野上さんノート 二冊目
八月六十日
野上さんが給食のパンを食べて目を閉じる時間が、三十秒から三十一秒になった。 私のストップウォッチが、正確にその一秒のズレを告げている。 野上さんは目を開けたあと、自分の手を見て、「指が一本増えたみたい」と言った。私は彼女の手を数えたけれど、指はちゃんと五本だった。 私は、自分の指を一本ずつ、丁寧に、正しく折り曲げて確認した。
十月百二十日
野上さんの走り方に変化があった。 膝を高く上げるのは相変わらずだけれど、空いている方の手で、自分の耳をずっと引っ張りながら走るようになった。 ペチ、ペチ、という音に、シュッ、という風を切る音が混ざる。 私は、廊下の端でその音を聞きながら、自分の耳を触ってみた。私の耳は、教科書に載っている通りの場所に、正しい形で張り付いていた。
十二月九百日
雪が降るのをやめて、地面から空に向かって白い粒が昇り始めた。 野上さんは、それを捕まえようとして、口を大きく開けて上を向いたまま、ずっと静止していた。 私は、重力に従って落ちてこない雪を見て、「これは間違いだ」と思った。 でも、学校の誰も、先生も、昇っていく雪について注意をしなかった。私も、いつも通りにノートを取り、いつも通りに正しい漢字を練習した。
十四月三万日
野上さんが、新しい嘘をついた。 「ねえ、昨日の夜、あなたの顔が鏡から剥がれて、窓の外を飛んでいったよ」 私は、洗面所へ行って鏡を見た。 そこには、いつも通りの、整った私の顔があった。 でも、右の頬の裏側あたりに、ほんの少しだけ、野上さんの走り方と同じリズムの鼓動を感じた気がした。私は、その違和感を消し去るために、冷たい水で三回、正しく顔を洗った。
零月二百日
野上さんが、私の机の上に、一欠片の「消しゴムではないもの」を置いた。 それは白くて、柔らかくて、少しだけパンの家の匂いがした。 野上さんは「これ、私の膝の一部だよ」と言った。 私はそれを捨てることができずに、筆箱の一番奥、定規の隣にそっとしまった。 私の筆箱は、いつも整頓されていて、無駄なものは一つも入っていないはずだった。
二月四千日
野上さんは、ついに走るのをやめた。 その代わりに、一歩進むごとに、自分の影を踏みつけるような奇妙なステップで歩き始めた。 私は、その後ろについて歩いてみた。 野上さんの歩幅は、三十二センチだったり、百五センチだったりして、少しも安定しなかった。 私は、自分の歩幅を正確に七十センチに保ちながら、彼女の影が歪むのをじっと見つめていた。
八月八万日
カレンダーの数字が、もう私の知っている文字ではなくなった。 それでも、朝が来ればチャイムが鳴り、私たちは席に着く。 野上さんは、給食のパンを口に含んだまま、もう一時間も目を閉じている。 先生も、クラスの誰も、彼女が目を開けるのを待っていない。 私は、彼女の隣で、自分のストップウォッチが一周し、二周し、やがて数字が崩れていくのを眺めていた。
マイナス一月一日
野上さんが、ふっと目を開けた。 彼女の瞳の中に、私が今まで一度も見ることができなかった「パンの家」が映っているのが見えた。 野上さんは、私を見て、少しだけ笑った。 「あなたの背中、もう羽で見えないよ」 私は、自分の背中を触ろうとした。 けれど、私の手は、そこにあるはずの「正しい自分の体」を、うまく見つけることができなくなっていた。 私は、野上さんの真似をして、膝を少しだけ高く上げてみた。 ペチ、と、私の足から、初めて「正しくない音」がした。
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