野上さん

虚村空太郎

野上さんノート 一冊目

四月十二日

 野上さんは、走り方が変だ。  膝を高く上げて、両手をももに叩きつけるようにして走る。  私は、教科書通りの走り方をする。腕を適度に振り、重心を前に置く。私の影は地面の上をなめらかに滑っていくけれど、野上さんの影はいつもバタバタと暴れている。  野上さんが通り過ぎたあとの土には、あべこべな足跡が残る。私は、自分のまっすぐな足跡を見ると、少しだけ吐き気がする。


五月二十九日

 野上さんは、給食のパンを一口食べると、必ず目を閉じる。  三十秒間。彼女は彫刻みたいに動かなくなる。  私は、周りの空気に合わせて口を動かす。笑うべきところでは口角を上げ、驚くべきところでは少しだけ目を見開く。  私は、自分のまぶたがどれくらいの速さで瞬きをしているか、すべて把握している。野上さんの暗闇は、きっと私のものよりずっと深い。


六月十七日

 野上さんが嘘をついた。 「昨日の夜、うちの屋根の上に、大きなクジラが寝ていたよ」  私は、それが嘘だと知っている。野上さんの家の屋根にクジラが乗るはずがない。  私は、嘘をつけない。私がつく嘘には、必ず「理由」がついて回るからだ。野上さんの嘘は、雨が降るのと同じくらい、ただそこにあるだけの現象だ。  私は、自分の正しい言葉が、喉に刺さった魚の骨みたいに痛い。


八月三十一日

 明日から九月だ。  宿題はすべて終わっている。一行の乱れもなく、丁寧な字で埋められている。


八月三十二日

 今日も学校へ行った。  野上さんは、相変わらず変な走り方で校門をくぐった。  私も、いつも通りに歩いた。  カレンダーは変わっていないけれど、誰も何も言わない。先生も、いつもと同じ場所で、いつもと同じ漢字を黒板に書いている。


八月四十五日

 野上さんの靴箱を覗いた。  上履きのかかとが、不自然な形に潰れている。  私の靴は、今日も新品みたいに整っている。私は、正しい足の入れ方を一度も間違えたことがない。  野上さんの靴のシワが、少しずつ増えていくのを観察するのが、私の日課になった。


十月八十日

 野上さんが、消しゴムのカスを丁寧に集めて、小さな山を作っていた。  その山に向かって、彼女は小声で「おはよう」と言った。  私は、自分の消しゴムのカスをすぐにゴミ箱へ捨てる。机の上をいつも綺麗にしておくのが、正しい生徒のあり方だから。  野上さんの机の上の小さな山が、うらやましくてたまらない。


十二月四百日

 外は雪が降っているけれど、誰もコートを着ていない。  野上さんは、中庭で雪を食べようとして、舌を長く出していた。  その姿があまりにも不格好だったので、私は窓ガラスを指でなぞった。  私は、冷たいものを冷たいと感じ、熱いものを熱いと言う。  野上さんは、雪を見て「あったかいね」と言った。  その嘘は、あまりにも白くて、私の目には見えない光を放っていた。


三月千二百日

 卒業式の練習が始まった。  でも、誰も「卒業」が何なのかを知らないみたいだ。  ピアノの音に合わせて、私たちは正しく起立し、正しく礼をする。  野上さんだけが、礼の角度がいつも少しだけ深い。深すぎて、床に頭をぶつけそうになっている。  私は、分度器で測ったような正確な角度で頭を下げる。  私の背筋は、いつまでも真っ直ぐに伸びたままだ。


七月五千日

 野上さんが、また走り始めた。  膝を高く上げ、パタパタと手を振る。  ペチ、ペチ、という音が、誰もいない廊下に響く。  私は、その音を数える。  一、二、三、四。  五千、五千一、五千二。  私のカウントは、一回も狂わない。  野上さんは、どこへも行かずに、ただ同じ場所を走り続けている。


十三月二万日

 野上さんが、食べるときに目を閉じる時間が、少しだけ長くなった。  一分。二分。  私は、じっと彼女が目を開けるのを待っている。  教室の壁には、私たちが書いた「将来の夢」という作文が、何年も、あるいは何万年も前から貼り出されている。  私の作文には、「立派な大人になりたい」と書かれている。  野上さんの作文には、何も書かれていない。ただ、鉛筆で何度も何度も、円が描かれているだけだ。


零月零日

 野上さんの走り方は、今日も変だ。  私は、今日も正しく歩く。  チャイムが鳴る。  誰もいない教室で、野上さんと私だけが座っている。  野上さんが、私の顔を見て、誰の得にもならない嘘をついた。 「ねえ、あなたの背中に、羽が生えているよ」  私は、自分の背中を触る。そこには、アイロンの効いた清潔な制服の感触しかない。 「嘘だよ」と私が言うと、野上さんは楽しそうに、膝を高く上げて、窓の外へと走っていった。  私は、その後ろ姿を、一秒の狂いもなく動き続ける時計の音と一緒に、ただ眺めていた。

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