パレード


 ブルックリン地区上空。

 鉛色の雲を切り裂くように、反重力エンジンを搭載した浮遊車両エア・カーの車列が光の川となって流れる。その傍らを、翼長数メートルにも及ぶ異形の怪鳥や、機械と肉が融合したサイボーグ・ワイバーンが並走し、時折、縄張りを主張して車両へと突撃を敢行しては、自動迎撃システムによって撃ち落とされていく。

 地上に目を向ければ、アスファルトを突き破って出現した巨大な芋虫型の魔獣がバスを丸呑みにし、次の区画では『異能者』同士の抗争による爆炎がビルのガラスを震わせている。

 日常的な混沌。

 この魔都において、平穏とは惰弱の別名に過ぎない。そんな喧騒の坩堝を、一陣の赤い疾風が駆け抜けていた。

 ルビアズ・ジャスパー。

 普段の彼女であれば、億劫そうに欠伸を噛み殺しながら歩く場面だが、今の彼女の足取りは羽毛のように軽い。

 音速の壁すら容易く突破する超高速機動。本来であれば、その衝撃波ソニックブームだけで周囲のガラスを粉砕し、鼓膜を破るところだが、彼女が使用する衝撃相殺術サイレント・フィールドが物理法則への干渉を最小限に抑え込んでいる。特別な技術ではない。ある程度の強者なら誰でも使える、物理法則すら捻じ曲げる技術。

 進路上に、ぬらりと光る粘液質の怪物が立ち塞がった。彼女は速度を緩めない。ただ進行方向上の障害物として認識し、すれ違いざまに不可視の手刀を一閃。怪物は自身が両断されたことすら認識できぬまま、左右へと別れて崩れ落ちた。


 目指すはスタッテンアイランド区。

 先ほどみほよが特定した、ターゲットの座標である。疾走するルビアズの脳内に、みほよからの通信映像が割り込む。『デバイズ』のウィンドウには、銀行の監視カメラ映像と、解析データが表示されていた。

 ボサボサの金髪に、サイズの合わないジャケットを羽織った女。

「こいつか」

『はい。個人情報特定済みです。対象の名は、ピメリー・バルドー。戸籍等の公的記録は一切存在しません。あらゆる情報網で探りを入れましたが、出生記録すらありませんでした』

「見た目からして、典型的な掃き溜め育ちガター・ラットか」

 ルビアズは鼻を鳴らす。この街では、スラムの汚水の中から湧いたボウフラのように、戸籍を持たぬまま裏社会に生息する住人など珍しくもない。

 視線を『デバイズ』内の映像へと移す。女────ピメリーが、右腕を烏賊の触腕へと変形させ、警備員たちを肉片へと変えている場面だ。

「『肉体変異型ミューテーション・タイプ』か。めんどくさいな、普段なら受けたくない案件だ」

 露骨に嫌そうな声を出すルビアズに、みほよが苦笑混じりに返す。

『こんな時にまで愚痴らないでくださいよ。一攫千金のチャンスなんでしょ?』

「ああ。だが、こいつは大したことないかもな。この映像から、技術や知性の欠片も感じられない。ただの本能だけで動く獣だ」

 会話の間に、ルビアズはヴェラザノ・ナローズ・ブリッジを越え、港湾地区へと到達していた。眼前に広がる海峡の向こう、スタッテン島が霞んで見える。

『そうですか? 知性はともかく、映像の破壊力を見る限り、私にはとてつもない強者にしか見えませんが……』

「いや、恐らくは基本存在アルファ級の『エグジスト』だろう。一個体で国家や世界を脅かす上位存在ベータクラスですらない」

 冷徹に断言する。

『なーんだ、良かったじゃないですか。それならルビさんの手にかかれば、すぐ片付きますよ』

「……面倒なのは、こいつが『変異型ミュー』だという点だ。すぐ死んでくれるといいんだが」


 ここで、『エグジスト』という種が持つ特性について触れておかねばならない。

 彼らの能力は個体によって千差万別であり、その発現形態によって大きく四つのカテゴリーに分類される。その中の一つが、『肉体変異型ミューテーション・タイプ』、通称『変異型ミュー』である。

 『エグジスト』はその個体それぞれの能力特性により体質そのものが変化する────例えば火炎能力者であれば溶岩のごとき耐熱性を得るように────が、『変異型ミュー』はそれが外見や生理機能に著しく顕現する。

 ピメリーの頭足類を思わせる瞳孔や、軟体動物特有のヌメリを帯びた、外套膜を連想させる肌質は、その最たる例だ。

 彼らに共通する特徴は、自身の肉体を流動的に、あるいは爆発的に異形へと変貌させ、既存の生物種のように変貌し、それらを凌駕する身体能力を発揮すること。また、地上のどの生物にも該当しない未知なる姿へ変貌する者も多い。そして何よりも、『肉体変異型ミューテーション・タイプ』最大の特徴として、理不尽なまでの再生能力にある。

 いかに不老不死に近い『エグジスト』といえど、心臓の破壊や頭部の切断は致命傷になり得る。特に下位から平均的な個体であれば、再生には相応の時間とエネルギーを要するし、もしくはそれで死にかねない。

 通常の『平均的個体アルファ』であれば、欠損した腕が生え変わるのに数日から一週間。より上位の『上位存在ベータ』であっても、数十分から数時間は要するだろう。

 だが、『肉体変異型ミューテーション・タイプ』は次元が異なる。

 彼らにとって肉体とは粘土細工のようなものだ。『基本存在アルファ』級ですら、四肢の欠損程度なら瞬きする間に修復する。『上位存在ベータ』級に至っては、脳漿をぶちまけられようが、全身を挽肉にされようが、冗談のような速度で美しく、元の形へと回帰する。


 殺しても死なないゴキブリを相手にするような徒労感。それが、ルビアズが顔をしかめる理由であった。

 港の端で軽く膝を沈め、バネのように跳躍した。海面を蹴り、空気を踏みつけ、一気に海峡を渡る。

『座標、送りました。やや距離がありますが』

「問題ない。よし、さっさと終わらすぞ。時給で数百万人の生涯年収を稼いでやる」

『何言ってるんですか。真面目にやりましょ』

「……一応私、上司というかボスなんだが」

『はいはい、ボス。早く仕事終わらせましょ』

 みほよの軽いあしらいに、ルビアズは肩をすくめる。

 面倒な相手との戦闘に一抹の憂鬱を感じつつも、彼女は莫大な報酬を夢見て、上機嫌でスタッテン島の大地を踏みしめた。



 ピメリー・バルドー《Pimery Bardot》は、かつてないほどに苛立ちを募らせていた。

 事の発端は先日からだ。首尾よく銀行から大量の『生体認証鍵バイオ・キー』を強奪したまでは良かった。だが、脳筋の彼女にはその高度なセキュリティを解除する術などあるはずもない。

 そこで裏社会の魔術師ギルドに解析を依頼したのだが、それが運の尽きだった。強欲な魔術師どもは、解析した『キー』の中身を自らの懐に入れ、あろうことかピメリーを始末しようと結界に閉じ込めた上でトンズラをこいたのだ。

 当然、ピメリーは結界を物理的に食い破り、地の果てまで追いかけて捕獲。三日三晩に匹敵する苦痛を数分間に圧縮したような拷問の末、ギルドの構成員を皆殺しにした。

 だが、肝心の金は既に電子の海へと分散送金された後であり、『キー』はただのプラスチック片と化していた。

 全ては無駄足。

 さらに悪いことに、その後の翌日、つまり今日、どこからか嗅ぎつけた見知らぬ追手────モリス・ジョーンズが差し向けた傭兵部隊や暗殺者────が次々と襲来した。白昼堂々と行った犯行、当然の事ではあるが、彼女にそんな猿でも分かることを考える知性はない。

 もちろん全員、彼女の手により下水道の肥やしになったが、中には下位とはいえ『エグジスト』も混じっており、多少の手傷を負わされた。

「ちッくしょう! あのゴミ共がァ! 私の金を返せェッ!」

 ピメリーは吠えた。

 場所は、スタッテン島の一角にある歓楽街兼スラム。混沌が煮凝りとなったような街並み。路上ではドラッグでキマった改造人間が交通事故を起こして爆笑し、罵声が飛び交う喧嘩の横で、マンホールやデンから這い出したワーム状の魔獣がホームレスを咀嚼している。

 日常茶飯事の光景。ピメリーは周囲の惨状など気にも留めず、肩を怒らせて歩く。

 『エグジスト』たる絶対的な余裕。

 行く手を、五人の男たちが塞いでいた。全身にタトゥーを入れ、安っぽいサイバネティクスで武装した『異能者』のチンピラ集団だ。何やら揉めている最中らしい。

「どけ、蛆虫共」

 ピメリーがドスの効いた声で吐き捨てる。男たちが一斉に振り返った。薄汚い格好の女一人。彼らの目には、格好の獲物カモ、あるいは慰み者にしか映らなかったのだろう。

「あァ? なんだこのアマ、良い度胸────」

 下卑た笑みを浮かべ、一人が手を伸ばそうとした。

 刹那。

 ピメリーの右手の五指が、粘液を滴らせる触手へと変形し、鞭のようにしなった。ヒュンッ、という風切り音すら置き去りにする速度。次の瞬間、五人の男たちは一斉に顔面を押さえて蹲っていた。

「ぎゃああああああああッ!!?」

「め、目が! 俺の目がァッ!!」

 顔を抑える指の間から鮮血が溢れ出す。

 ピメリーは彼らの眼球を殺傷能力のある触手で、凄まじい速度で、乱雑に抉り取ったのだ。殺しはしない。視界を奪い、一生消えぬ恐怖を植え付ける、陰湿な嫌がらせ。

「哺乳類ってやつァ、どいつもこいつも痛がり屋・・・・だな」

 ピメリーは興味を失ったように、のたうち回る男たちを跨いで歩き去る。

 その背後から、視力を失った男の一人が、錯乱状態で火炎系の攻撃術式を放とうとした。だが、見ずとも『エグジスト』の第六感が殺気を捉える。彼女の金髪の一部が、突如として太い触腕へと変化した。先端にはサメのような乱杭歯が並ぶ口腔が形成されている。振り返りもせず、触手は男の腕を根元から食いちぎった。

「ひぎぃッ!?」

 男が泡を吹いて倒れる。

 髪の触手は、食いちぎった腕をバリボリと咀嚼したが、すぐにペッと吐き捨てた。

「不味い。ステロイドと安酒の味しかしねェ」

 ピメリーは自身の右手に形成された口腔へ、先ほど抉り取った五人分の眼球を放り込んだ。プチ、グチュ、という破裂音が響く。

「目玉はどいつも美味ェからいいや」

 ケラケラと笑う。

 だが、周囲を見渡せば、恐怖に逃げ惑う者もいれば、その殺戮劇すら酒の肴にして「ガハハ」と笑い合う狂人たちもいる。自分がこんなに不幸な目に遭っているというのに、どいつもこいつも楽しそうだ。底知れぬ苛立ちがマグマのように湧き上がる。

「……ムカつく。全員、死ね」

 辺り一帯を更地に変えてやろうと、両腕の細胞を活性化させた、その時。

「見つけたぞ、烏賊女」

 氷のような声が、鼓膜を震わせた。

 ピメリーは弾かれたように振り返る。

 音もなく。

 気配もなく。

 殺気すらなく。

 いつの間にか背後に、全身を真紅の服で包んだ大女が立っていた。ゾクリ、とピメリーの背筋を悪寒が走る。

 背後を取られたことへの驚愕ではない。自身の『第六感』が、この女の接近を微塵も感知しなかったという事実に、本能が警鐘を鳴らしたのだ。

 この女、どこかで見覚えがある気がする。だが、怒りと焦燥で満たされた彼女の貧相な脳味噌では、記憶の引き出しを開けることは叶わない。

「あァ? 誰だ、てめェ」

 ピメリーは牙を剥き出しにして、眼前の死神を睨みつけた。


 気づけば、彼女は空を舞っていた。

 重力という物理法則が突如として反転したかのような浮遊感。思考が状況に追いつくよりも早く、彼女の肉体は成層圏に近い高度を回遊していた巨大な生体生命体────突然変異の遺伝子異常により生まれた、全長百メートル級の空中鯨スカイ・ホエールの脇腹へと激突した。

 ドォォォォン、と衝撃音が大気を震わせる。硬い皮膚を凹まし、バウンドするピメリー。そして、あろうことか、その巨大生物は飛来した彼女を餌と認識し、開かれた巨大な顎で彼女を丸呑みにした。

 暗転。だが、その一秒後。

「……あァ?」

 不機嫌な唸り声と共に、鯨の背部が内側から爆散した。

 腕を変形させるまでもない。ただの膂力と不快感に任せて肉の壁を突き破り、ピメリーは粘液まみれで外へと躍り出る。巨大生命体は対して気にすることもなく、悠々自適に空を飛び続けている。爆散した傷も即座に治っている、遺伝子異常により治癒力も爆発的に上がっているからだ。

 彼女はそのまま落下することなく、運悪く通りがかった軍用の輸送ワーム────空飛ぶムカデのようなサイボーグ魔獣の背中へと着地した。

「なンだよ、一体……?」

 風圧で金髪を逆立たせながら、ピメリーは眼下のスタッテン島を見下ろした。

 遥か彼方、豆粒よりも小さな地上。

 だが、彼女の『瞳』にとって、距離という概念は無意味に等しい。


 ここで、『エグジスト』という種が有する視覚情報処理能力について補足する。

 平均的個体アルファ級の『エグジスト』であっても、その動体視力と分解能はダチョウや猛禽類のそれを遥かに凌駕する。近視、乱視、老眼、あるいは色覚異常といった欠陥とは無縁の完全なる眼球。彼らが捉える世界は、人間が見ている景色とは根本的に色彩が異なる。

 人間が赤、緑、青の三種類の錐体細胞で光を認識するのに対し、『エグジスト』はシャコのそれを超え、十五から二十種類もの光受容体を備えている。紫外線、赤外線、偏光、円偏光。あらゆる波長を色彩として認識し、電波の流れすら視覚化する彼らの脳内スクリーンは、極彩色を超えた情報の奔流で満たされている。

 さらに特筆すべきは、その物理構造だ。人間の眼球サイズで物理的に可能な視力はせいぜい十二・〇(二〇/〇・一六)程度が限界とされるが、彼らの眼球内では水晶体が多層的に重なり合い、光を複雑に乱反射・増幅させることで、特に高位の『エグジスト』に至っては、天体望遠鏡並みの倍率を実現している。

 本来であれば、それほどの高倍率視界は日常生活において深刻な視野狭窄と酔いをもたらすはずだが、彼らの脳はそれをオートフォーカスのズーム機能のように処理し、至近距離の文字から数キロ先の昆虫の羽までを、シームレスかつ鮮明に認識する。当然、暗視能力も完備されており、完全なる闇の中であっても、わずかな熱源や素粒子の揺らぎを捉え、真昼のように視認することが可能だ。

 この物理法則を嘲笑うかのような生体構造は、数百年におよぶ『エグジスト』研究の最大の謎の一つであり、未だ解明の糸口すら掴めていない神秘アルカナである。


 その神ごとき魔眼が、地上の一点に佇む深紅の影を捉えた。彼女は全ての生命体の中で、唯一光受容細胞の向きが正常な烏賊。その視力は、下手な『エグジスト』のそれとは一線を画している。

 ルビアズ・ジャスパー。

 ピメリーの視界の中で、ルビアズがこちらを見上げ、微かに笑ったように見えた。

 直後。

 ルビアズの姿が消失する。

 認識の空白。

 次の瞬間、ピメリーの視界は反転し、背中に凄まじい衝撃が走っていた。


 巻き起こる煙。気づけば、今度はその体は地に伏していた。轟音と共に、スタッテン島の港湾地区、強化コンクリートで舗装された埠頭に巨大なクレーターが穿たれる。

 叩きつけられたのはピメリーだ。身体から吐き出された鮮血は赤ではない。烏賊や蛸特有のヘモシアニンを含んだ無色透明な血液が、大気中の酸素と結合し、鮮烈な青色へと変色してアスファルトを染め上げる。

「きゃああああッ!?」

「な、なんだ!? 空から人がッ!」

 周囲の一般市民やチンピラたちが動揺し、悲鳴を上げて逃げ惑う。

 だが、青い染みと化したピメリーは、即座に痙攣し、バキボキという不快な音を立てて再生を開始した。潰れた臓器が膨らみ、折れた骨が繋がり、裂けた皮膚が癒着する。痛がる素振りすらない。同時に、ズタボロになったはずのパーカーやジーンズもまた、あたかも巻き戻し映像のように修復されていく。


 『エグジスト』の強力な自己認識アイデンティティと生体エネルギーは、自身が「所有物」と認識している衣服や装飾品にまで影響を及ぼす。特にそれが顕著に現れる能力カテゴリー種が存在しているが、『変異型ミュー』はこれには該当しない。高価なナノマシン・スーツなど着ていない彼女の服が再生したのは、彼女の肉体が無意識に繊維を再構成した結果に過ぎない。


 土煙を払い、ピメリーは立ち上がった。

「クソがァァァ!! さッきの大女だな!? 出てこい、ぶッ殺してやる!!!」

 知性の欠片も感じられない咆哮が響く。

 その視線の先、粉塵の向こうから、ルビアズが髪をわしゃわしゃとかき混ぜながら歩いてきた。

「やっぱり『変異型ミュー』はめんどくさいな。私やクルクスと同じタイプなら今ので終わってたのに」

 まるで害虫駆除に失敗したかのような口ぶり。その余裕綽々な態度が、ピメリーの記憶の回路を強引に繋げた。

「そうだ、てめェ、思い出したぞ! なンとかッて組織の、『鮮血の貴婦人デイム』とか呼ばれてた、なンとかッてやつだろ!!」

 女は指を突きつけ、喚き散らす。

「なンだ、好都合じゃねェか。たしか、クソたけェ賞金首だッたよな。こいつの首持ッて帰れば、なンとかのなンたらッて所で、なンとかッてのがなンかッて所で高いカネくれるンだッてな。こりゃいいや。マネー……フラワー? ウッド? フライト? だッけ?」

「……は?」

 ルビアズの足が止まった。殺意よりも先に、純粋な呆れが胸を満たす。目の前の女の、絶望的なまでの知能の低さ。語彙力の欠落。

 おそらく彼女が言いたいのは、裏社会の金融洗浄組織『資金洗浄樹マネー・プラント』が発行している闇の懸賞金バウンティのことだろう。

 だが、何よりルビアズを苛立たせたのは、いつの間にか定着してしまった『鮮血の貴婦人デイム』という、本人的には「マジでダサいからやめて欲しい」と思っている異名を、こいつがしっかりと覚えていたことだ。そこだけは忘れていて欲しかった。

「マジかよ、おい。こんな見るからに……中身すらド低脳極まりないやつが『エグジスト』で、これに資産家達がカネを奪われた? おいおいおいおい、なんて哀れなんだ、モリス・ジョーンズと資産家どもは」

 ルビアズは深い嘆息と共に、東洋の宗教儀式────ナマステの要領で胸の前で手を合わせた。哀れな被害者たちへの、心のこもっていない追悼。それを見たピメリーの顔が、怒りでどす黒く紅潮する。

「殺す」

 横一文字に切れた瞳孔が収縮し、真紅の大女をロックオンした。

「『海魔の抱擁シー・フィーバー』ッ!!」

 絶叫。能力名。

 バキバキバキッ! と音を立てて、ピメリーの両腕が質量の保存法則を無視して膨張した。表面には鋭利なカギ爪を備えた吸盤、何かを貪り食うための無数の口腔がびっしりと浮かび上がり、おぞましい触腕となってルビアズに迫る。

 大気を裂く轟音。

 だが。

 ヒュン。

 ルビアズは半歩、体をずらしただけでそれを躱した。ピメリーは止まらない。右腕、左腕、さらには髪の毛までもが触手へと変わり、暴風雨のような連撃を繰り出す。

 ドォン、ズドン。と、攻撃が空を切るたびに、ソニックブームが発生する。

 衝撃波が周囲の駐車車両を吹き飛ばし、ビルの窓ガラスを粉砕し、アスファルトを捲れ上がらせる。上位の『異能者』が見れば、卒倒するほどの破壊力と速度。

 しかし、ルビアズの目には、それはスローモーションのように映っていた。

 遅い。

 あまりにも遅すぎる。

 そして、あまりにも雑だ。ただ有り余る身体能力に任せて振り回しているだけで、武術の理合も、先読みの駆け引きもない。この女は『衝撃相殺術サイレント・フィールド』すら使えず、純粋な力を闇雲に奮っているだけ。

 武道における極意『先の先』。

 相手が動こうとする「起こり」を察知し、攻撃が放たれる前に安全圏へと移動を完了させる神業。最早動きすらしない。ピメリーの触手は、ルビアズの残像を空しく薙ぎ払うのみ。

「ちくしょう、なンで当たらねェ!!」

 ピメリーが苛立ちを隠さず吠える。

 触腕を細胞分裂させ、四本、八本、十六本へと増殖させる。

 それぞれの触手に生えた吸盤を高速回転させて軌道を不規則に変化させたり、口腔から高圧のイカスミ弾を吐き出して視界を奪おうとしたりと、彼女なりに拙い工夫を凝らすが、ルビアズはその全てをあくびが出るほどの余裕で捌き続ける。

「ンだよそれ!? 『透過』的な能力か、あァ?」

 困惑と焦燥。もちろん、ルビアズは透過能力など持っていない。

「はッ、避けてばッかか。随分とビビりだなァ、おいッ」

 ピメリーが挑発する。

 ビビっているわけではない。

 ルビアズは、『デバイズ』による「処刑動画」の録画が正常に行われているかを確認していたのと、何より、あのヌラヌラとした粘液質の触手が気持ち悪くて触りたくなかっただけである。避けながら、どう料理したものかと考えるルビアズ。

「『閃光のデイヴ』とやらが聞いて呆れるぜッ」

 ピメリーの捨て台詞。

 ……デイヴ?

 ついに性別すら変わり、自分のダサい異名すら忘れた目の前の烏賊女に、呆れを超えて明確な殺意が芽生えた。ルビアズは歩みを止めるどころか、ゆっくりと前進を始めた。

 迫りくる巨大な触手。

 右手刀。

 スパァン、と、乾いた音が響き、ピメリーの右触腕が半ばから切断された。

 刃物など使っていない。ただの手刀が、鋼鉄以上の硬度を持つ『エグジスト』の肉をバターのように断ち切ったのだ。

 さらに、返す刀────燕返しの要領で、左からの触手も瞬断する。

 ボトボトと地面に落ち、ビチビチと跳ね回る肉塊。

 ピメリーは即座に再生を試みるが、再生する端からルビアズが歩きながら切り刻んでいく。

「ぐッ!?」

 ピメリーの喉から苦悶の声が漏れた。

 『エグジスト』としての生存本能が、痛覚と言う警報を鳴らす。この女に近づくな、と。痛みという、忘れかけていた感覚が脳髄を灼いた。

「………ッッ!」

 ピメリーは決断した。

 肥大化した両腕を根元から自ら切り離し、自律機動兵器として暴れさせる。同時に、大量のイカスミ煙幕を噴射。目の前の相手の視界が黒に染まり、肉厚な触手群が圧殺せんと迫る。

 だが。

 パンッ。

 ルビアズが軽く、ドアをノックする要領で空間を弾いた。ただそれだけで、凄まじい衝撃波が発生し、煙幕も触手もゴミのように弾き飛ばされた。呆れて相殺術を使う気にもなれない。

 視界が晴れる。

 そこにピメリーの姿はない。

 上だ。

 ルビアズが見上げれば、港に隣接する廃ビルの二十階付近、その外壁にピメリーが張り付いていた。彼女の卓越した視力が、女の姿を事細かに捉える。失った腕は既に再生し、手足の吸盤で垂直の壁にしがみついている。煙幕の隙に跳躍し、一時離脱を図ったのだろう。その表情は屈辱と怒りに歪んでいる。

 周囲を見渡せば、いつの間にか騒ぎを聞きつけた野次馬たちが集結していた。

「おい見ろよ、『エグジスト』の喧嘩だ!」

「赤いの、ルビアズじゃねぇか?」

「ヒャッハー! イベント開始だぜ!」

 彼らは『デバイズ』を掲げ、嬉々として配信を始めている。

 ルビアズの脳内に、みほよからの通信が入った。

『ルビさん、これネット配信されてますよ。全米の裏賭博サイトで、緊急ベットが始まりました』

 視界の端に表示されたみほよのワイプ映像。彼女はやけに楽しげだ。

『やっぱりルビさんにオッズが傾いてます! 圧倒的一番人気ですよ!』

 続いて、別の通信ウインドウが開く。

 背景には、泥色に濁った大河と、ジャングル。クルクスだ。過去、大規模な地殻変動があったとはいえ、アマゾン川は、ニューヨークから三千七百マイル以上離れているのに変わりはない。なのに彼女が既にいるのは、『ポータル』で移動したからだ。

 水面から飛び出す三メートル級の殺人魚メガ・ピラニアと数百メートル級の巨大蛇メガ・パイソンの大群を、軽くあしらっている様子。クルクスの暢気な声が響いた。

『私はこの烏賊女に賭けたわ。一万ドル。大穴ダークホース狙いだ、頑張れー烏賊女ー! 生意気なお前をけちょんけちょんにしてやれー!』

 半ばバカにしたような、からかうような声援。さらにポンウィパや、他の『ルキフェル』構成員たちからも通知が届く。

『あー、ルビアズさんに賭けましたよ。こっちはすんごいヘドロですわ、ナノ服のクリーニング代、経費で落としときますね』

『ボスに賭けました! 今月の給料倍にしてください!』

『俺は逆張りで烏賊に千ドル!』

 そして最後に、みほよが恥ずかしそうに付け加えた。

『あ、私も賭けときました。もちろんルビさんで。勝ったら新しいウォーターサーバー買います。水は『ポータル』直送、オルデンウォーターで』

 組織の、あまりの適当さと緊張感のなさ。思わず鼻で笑った。

「ったく、バカどもが」

 だが、不快ではない。むしろ、この混沌に満ちた世界を楽しみ、逞しく生きる彼らの在り方は、彼女にとって心地よいものだった。それに、なんだかんだ彼らもやることはしっかりとやっている。

 ルビアズは再び、ビル壁面のピメリーを見据える。烏賊女は、安全圏からこちらを睨みつけ、再生した腕を振り上げて何か喚いている。

 クルクスが大穴を当てて喜ぶ顔を見るのは癪だ。それに、モリス・ジョーンズとの契約には「惨たらしく死ぬ映像」というオプションがついている。

 赤い死神は、サディスティックな笑みを浮かべた。あのクソ生意気な烏賊女を、完膚なきまでにギタギタにし、絶望の淵に叩き落としてやろう、と。

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