#5

翌朝、彼は中庭に行かなかった。

その次の日も。

水を撒く当番は、誰か別の人間に代わっていた。

彼はそれでいいと思った。

仕事をこなし、食事をとり、眠る。

それだけでいい。

すべてが正常だった。


*

ある日の昼休み、彼は無意識に中庭を訪れていた。

誰もいなかった。

ホースがあった。

彼はそれを手に取った。

水を流す。

壁に当たる。

何も見えない。

ただの壁。

ただの水。

それでいいはずだった。

だが、彼の手は止まらなかった。

水は流れ続けた。

時間が経つ。

どれくらい経ったか分からない。

やがて、視界が揺れた。

庭が見えた。

だが、以前とは違った。

木は枯れていた。

土は乾いていた。

石畳は崩れていた。

そして——誰もいなかった。

老人はいなかった。

彼は、静かに蛇口を閉めた。

ホースを戻した。

壁を見つめた。

「……さようなら」

誰に言ったのか、彼には分からなかった。

だが、その言葉を口にした瞬間、胸の奥の何かが、静かに消えていった。


*

それから、彼は中庭に行くことをやめた。

幻覚は完全に消えた。

病院の通院も、やがて終了した。

医師は最後にこう言った。

「順調です。もう来なくていいでしょう」

「ありがとうございました」

彼はそう答えた。

医師は何も言わなかった。

ただ、一瞬だけ、彼を見た。

その目に、何があったのか。

彼には分からなかった。


*

数年後。

彼の名前はケンジ・アオキのままだった。

それ以外の名前を、彼は知らない。

仕事は続けている。

昇進もした。

同僚との関係も良好だ。

すべてが正常だった。

ただ、ときどき、ふと手を見ることがある。

この手で、何かをしていた気がする。

大切な何かを。

毎日、欠かさず。

だが、それが何だったのか。

思い出せない。

思い出す必要もない。


*

ある日、彼は街で老人を見かけた。

腰の曲がった、小さな老人。

杖をつき、ゆっくりと歩いている。

彼は、その後ろ姿を見つめた。

胸が、痛んだ。

理由は分からない。

老人は角を曲がり、消えた。

彼は、その場に立ち尽くした。

風が吹いた。

どこからか、土の匂いがした。

そんな気がした。


*

夜。

彼は眠れなかった。

天井を見つめる。

やがて、彼は起き上がった。

窓を開ける。

外は静かだった。

星が見えた。

彼は、空を見上げた。

そして、小さく呟いた。

「一、二、三……」

その数字は、どこか懐かしかった。

彼は淡く光る星々に微かな土の匂いを感じる。

いや、気のせいだったかもしれない。

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水をやる男 鳴貍 @Naricist

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