野上さんノート 三冊目

十六月 九十万日

 野上さんの膝が、ついに空に届いた。  校庭を走る野上さんが膝を高く上げるたびに、雲が蹴り飛ばされて、空に大きな穴が開いた。穴の向こう側は真っ暗で、そこから「ペチ、ペチ」という音が雨のように降り注いでいた。  私は、その穴の直径を正確に測ろうとしたけれど、定規を空に向けた瞬間に、定規がぐにゃりと曲がって、私の指に巻き付いた。  私の指は、定規の目盛りと同じように、一ミリ刻みで節が増えていた。


二十二月 三百億日

 野上さんが、自分の頭を外して机の上に置いた。  頭のない野上さんは、そのまま給食のパンを首の穴から流し込んでいた。机の上の頭は、じっと三十秒間だけ目を閉じていた。  私は、その様子を「正しい姿勢」で観察した。先生は首のない野上さんに「音を立てて食べないように」と注意した。  私は、自分の頭がまだ首の上に乗っていることが、ひどく場違いで、恥ずかしいことのように思えてきた。


零月 零日

 校舎が、ゆっくりと裏返り始めた。  床が天井になり、窓からは地面が見える。  野上さんは、裏返った天井の上を、例の走り方でパタパタと走り回っている。彼女が足をつくたびに、コンクリートが花びらみたいに柔らかく散っていく。  私は、自分が逆さまにならないように、机の脚に自分の体を紐で固く結びつけた。  私は、最後まで「正しい向き」でいなければならない。それが、私が私であるための、たった一つの決まりだからだ。


欠落

 野上さんが、嘘をついた。 「ねえ、あなたの心臓、さっきから私のポケットの中で鳴っているよ」  私が自分の胸に手を当てると、そこには何もなかった。空っぽの洞窟みたいな穴が開いていて、中では小さな金魚が泳いでいた。  野上さんがポケットから私の心臓を取り出した。それは、一秒の狂いもなく、メトロノームみたいに正確なリズムを刻んでいた。  野上さんは「これ、つまんないね」と言って、私の心臓を校庭の穴に向かって放り投げた。


数字のない日

 学校から、壁がなくなった。  教室も、黒板も、先生も、すべてが消しゴムのカスになって、空へ昇っていった。  残されたのは、真っ白な空間と、野上さんと、私だけ。  野上さんは、もう自分の形を保っていなかった。  彼女は、巨大な「走り方」そのものになって、白い空間をペチ、ペチ、と鳴らしながら、四方八方に広がっていた。  彼女は、あらゆる場所にいた。  彼女は、嘘そのものになり、間違いそのものになり、私の肺の中にまで入り込んで、パタパタと手を振っていた。


 私は、自分の足を、自分で折った。  野上さんのような、あの「おかしな走り方」をするために。  骨が砕ける音は、とても正しく、論理的だった。  私は、折れた足を引きずって、白い空間を走ろうとした。  膝を高く上げ、手をパタパタと振る。  でも、駄目だった。  私の脳は、折れた足で走るための「最も効率的な重心移動」を、勝手に計算し始めていた。  私は、壊れた体を使って、またしても「完璧な間違い」を演じているだけだった。


 野上さんが、どこからか声をかけた。 「もういいよ」  その瞬間、私の背中から、何万枚もの羽が生え出した。  羽はすべて、一ミリの狂いもなく整列した、真っ白な定規でできていた。  私はその定規の羽を羽ばたかせて、どこまでも白い、何もない、正しい地獄の中を、ペチ、ペチ、と音を立てながら、永遠に走り始めた。


 野上さんは、もうどこにもいなかった。  けれど、私の心臓のあった場所で、彼女のあの「価値のない嘘」だけが、いつまでも、いつまでも、温かい毒のように脈打っていた。

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野上さん 虚村空太郎 @Kutaro_Kyomura

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