大儲けのチャンス!
『ルキフェル』事務所内。
その場所は、魔都ニューヨークのいずこかに存在するが、正確な座標を知る者は構成員の中でも限られている。空間湾曲によって位相がずらされたこの一室は、物理的な干渉を拒絶する絶対的な聖域であった。
豪奢な革張りの椅子に深々と身を沈め、ルビアズ・ジャスパーは紫煙を燻らせていた。
左手の中指と薬指でタバコを挟むその独特な手つきは、旧世紀フランスの作家、ミシェル・ウエルベックのそれを彷彿とさせる。
銘柄は『アークロイヤル・ワイルドカード』。
コーヒーの甘い香りが着香されたその煙を、彼女は肺に吸い込むことなく、口腔内で転がしてからゆっくりと吐き出す。ニコチン摂取という生理的欲求の充足ではなく、あくまで香りを楽しむ嗜好品としての遊戯。
不老不死に近い『エグジスト』の肉体にとって、癌という細胞のエラーなど無縁の概念であり、彼女は心置きなくその背徳的な煙を味わっていた。
乱雑に資料が寄せられたデスクの上には、彼女自身がハンドドリップで淹れたブルーマウンテンのブラックコーヒーと、吸い殻が山を築く缶の灰皿が鎮座している。
昨日、FBPCの依頼で対処したテロ組織壊滅の一件────ニュースでは『クイーンズ・セクター4における大規模ガス爆発事故』として処理されていた────により、報酬不払いで大赤字を被ったばかりだというのに、今日の彼女はやけに上機嫌であった。
「くくく……いい気味だ」
ルビアズは喉の奥で嗤い、首元に輝く純イリジウム製の十字架のネックレスを指先で弄ぶ。
その視線の先、空中に展開されたホログラム・モニターには、実に愉快なニュース映像が流れていた。
『Yo! 調子はどうだい
画面の中で、極彩色のコスプレ衣装に身を包んだ集団が、燃え盛る政府庁舎を背景に、まるでフェスのように狂喜乱舞している。
中央でマイクを握りしめているのは、ピエロのマスクを被った男だ。
それの映像を報道するアナウンサーもまた、堅苦しいスーツ姿の白人ではなく、ドレッドヘアを揺らし、ラッパーさながらのマイクパフォーマンスで実況する黒人男性であった。
『見ろよこの美しい炎! 『
カメラがパンすると、崩れ落ちた壁の中から、隠蔽されていた大量の金塊やデータサーバーが露出し、それを群衆が我先にと持ち去っていく様子が映し出される。
『
国家安全保障局が最重要危険団体として指定する、反政府組織である。
彼らは、高度なハッキング技術を有するクラッカー、破壊工作専門の『異能者』、さらには数名の『エグジスト』によって構成された、現代の義賊集団だ。そのため、政府も彼らの圧倒的武力の前に屈することしか出来ず、手を焼いている状況。
その活動内容は徹底している。政府が隠匿した不都合な事実────スラム街における「清掃」と称した貧困層の虐殺データや、人体実験の記録────を超法規的、あるいは武力行使と言った手段で強奪し、全世界へ公表する。これまで、善良な市民……彼らがそう言えるかどうかは微妙なところではあるが、政府関係者以外に危害を加えたことはないし、死人も出したことはない。
彼らは、政治家や官僚が脱税によって溜め込んだ裏金、不正蓄財された『
官僚機構や特権階級からは蛇蝎のごとく嫌悪されているが、市井の荒くれ者や貧困層からは、ある種の英雄達として絶大なる支持を獲得していた。
特筆すべきは、彼らの行動原理が「善意」ではなく「悪意」に基づいている点だ。
かつて、ルビアズが彼らのメンバーと接触した際、ピエロの面を被った男はこう語った。
『俺たちは慈善事業家じゃねぇ。ただ、政府の豚どもが悲鳴を上げるのが面白くてたまらねぇのさ。金をばら撒くのは、その方が混乱が広がって楽しいからだよ。あの腐れ野郎どもを殺さねぇのも、奴らの阿鼻叫喚の顔が見れなくなるからさ。気が向いたら、あんたもどうだい?』
その徹底した享楽主義に、ルビアズは共感を覚えたものだ。ゆえに彼女は、彼らの引き起こす騒動を、極上のエンターテインメントとして心待ちにしていた。政府から彼らへの対処依頼は絶えないが、全て無視。文句を垂れられても、適当にじゃあ、もう依頼は今後受け付けない等と言って黙らせた。
「ルビアズ、またそれ吸ってんの」
不意に、背後から呆れたような声がかかる。
振り返れば、そこには薄紅色のショートヘアに、葉脈を模した髪飾りをつけた長身の女性が立っていた。
名を、クルクス・ノイベルグ《Crux Neuberg》。
ゆったりとしたスウェットの上下というラフな出で立ちだが、その衣服の上からでも豊満なその胸の曲線は隠しきれていない。
彼女もまた、『ルキフェル』の創設メンバーであり、ルビアズとは古くからの友人でもあり、数世紀に及ぶ付き合いがある『エグジスト』の一柱である。
ルビアズは紫煙を吐き出しながら答える。
「一番好きな銘柄だからな。これが無くなると知った時は絶望したもんだ」
「ん百年前の話してんのさ」
クルクスは肩をすくめ、隣のソファにどさりと腰を下ろした。
彼女の右斜めに歪んだ楕円形の瞳孔が、黄金色に輝く。人ならざる者の証だ。
「いいだろ、好きなんだから」
「私的には『セッター』の『リアルリッチ』がまた吸いたいんだけど。あの赤いやつ。日本産のやつ。それは復刻できないの?」
「あー、今度作るよう頼んでみるわ。日本か、ならポータルで輸入だな」
「頼むよ」
二千年代初頭の
電子信号で脳の報酬系を直接刺激するデジタルドラッグが蔓延する現代においてなお、物質的な煙やアルコール、またはドラッグなどの薬物がもたらす酩酊感は、何物にも代えがたい「人間らしさ」の象徴なのだ。
ルビアズが愛喫する『アークロイヤル・ワイルドカード』も、かつて二千二十五年頃に廃盤の危機に瀕した。当時、既に悠久の時を生きていた彼女は、最後の一本を吸い終えた際、世界の終わりごとき絶望を味わったという。その後、『ルキフェル』の活動資金で得た金。タバコ産業に匿名で天文学的な寄付を行い、『アークロイヤル』シリーズの製造ラインごと復活させたのは有名な話だ。この組織を立ち上げて良かったと思える、数少ない出来事のひとつである。
「で、何見てんのさ。やけに上機嫌だけど」
「また例のバカどもさ。今度は内務省の地下金庫を爆破したらしい」
顎でモニターをしゃくる。画面内では、宙を舞う札束の吹雪の中で、市民たちが狂乱の宴を繰り広げている。
「へー、楽しそうだねこの人たち」
「今頃、国の奴らは大慌てだろうな。隠していた汚職の証拠もろとも、裏金が風に舞っているんだ。奴らの焦る赤ら顔が目に浮かぶ。傑作だろ?」
「そういえば、マンハッタン第7区画の商店街も、この人らの寄付で復興したんだっけ」
「ああ、ブロンクスの貧困地域にできた学校もな。だのに、都合の良い時は政府はそれらを利用して、『復興支援の実績』などとほざく。忌々しい。本来、反社会的勢力であるこいつらの方がマシだなんて、本当に腐った国だ」
心底からの侮蔑を込め、ルビアズは根元まで吸いきったタバコを空き缶の中で押し潰した。
「いいなぁ、私も『
「クソッタレの国がうちを排除しようとしてきたら、私らも似たようなことを始めようか?」
「いいかも。組織名は『政治家の脱税許さん戦線』とかにしてみようか? 略称は『PTEA』なんてどうよ」
「脱税なんて、私らはしまくってるがな。特に汚い金に関してはな。公共の為ならともかく、政治家共にやる税金はない」
ククク、と悪戯っぽく笑い合う二人の『エグジスト』。
クルクスはポケットから一粒のビー玉を取り出し、空中に放り投げた。
ポン、という小気味良い音と共に白煙が上がり、その手には『セブンスター・ボールドブラック』のパッケージが握られていた。日本産のタバコだ。この時代においても、未だかの国で根強い人気を誇るセブンスターシリーズ。黒のクラシックなデザインの箱。
そして、『
「私もいい?」
「いいぞ。ほら、ジッポ」
使い込まれた真鍮のライターを放る。
二人が新たに紫煙を燻らせ始めたその時、事務所の静寂を切り裂く声が響いた。
「あのー、ヤニ臭いです」
デスクの奥から、みほよが咎めるような視線を向けてくる。
昨日の戦闘による事後処理と報告書の作成に追われている彼女は、目の下に微かな隈を作りながらも、高速でキーボードを叩き続けていた。
「あぁ、悪い悪い。ごめんねみほよちゃん」
クルクスが、机の上にある
「それに、何物騒なこと言ってるんですか。反社会的勢力でしょ、彼ら」
もう一人、呆れた声が加わる。
部屋の隅、魔導書の山に埋もれるようにしていた少女が顔を上げた。
ポンウィパ・ヴィータ《Ponwipa Vita》。
透き通るような黄緑色の長髪に、知性を宿した青い瞳。現役の大学生でありながら、『ルキフェル』に所属する『
「ふ。ポンウィパ、そんなお前が卒業できた高校も、『
ルビアズが意地悪く指摘すると、ポンウィパは「うっ」と一瞬言葉に詰まった。彼女もまた、貧困層生まれであった。
「てか仕事しろ。昨日のレッド…何とかのビル周辺だけじゃないぞ。ブルックリンの地下水路で発生したスライム状の瘴気溜まり、あれの浄化案件が溜まってるんだ。魔術的汚染の処理はお前の専門だろ、さっさと行ってこい」
「はーい……行ってきまーす」
ポンウィパは不満げに頬を膨らませながら立ち上がり、壁に向かって歩き出した。
彼女の青い瞳が眼前で椅子にふんぞり返り、呑気にタバコを吸いながらニュース映像を眺めてる真紅の大女を射抜いた。
「……ルビアズさんが一番何もしてないくせに」
ぼそっ、と不満を漏らしたあと、
「えー、いいじゃん。誰も死んでないんだし、困ってるのは政府の人達だけじゃん。平和だよ」
みほよが画面を見ながら呟く。ポンウィパは彼女に返す。
「お前はなんで日本出身の割に、そんなにこっちに適応してるんだよっ」
「生きる知恵だよ」
「私に学がないって言いたいのか!このナードがっ」
「ちょっ、ポンちゃん、仕事の邪魔しないで!」
軽口を叩き合い、わちゃわちゃする二人の様子に、ルビアズも目を細める。
「早く行け」
「は、はいっ」
彼女の体が壁に触れる。瞬間。波紋のように空間が揺らぎ、その姿を飲み込んでいく。
「あ、なんか出てるよ」
クルクスが指差した先、別のニュース映像タブホログラムが新たに表示されていた。
『速報です。ダウンタウンの
凄惨な現場の映像と共に、逃走した犯人の特徴が報じられる。
だが、日常的に怪物が暴れまわるこの街では、それは天気の移ろい程度の関心事だった。別のホログラム映像では、中国の様子。五百メートルを超えるフューシャカラーをしたアメーバ状の生物が、街を蹂躙する様子が報じられている。これもいつもの日常だ。
「にしても、壮大な力があってやることが銀行強盗かよ。力の無駄遣いだな」
真紅の女は興味なさげに吐き捨てた。
「ルビアズのは完全戦闘用にしか役に立たない能力じゃん。それに比べて私なんて便利だよ? 植物の管理が楽だし」
「お前の使い方はしょうもなさすぎだ、クルクス。その能力交換しろ、私がもっと上手く使ってやる」
「む」
クルクスがさっ、とルビアズのティーカップを奪い、残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「なにをするっ」
「罰としていただきましたー」
悪びれもせず笑う旧友に、彼女は呆れながらも新しいコーヒーを淹れるべく立ち上がった。政府へのざまぁみろという高揚感が勝り、怒る気にもなれない。
「あ、ルビさん。
みほよの声。
「その銀行強盗の件ですが」
ルビアズの手がピタリと止まる。
「さてと、コーヒーだコーヒー」
「あ、逃げた」
聞こえないふりをするルビアズ。どうせ、政府の役人が「メンツが潰れたから始末しろ」と泣きついてきたに決まっている。金払いの悪い公務員の相手など御免だ。
「依頼主はモリス・ジョーンズ。個人の資産家です」
「……何ィ?」
ルビアズが振り返る。
個人、それも資産家。
モリス・ジョーンズ。その名は聞き覚えがある。ブルックリンでも指折りの不動産王であり、裏社会とも繋がりのある富豪だ。政府の役人よりも遥かに金払いが良く、何より権力者とのコネクションは、組織運営のみならず、彼女の「惰眠を貪るための資産」を増やす上で有用である。
「しかも、電子媒体のメッセージではなく、電話で直接やり取りしたいようです」
みほよが、業務用の特殊スマートフォンを差し出した。高度な暗号化術式と多重VPNが施されたその端末は、こちらに発信こそできるが、こちらへの特定を完全に遮断する。
「はぁ。資産家ってやつはめんどうだな。……だが、話くらいは聞いてやるか」
「時代遅れなだけなんじゃねぇーの?」
クルクスの野次を無視し、ルビアズは端末を空中に放った。
自律浮遊する端末が、彼女の耳元で停止する。
「はい、こちら『ルキフェル』。ルビアズ・ジャスパーだ」
『あぁ、よかった! いやぁ、どの組織のヤツらも使えなくてね。あのクソッタレの『エグジスト』野郎に返り討ちにされおって。あ、いや、すまない。種族差別じゃなくて、ヤツ個人への侮蔑だ。私はモリス・ジョーンズ。ご存知かもしれないが、ブルックリンじゃ名の知れた資産家だ』
スピーカーから聞こえるのは、意外にも陽気で快活な男の声だった。
背後からは、「パパ、まだー?」という幼い子供の声が漏れ聞こえる。「ごめんよ、今お仕事の大事な話をしてるからね、あとで遊ぼう」と優しく諭す声。
少なくとも、今の差別的発言の撤回といい、高圧的なだけの成金ではないらしい。
ルビアズは新たな一杯を注ぎながら促した。
「それで、依頼内容は? 捕獲か、始末か?」
『すまない、脱線したね。内容は至極単純、その『エグジスト』の抹殺だ』
男の声から温度が消える。
『件の強盗で奪われた額は五千七百万ドル。いや、そんなのははした金だ。問題は、私の金が、あんな見窄らしい薄汚い女ごときに好き勝手使われるのが我慢ならないだけだ。どうせ経済を回すこともしないだろう』
五千七百万ドルをはした金と言い切る傲慢さ。嫌いではない。
抹殺という条件も好都合だ。手加減の必要がない仕事ほど楽なものはない。
「報酬は?」
『もちろん弾むとも。私の総資産の……そうだな、五パーセントと、ブライトンビーチにある別荘の権利書を付けよう。もちろん、足がつかないようダミー会社経由で譲渡権だけを移す。後は君たちで、空間転移させるなり隠れ家にするなり、自由にやってくれ。悪くはない話だろう?』
ルビアズはカップを持つ手を止めた。
総資産の五パーセント。具体的な額は想像もつかないが、五千七百万ドルを端金と言い切るこの男。昨日の赤字など誤差の範囲に消し飛ぶほどの巨額だ。それに、海沿いの別荘。仕事に疲れた体を癒やすには最適のロケーションではないか。
「わかった。受けよう。支払いは『
『
表の金融ネットワークから切り離された、匿名IPによる裏口座の総称だ。税務署の監視も届かず、あらゆる犯罪収益が還流する闇の経済圏。一般人にはアクセスすら困難な代物だが、この男なら問題ないだろう。試すように、彼に訊いた。
『ああ、承知している。……条件と言ってはなんだが、奴が好きに生きているのは一秒たりとも気に食わない。奴が死んだ証拠と、期間は三日以内。出来れば、『デバイズ』で奴が惨たらしく死ぬ様子まで見たい。その映像データを送ってくれたら、更に追加報酬をやろう。今から奴が映った監視カメラのデータを送る。健闘を祈る』
「成立だ。任せろ、今日中にそのクズを始末してやる」
通話を切る。
物騒な会話だが、この程度の殺意は日常茶飯事だ。
ルビアズはニヤリと口角を吊り上げた。
「よし、やるぞ! 大儲けのチャンスだ! みほよ、今からその『エグジスト』の情報が送られてくる。直ぐに解析しろっ」
「承知しました! 確認し次第、すぐ特定しますね!」
珍しくやる気に満ちたボスの姿に、みほよの声も弾む。
「クルクス、お前も行くぞっ。分け前は弾む」
「いや、悪い。こっちも別件が入ってるんだ」
クルクスは『デバイズ』を見ながら首を振った。
「アマゾン川で三メートル級のメガ・ピラニアの群れと、伝説級の
「チッ、なら仕方ないな。私がその『エグジスト』は単独で対処しよう」
いそいそと淹れた熱いコーヒーを一息に飲み干す。
「あ、データ来ました。……解析開始、座標特定まで三十秒」
みほよが空中のキーボードを叩き、無数のウィンドウが展開される。
獲物の居場所が暴かれる音を聞きながら、ルビアズは獰猛な笑みを浮かべて事務所の出口へと向かった。
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