第10話 蠢く大地

「グランド・タンク」による遠征開始から、20日が過ぎた。


 俺たちの旅は、過酷を極めていた。


 その裏側までの道のり、6万キロメートル。


 それは、想像を絶する大長征だった。


 酸の雨が滝のように降り注ぐ荒地を駆けて。


 かつての大海が干上がってできた、見渡す限りの塩と錆の砂漠を横断し。


 地殻変動で隆起した、雲を突き抜けるような剣山の山脈を越えてきた。


 だが、俺が作り上げた移動要塞は、その全ての障害をものともしなかった。


 全長50メートル。


 通常なら自重で大地に沈んでしまうほどの超重量だが、底面に設置した高出力ホバーユニットが重力をねじ伏せ、地表から数メートル浮遊して滑走する。


 厚さ数メートルにも及ぶ複合装甲は、物理的な衝撃だけでなく、熱、放射線、酸、あらゆる外部干渉を遮断する。


 そして、その巨体を覆うステルスフィールドは完璧に機能し、帝国の目をごまかし続けていた。


 居住区画には、工場から移植したライフラインが完備されている。


 空調は常に清潔な空気を循環させ、シャワーからは温かいお湯が出る。


 外の世界がどれほど地獄であろうとも、この鉄の箱の中だけは、人間が人間らしく生きられる聖域だった。


「現在位置、出発点より4万キロ地点。予定航路の3分の2を消化しました」


 車長席の前にあるオペレーター席で、シズが淡々と報告する。


 彼女の指先は、ホログラムキーボードの上を流れるように動き、膨大な航行データを処理している。


 俺はシートに深く沈み込み、泥のように眠った後のコーヒーを啜った。


「あと2万キロか。……順調すぎて怖いくらいだな」


 マグカップから立ち上る湯気の向こう、防弾ガラスの外は、乳白色の有毒ガス霧に覆われている。


 視界はゼロに近い。


 頼りになるのは、シズの解析能力と、車体各所に設置された各種センサーの情報だけだ。


 単調なホバーの駆動音が、子守唄のように響いている。


 だが、俺の神経は決して休まることはなかった。


 エンジニアとしての直感が、この平穏の裏にある不気味な静けさを感じ取っていたからだ。


「ベンケイ、機関の調子はどうだ?」


 操縦席に座る鋼鉄の巨人に声をかける。


 彼の体躯に合わせて特注した操縦桿は、大木のような太さがあるが、ベンケイはそれを繊細に操作している。


『動力炉、オールグリーン。ホバー出力、安定。冷却システムも正常です。マスターの設計は完璧です。このまま惑星をもう一周しても問題ありません』


 頼もしい声が返ってくる。


「そうか。だが、油断はするなよ。この霧、嫌な感じがする」


『肯定。大気中の成分分析によれば、微細な金属粒子が含まれています。センサー感度に若干のノイズが生じています』


 後部の居住区からは、ルルがギリアムに古い書物を読んでもらっている声が、通信機越しに聞こえてくる。


「……むかしむかし、あるところに、うつくしいもりのわくせがありました……」


「そうですな。そこには、たくさんの動物たちが仲良く暮らしていたのです」


 平和な会話。


 この日常を守るために、俺たちは進んでいる。


 だが。


 俺は知っている。


 この星において、平穏とは「次の嵐までの小休止」でしかないことを。


 ピピッ。


 不意に、コンソールのソナー画面に、小さな波紋が表示された。


 俺の心臓が跳ねる。


「……シズ、なんだこれは」


 俺が指差した先。


 進行方向の霧の向こうに、広大な「影」が映し出されていた。


 地形データにはない、巨大な平原?


 いや、違う。


 その「平原」は、微弱だが、脈打つように動いていた。


 地形にしては有機的すぎる。


 だが、生物にしてはあまりにも巨大すぎる。


「解析中……。生体反応、多数。いえ、多数というレベルではありません。……測定不能(オーバーフロー)です」


 シズの声から、いつもの冷静さが消えた。


 彼女のドロイドとしての電子頭脳が、処理しきれない情報量に悲鳴を上げているようだ。


「測定不能だって?このグランド・タンクのセンサーがか?故障じゃないのか?」


「いいえ、正常です。個体識別が追いつきません。センサーの処理限界を超えています」


 俺はコーヒーカップをサイドテーブルに置いた。


 カツン、という乾いた音が、凍りついた車内に響く。


「概算でいい。数を言え」


 俺の声は、自分でも驚くほど低かった。


 シズが息を呑む気配がした。


 数秒の沈黙の後、彼女は信じられない数字を口にした。


「……推定、1億匹以上」


「……は?」


 俺は耳を疑った。


 聞き間違いか?


 1万や10万ではない。


 1億?


「桁の間違いじゃないのか?1億なんて、巨大コロニーの人口レベルだぞ。それが全部、汚染変異体ミュータントだって言うのか?」


「間違いありません。この先に広がる盆地だけでなく、地平線の彼方まで続くエリア一帯が、すべて『汚染変異体ミュータント』で埋め尽くされています。地表だけでなく、地下数層にわたって密集し、巨大な多層構造のコロニーを形成しています」


 1億。


 その事実に、俺の背筋が凍りついた。


 俺たちがこれから手に入れようとしている艦隊の数、1000万隻。


 それすらも凌駕する数だ。


 しかも、相手は鋼鉄の船ではない。


 酸と放射能にまみれ、生きるために共食いを繰り返してきた、飢えた化け物の群れだ。


 それが1億匹。


 想像を絶する質量。


「モニターに出せ。霧をフィルターで除去しろ。肉眼で確認する」


 俺の命令で、メインスクリーンが切り替わる。


 画像処理プロセッサが唸りを上げ、乳白色の霧がデジタル補正によって晴れていく。


 そして、俺たちは見てしまった。


「…………なっ」


 言葉を失った。


 そこにあったのは、大地ではなかった。


 蠢く肉の海だった。


 地平線まで続く広大な盆地を、隙間なく汚染変異体ミュータントが埋め尽くしている。


 以前戦った四足獣タイプなど、ここではプランクトンにすぎない。


 小型のビルほどもある巨体を持つ甲殻型が、岩山のように鎮座している。


 複数の個体が融合し、山のようにそびえ立つ超大型種が、触手を空へと伸ばしている。


 空を埋め尽くす翼竜型の群れが、黒い雲のように旋回している。


 それらが、折り重なり、うごめき、巨大な一つの「生き物」のように脈打っている。


 地面が見えない。


 文字通り、変異体の死骸と生体で舗装された大地だった。


 不協和音が聞こえる。


 キシャアアアア……。


 ゴゴゴゴゴ……。


 1億匹の咆哮と、甲殻が擦れ合う音が混じり合い、地鳴りのような重低音となって大気を震わせている。


「なんてことだ……。ここは、奴らの『首都』か」


 その規模は、もはや災害というレベルを超えている。


 この星の食物連鎖の頂点が、ここに集結していたのだ。


 帝国の廃棄物によって歪められた生態系の、成れの果て。


「ヒィッ……!?」


 居住区から、ギリアムの短い悲鳴が聞こえた。「うぅ……っ、ひぐっ……」


 ルルが恐怖に耐えきれず、小さな身体を震わせて泣き出した。


 無理もない。


 視界の全てを覆い尽くすその威容。


 こんな絶望的な光景を見せられて、正気を保てという方が酷だろう。


「……シズ。迂回ルートは?」


 俺は努めて冷静な声を絞り出した。


 だが、操縦桿を握る手は汗ばみ、背中を嫌な冷や汗が伝うのを止められない。


「計算中……。……無駄です。推奨できません」


 シズの無機質な声が、無情な事実を告げる。


「モニターをご覧ください。目前のコロニーは増殖を繰り返し、今や大陸クラスの規模にまで膨張しています。そして、さらに悪いことに地形が致命的です」


 ホログラムマップが展開される。


 そこには、俺たちの行く手を完全に遮断する絶望的な地形が表示されていた。


「現在地の左右に広がっているのは、地殻変動によって生じた巨大な『大地溝帯グランド・キャズム』です。断崖の幅は数十キロメートル、深さは計測不能。このホバーの推力と飛翔高度では、この裂け目を飛び越えることは不可能です」


 つまり、右も左も断崖絶壁、正面は鉄の山。


 俺たちは袋小路に追い込まれていた。


「……迂回しようとすれば、どうなる?」


「この巨大な裂け目が星を分断している以上、一度来た道を戻り、この星を逆回りして裏側からアプローチする他ありません」


 星を、一周するだと?


「時間が掛かりすぎる訳だな」


「はい。万能物質マターがあれば、食料やエネルギー上の問題はありませんが、時間をかければかけるほど、帝国に捕捉されるリスクは指数関数的に跳ね上がります」


「つまり、通るしかないと」


 それに、俺のエンジニアとしての勘が告げていた。


 そして、不運なことに、俺たちが目指す「オメガドック」への最短ルートは、この地獄のど真ん中を定規で引いたように突っ切っている。


「ステルスで突破は可能か?」


 一縷の望みをかけて問う。


「否定します。密度が高すぎます。物理的に接触せずに進むことは不可能です。一匹踏めば、その振動が伝わり、連鎖的に1億の群れが反応します。蟻の巣をつつくようなものです」


 詰み、か。


 進むも地獄、引くも地獄。


 俺は腕を組み、モニターの向こうで蠢く海を見つめた。


 恐怖はある。


 足が震えそうになるのを、必死で抑え込む。


 だが、それ以上に、腹の底から湧き上がってくる感情があった。


 怒りだ。


 帝国に捨てられ、こんなゴミ溜めで這いつくばり、泥水をすすって生きてきた。


 ルルの声を奪い、ギリアムの誇りを奪い、俺の尊厳を踏みにじった世界。


 ようやく手に入れた希望への道。


 それを、こんな知性の欠片もない化け物どもに塞がれてたまるか。


「……やるぞ」


 俺は低く呟いた。


「マスター?」


 シズが不安げに俺を見る。


「正面突破だ」


 俺は立ち上がり、ハッチの前へ進み出た。


「相手が1億だろうが関係ねえ。俺たちの作った『グランド・タンク』は、たかが肉の壁に止まるようなヤワな作りじゃねえぞ!」


 俺はマイクを掴み、艦内放送を入れた。


「総員戦闘配置!これより、本車は戦闘機動へ移行する!主砲、起動!」


 俺の号令が、車内に響き渡る。


「ベンケイ、動力炉リミッター解除!全エネルギーをシールドと砲塔旋回モーターへ回せ!足元の虫ケラどもを焼き払うくらいの出力を見せてみろ!」


『了解。炉心温度上昇。エネルギー充填率、120%!オーバードライブ・モードへ移行します!』


 ベンケイの咆哮と共に、グランド・タンクのエンジン音が変化する。


 静かなハミングから、猛獣の唸り声へ。


「シズ、火器管制システム起動!目標、前方コロニー中央密集地帯。――50cm連装砲、照準合わせ!」


 ズゥゥゥゥン……!


 グランド・タンクの巨体が微かに沈み込む。


 車体上部に鎮座する、車体とほぼ同サイズの巨大な砲塔が旋回を始めた。


 万能物質マターで再現・強化した戦艦の副砲。


 50cm連装高出力ビーム砲。


 本来は宇宙空間で敵戦艦のオリハルコン装甲を貫くための巨砲だ。


 地上の生物相手に使うなど、オーバーキルにも程がある。


 だが、相手は1億の軍勢だ。


 これくらいのハンマーでなければ、道は開けない。


「イエス・マスター。照準、固定完了。いつでも撃てます」


 霧の向こうで、コロニーの端にいた数千匹の汚染変異体ミュータントが、こちらの異変に気付いたように頭をもたげた。


 無数の複眼が、赤く光る。


 遅い。


「1億の絶望がなんだ。俺たちは、10万光年の絶望を超えてきたんだよ!」


 俺は拳を振り上げた。


「邪魔する奴は、原子レベルで消え失せろ!主砲、てぇぇぇぇぇッ!!!」


 カッッッ!!!


 世界が一瞬、白一色に染まる。


 鼓膜を破るようなエネルギーの奔流音と共に、二門の巨砲から極太の光条が奔った。


 光速で解き放たれた数億度の熱線は、進路上の大気を瞬時にプラズマ化させながら、コロニーの中心部へと突き刺さる。


 到達。


 音すら置き去りにする破壊。


 直後、大地が灼熱の光に包まれた。


 ジュゴォォォォォォォォォォッ!!!


 着弾点から、太陽のフレアのような巨大な光のドームが膨れ上がった。


 戦略爆撃レベルの超高熱エネルギーが、密集していた汚染変異体ミュータントの群れを分子レベルで分解し、消し飛ばす。


 中心部にいた数千、数万の個体は、痛みを感じる暇もなく瞬時に蒸発し、炭化する間もなく消滅した。


 発生した超高熱の熱波が同心円状に広がり、周囲の数万体を瞬時に焼き尽くしていく。


 圧倒的な熱量。


 地表が溶解し、地形が変わるほどの破壊。


 これが、戦艦級ビーム主砲の威力だ。


 だが。


「ギシャァァァァァァァァッ!!!」


 立ち昇る灼熱の蒸気とプラズマの嵐の向こうから聞こえてきたのは、悲鳴ではなかった。


 地鳴りのような、怒りの咆哮だった。


 生き残った化け物が、同時に俺たちを認識したのだ。


 主砲の一撃で溶解し、抉り取られた巨大な穴は、瞬く間に後続の群れによって埋め尽くされていく。


 まるで、溶岩の海に石を投げ込んだ時のように、肉の海が波打ち、元に戻ろうとする。


「数がおかしいだろ……!」


 俺は舌打ちをした。


 蠢いていた海が、殺意の奔流となって押し寄せてくる。


 地平線の彼方から、壁のような津波となって迫りくる変異体の群れ。


「シールド出力、最大!来るぞッ!」


 ドォォォォォォン!!!


 最初の波が、グランド・タンクの前面装甲に激撃した。


 ホバーで浮いている巨体が、衝撃で大きく揺れる。


「警告!第一防衛ライン、接触!シールド負荷率、急上昇!」


 シズが叫ぶ。


 視界を埋め尽くす、牙と爪の嵐。


 踏み潰しても、焼き払っても、次から次へと湧いてくる無限の肉壁。


 グランド・タンクの周囲には、副砲のガトリングガンやレーザー砲塔が無数に設置されている。


 それらが自動迎撃を行い、毎秒数百発の弾丸と光線をばら撒いている。


 近づく汚染変異体ミュータントは次々と肉塊に変わっていくが、死体を乗り越えて、さらに次の個体が飛びかかってくる。


「くそっ、キリがねえ!」


 これは戦闘じゃない。


 災害だ。


 俺たちは、1億匹の肉の津波に飲み込まれようとしていた。


 モニターの隅々まで、敵、敵、敵。


 赤い警告灯が、車内を毒々しく照らし出す。


 このままでは、いずれシールドが破られ、装甲が食い破られる。


 圧倒的な数の暴力の前に、俺たちの誇る最強の要塞が、小舟のように翻弄されていた。

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