第5話 天使の歌声
俺たちの小さな国の朝食は、少しばかり賑やかで、そして少しだけ切ないものだった。
「…………」
ダイニングテーブルの端で、ルルが小さな手を必死に動かしている。
彼女は空になったパンの皿を指差し、次に俺を見て、申し訳無さそうに首を振った。
『もっと食べたいけど、我慢します』という意味だろうか。
それとも『美味しかった』という感謝だろうか。
言葉がないため、正確なニュアンスが伝わらない。
「遠慮するな、ルル。パンなら山ほどある。材料は外に無限に降ってくるからな」
俺がバスケットを差し出すと、ルルはパァッと顔を輝かせ、ぺこりと頭を下げてパンを手に取った。
その仕草は愛らしいが、同時に俺の胸を締め付けた。
「……不便だな」
俺はコーヒーを飲み込み、呟いた。
隣でスープを啜っていたギリアムが、沈痛な面持ちで頷く。
「慣れてしまえば、ジェスチャーである程度の意思疎通はできます。ですが……やはり、感情の機微までは」
「それに、緊急時の伝達が遅れるのは致命的だ」
ここは戦場だ。
いつまた
その時、ルルが助けを呼べなければ、それが彼女の死に直結する。
俺はルルの喉元を見た。
細い首には、醜い火傷の痕が残っている。
帝国の上級執政官から受けた、脱走防止のための「声帯焼灼処置」。
物理的に発声器官を焼き潰し、二度と反逆の言葉を紡げないようにする、悪魔の所業だ。
「……シズ。ルルの喉のスキャンデータは?」
俺が問うと、給仕をしていたシズが即座に応答した。
『既に解析済みです、マスター。声帯および周辺の軟骨組織が熱により炭化・癒着しています。自然治癒は不可能。高度医療でも、再生確率は0%です』
「再生が無理なら、『交換』はどうだ?」
『可能です。医療データベースに基づけば、人工喉頭への置換手術が推奨されます。ただし、現在の工場に記録されている設計図で作成可能なのは「汎用スピーチ・ユニット」のみ。機械音声による単調な発話となります』
機械音声。
よく下級の帝国兵士や労働サイボーグがつけている、あの抑揚のない電子音か。
俺は眉をひそめた。
「却下だ。あんなブリキのおもちゃみたいな声、この子には似合わない」
『ですが、生体部品の製作は難易度が高いです。有機素材の配合、神経接続のナノレベルでの調整……。工場の自動生産機能では、エラーが出る可能性が高いです』
「だから、俺がやるんだよ」
俺は立ち上がり、白衣代わりの作業着を羽織った。
エンジニアの血が騒いでいた。
機械を直すのも、人間を治すのも、
壊れているなら直せばいい。
部品がないなら作ればいい。
既存の設計図がポンコツなら――俺が書き換えて、最高のものを作ればいい。
「ギリアム、ルルを連れて医務室へ来てくれ。オペを始める」
***
工場の地下区画を改装して作った「集中治療室」。
無菌状態に保たれたその部屋の中央に、手術台に乗せられたルルが横たわっている。
彼女は不安そうに大きな瞳を揺らしていたが、ギリアムに手を握られ、そして俺の「大丈夫だ」という言葉を信じ、麻酔ガスによって静かな眠りについた。
「シズ、バイタルモニター管理を頼む。麻酔深度を維持しろ」
『了解。心拍、血圧、安定。……マスター、本当に
「ああ。工場任せじゃ、量産品しか作れないからな」
俺はホログラムコンソールの前に立ち、キーボードに指を走らせた。
画面には、ルルの喉の3Dモデルが表示されている。
損傷箇所は深刻だ。
だが、神経の束は生きている。
「素材はどうする?金属じゃ硬すぎるし、シリコンじゃ耐久性が足りない」
俺は工場のインベントリを開いた。
昨日回収した大量のゴミと、変異体の死体から抽出した素材データが並ぐる。
その中に、一つ、目を引くものがあった。
【
「……こいつだ」
あの化け物たちは、仲間を呼ぶ時に遠くに届く咆哮を上げていた。
その喉の繊維は、強靭でありながら極めて柔軟性が高く、微細な空気振動を増幅する性質を持っている。
こいつをベースに、
「いける。世界一美しい声が出る『楽器』が作れるぞ」
俺の指が加速する。
設計図を描くのではない。
音を奏でるための「回路」を組むのだ。
空気を取り込み、振動させ、音色に変える。
そのプロセスを、機械工学と生体工学のハイブリッドで再構築する。
「よし、設計完了。――生産開始!」
工場の超精密アームが動き出し、ミクロ単位のノズルから
銀色の液体が、
数分後。
トレイの上に、透き通るような桜色の「人工声帯」が完成していた。
見た目は生体組織そのものだが、その内部にはダイヤモンドより硬く、絹よりしなやかなナノマシン構造が隠されている。
「美しい……」
我ながら完璧な出来栄えだ。
俺はピンセットでそれを摘み上げると、眠るルルの元へ戻った。
ここからが本番だ。
これを入れるだけじゃない。
彼女の神経と、一本一本繋ぎ合わせなきゃならない。
「シズ、マイクロスコープ展開。倍率最大」
『了解。
俺の網膜に、肉眼では見えない微細な神経の断面が投影される。
俺は深呼吸をし、極小のレーザーメスを握った。
亡き祖父の言葉が蘇る。
『いいかクロウ。一流の職人は、鉄の呼吸を聞く。だが超一流は、鉄の心臓を動かす』
今の俺は、少女の声を繋ぐ職人だ。
震えるな、俺の指。
手術は、三時間に及んだ。
炭化した組織を切除し、新たな声帯を埋め込む。
髪の毛の千分の一ほどの太さしかない神経を、自動縫合糸で結びつけていく。
一箇所のミスも許されない。
神経パルスが正常に通電するか、一つ一つ確認しながらの作業。
「……ラスト、右反回神経、接続」
プツン、という微かな感触と共に、モニターの波形が跳ね上がった。
『
シズの声に、俺は脱力して椅子に沈み込んだ。
全身汗びっしょりだ。
変異体の群れと戦うより神経を使ったかもしれない。
「……あとは、目が覚めるのを待つだけだな」
***
ルルが目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。
麻酔が切れ、小さな手がシーツを掴む。
「ルル、分かるか?」
覗き込むギリアムに、彼女はぼんやりと頷いた。
そして、喉の違和感に気づいたのか、自分の首に手をやった。
そこには、傷跡を隠すための肌色の保護テープが貼られているだけだ。
「手術は成功だ」
俺は優しく言った。
「もう痛くないはずだ。……何か、喋ってみてくれ」
ルルは怯えたように首を振った。
トラウマなのだ。
声を出そうとしても、ヒューヒューという掠れた音しか出なかった絶望が、彼女の心を縛り付けている。
「大丈夫」
俺は彼女の手を握った。
「俺が作ったんだ。絶対に壊れないし、絶対に音が出る。俺を信じろ」
ルルは俺の目をじっと見つめ、やがて意を決したように息を吸い込んだ。
小さな肺が膨らむ。
その空気が、気管を通り、俺が作った桜色の声帯を震わせる。
「……あ……」
それは、鈴を転がすような音だった。
かつての掠れた音ではない。
透明度が高く、それでいて芯のある、美しい響き。
ルル自身が、自分の声に驚いて目を見開いた。
「……あ、あ、ああ……」
声が出る。
音になる。
その事実に、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「ギ、ギリアム……おじ、ちゃん……」
「おお……っ!ルル、喋れるのか!私の名前が、呼べるのか!」
ギリアムが泣きながら彼女を抱きしめる。
ルルは老人の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
「うあ……あああ……っ!」
その泣き声でさえ、音楽のように美しく響いた。
俺が使った「
感情が高ぶると、声帯が共鳴し、聴く者の心に直接訴えかけるような倍音を生み出すらしい。
予想以上の性能だ。
「……クロウ、さん」
泣き止んだルルが、真っ赤な目で俺を見た。
そして、ベッドの上で正座をし、深く頭を下げた。
「ありがとう……ございます。わたしのこえ、なおしてくれて……ありがとう……」
たどたどしい言葉。
だが、それはどんな流暢な演説よりも、俺の胸に突き刺さった。
俺は、自分が作ったモノで、誰かが泣いて喜ぶ姿を初めて見た。
帝国では、俺が修理しても「動いて当たり前だ」と罵倒されるだけだった。
感謝されたことなんて、一度もなかった。
「……礼には及ばないさ」
俺はぶっきらぼうに言って、顔を背けた。
そうしないと、俺まで泣きそうだったからだ。
「俺は工場長だからな。納品した製品に満足してもらえたなら、それが一番だ」
『マスター、心拍数が上昇しています。照れていますね?』
「うるさい、シズ。余計な解析をするな」
シズが珍しく、口元に微かな笑みを浮かべていた。
『音声波形、分析完了。周波数帯域、可聴域を超えて拡張されています。カテゴリー:
ルルが、ふふっと笑った。
その笑い声が、銀色の無機質な部屋を、暖かく満たしていく。
その夜。
夕食の席で、ルルは歌った。
ギリアムから教わったばかりの、古い労働歌。
5等民が辛い作業を紛らわせるために歌う、悲しい歌だ。
だが、ルルが歌うと、それはまるで聖歌のように聞こえた。
彼女の声は、工場の冷たい壁に反響し、地下深くまで染み渡っていくようだった。
ギリアムは涙を流して聴き入り、シズは静かに目を閉じて波形を記録していた。
俺は、コーヒーを飲みながら思った。
(悪くない)
ゴミと死体の星。
絶望の掃き溜め。
だが、ここには確かに「希望」の音が鳴り響いている。
帝国が捨てた、無価値だと思われた少女の声が、今、この星で一番美しい音楽になっている。
俺たちの国は、まだ小さい。
だが、この歌声がある限り、俺たちは人間でいられる。
そう確信した夜だった。
しかし、俺たちはまだ知らなかった。
このルルの声――特殊な周波数を持つ「
平和な建国の日々は、そう長くは続かない。
次の試練は、もう足元まで迫っていた。
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