第2話 残った温度と見えない線

ダンジョンの外に出た瞬間、肺の奥に溜まっていた空気が一気に吐き出された。

白い光がやけに強く、目を細める。地上の空気は湿っていて、汗ばんだ肌に張りつく感じがした。


足の裏がまだ現実に追いついていない。

しっかり地面を踏んでいるはずなのに、感覚が薄い。まるで一段低い場所を歩いているみたいだった。


「……透くん?」


明菜さんの声に呼ばれて、ようやく顔を上げる。

すぐ隣に立っている。盾を抱えたまま、こちらを覗き込むように見ていた。


「大丈夫ですか? さっきから、少し……ぼーっとしているみたいですけど」


「……はい。ちょっと、疲れただけです」


咄嗟にそう答えた。

嘘ではない。少なくとも、全部は嘘じゃない。


疲れているのは本当だ。

体力的にも、精神的にも。首の辺りに、理由のわからない寒気が残っていることを除けば。


ダンジョン管理局の簡易テント前では、職員たちが慌ただしく動いていた。負傷者の確認、装備の回収、報告の聞き取り。研修とはいえ、あれだけの異常個体が出れば、対応は本番と変わらない。


現場リーダーが、順番に声をかけていく。


「怪我のある者は医療班へ。ない者も、簡単なチェックは受けてから解散だ。勝手に帰るなよ」


僕は列に並び、形式的な確認を受ける。脈拍、瞳孔、簡単な質問。

「問題ありません」と告げられて、リストにチェックが入った。


それだけだ。

誰も、僕を特別視しない。

誰も、「一度死んだ」なんて思わない。


当たり前だ。

そんなこと、起きていないことになっているのだから。


テントから少し離れた場所で、研修組が固まっていた。

転んでいた少年は、毛布を肩にかけられて座り込んでいる。顔色はまだ悪いが、命に別状はなさそうだった。


その様子を見て、胸の奥が少しだけ緩む。


「……良かった」


思わず、声に出ていた。


「透くん?」


「いえ……あの人が、無事で」


明菜さんも少年の方を見て、静かに頷いた。


「はい。本当に……」


それ以上、言葉は続かなかった。

何を言えばいいのか、分からなかったのだと思う。


しばらくして、解散が告げられた。

各自、登録証を返却し、今日の研修は終了。次回の案内は後日連絡されるという、いつも通りの流れ。


いつも通り。

それが、ひどく不気味だった。


管理局の敷地を出て、駅へ向かう道。

夕方の空は薄く曇っていて、オレンジ色が滲んでいる。


「透くん」


歩き出してすぐ、明菜さんが声をかけてきた。


「もし、よかったら……途中まで一緒に帰りませんか」


一瞬、言葉に詰まる。

意外だった。


「え……?」


「いえ、その……今日、ちょっと、色々ありましたし」


少しだけ視線を逸らして、そう付け足す。

理由はそれだけ。変な気遣いでも、過剰な同情でもない。


ただ、“今日を共有した人間同士”としての自然な提案だった。


「……そうですね」


断る理由はなかった。


並んで歩きながら、しばらくは何も話さなかった。

靴音と、遠くの車の音だけが続く。


沈黙が苦しいわけじゃない。

むしろ、助かっていた。今は、余計な言葉を選ぶ余裕がない。


「……怖かったですね」


ぽつりと、明菜さんが言った。


「はい」


即答だった。


「正直、研修って聞いていたので……ここまでだとは、思っていなくて」


「僕もです」


それは、間違いなく本音だった。

“研修用ダンジョン”。

“初心者向け”。

その言葉を、僕はどこかで信じていた。


「……でも」


明菜さんが、少しだけ歩く速度を落とす。


「透くん、すごかったです」


「え?」


「さっき……その、モンスターが出てきた時。声、出してましたよね。方向とか」


心臓が、どくりと鳴った。


「……あれがなかったら、もっと大変だったと思います」


違う。

すごくなんてない。


僕は、何もしていない。

ただ、叫んだだけだ。

それも、怖くて。


「……たまたまです」


そう答えると、明菜さんは小さく首を振った。


「たまたまでも、助かりました」


それ以上は、言わなかった。

それで十分だった。


駅前が見えてきて、別れ道に差しかかる。

明菜さんが立ち止まった。


「今日は……ありがとうございました。一緒に帰ってくださって」


「こちらこそ。……ありがとうございました」


頭を下げて、別れる。

彼女の背中が人混みに消えていくのを見届けてから、僕は改札へ向かった。


電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見る。

疲れている。青白い。

それでも――生きている。


その瞬間、視界の端が、ほんの一瞬だけ歪んだ。


赤い文字は、出ない。

音もない。

ただ、“線”だけが見えた気がした。


ここまで。

ここから先。


そんな境界線。


次の駅で降りる。

ホームに立った瞬間、その感覚は消えていた。


気のせいだ。

そう言い聞かせて、歩き出す。


家までの道は、いつもと同じ。

コンビニの明かり、夜風、遠くのテレビの音。


なのに。



——僕は、同じ道を歩いているのに、どこか違う場所にいるみたいだった。

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