだろう。


「今回の研修で良い記録を残せば、クランからスカウトが来ることもあります。ですが――」


久我さんはファイルを閉じ、真っ直ぐに僕を見た。


「朝霧さん。昨日の誘導は、研修生としては適切な判断でした。ですが、無理に前に出る必要はありません。あなたの役割は、まず『生きて帰ること』です」


その言葉は重かった。

英雄になることでも、金を稼ぐことでもない。

ただ生きて帰る。それが、この仕事の最低条件にして最大の難関だ。


最後に、彼女は釘を刺すように言った。


「本件について、外部への口外は控えてください。特にSNS等への投稿は厳禁です。違反すれば、資格停止処分となります」


「……承知しました」


分かっている。

誰かに話したところで、僕の「死に戻り」のことなんて誰も信じないだろう。

この記憶は、僕の中だけで抱えていくしかないのだ。


       


面談を終えてビルを出ると、外はすっかり暗くなっていた。

帰りの電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。

昨日と同じ顔。けれど、目の奥には拭いきれない影が落ちている。


アパートに帰り着き、鍵を開け、ドアを閉める。

静寂が降ってくる。


「……ログ」


誰に聞かせるでもなく、小さく呟いてみた。

何も起こるはずがない。そう思った次の瞬間。


視界の端に、薄い赤色が滲んだ。

昨日ほど強烈な光ではない。紙の切れ端のような小さな枠が、静かに点滅している。


【ログ通知】

記録:保存済み

詳細条件:未開示


心臓が早鐘を打った。

やっぱり、見える。僕にだけ。


僕はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。

自分の手のひらを見つめる。

昨日、僕は一度死んだ。そして世界は巻き戻った。

管理局の書類には「異常個体の発生」としか書かれていないが、僕の記憶にはあの痛みが、絶望が、鮮明に残っている。


これから先、紙の上では処理されたはずの「死」が、僕の中には積み重なっていくのだろうか。


得体の知れない不安を振り払おうとして、机の上に置いてあるはずの登録証に手を伸ばした。

とりあえず、定位置に戻しておこう。そう思った時だった。


――ない。


指先が空を切る。

カードケースを開く。空っぽだ。


一瞬、思考が停止した。

背中から冷たい汗が吹き出す。


鞄をひっくり返す。ポケットを探る。床を這いずり回る。

ない。どこにもない。

僕の名前と写真が入った、唯一のハンター登録証が消えている。


いつ落とした? どこで?

記憶を巻き戻す。会社、駅、家。確証がない。

だが、ひとつだけ引っかかる場面があった。


昨日の研修終了後。

テントの前で装備を返却し、安堵で息をついた時。

汗で滑る手でカードケースを開いた記憶がある。ちゃんと閉じたか? 挟み損ねていないか?


……あの中だ。


封鎖されたダンジョン。

久我さんが「立ち入り禁止」だと言った、あの場所。


失くせば再発行? いや、それだけじゃ済まない。

管理区域内での紛失は重過失だ。最悪の場合、資格停止処分になるかもしれない。そうなれば研修はやり直し、費用も、時間も、全てが水の泡だ。

今の僕の経済状況で、それは致命的だった。


カードケースを握りしめる手に力がこもる。

深呼吸をするが、酸素がうまく入ってこない。


管理局に届け出るべきか?

いや、封鎖中だと言われたばかりだ。許可が下りるまで何日かかるか分からない。その間に紛失が発覚すれば終わりだ。


机の上の空のケースを見つめ、僕は小さく呟いた。


「……取りに行くしかない」


選択肢はなかった。

僕は立ち上がり、再び夜の街へと向かう準備を始めた。

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