#4
日が経つにつれ、幻覚は減っていった。
庭は見えなくなった。
水を撒いても、ただの壁だった。
注射のおかげだろうか。
誰からも異常を指摘されることはなくなった。
ノートは二度と現れなかった。
ときおり、理由もなく胸が締め付けられることがある。
失くしたものがある。
だが、それが何かは分からない。
*
数年が経った。
いや、数年なのだろうか。
時間の感覚が曖昧だった。
老いた、と彼は思った。
鏡の中の男は、以前より疲れて見えた。
それでも、異常なほど若かった。
ある朝、彼は再び中庭に立っていた。
当番ではなかった。
だが、体が勝手に動いた。
ホースを握り、水を流す。
コンクリートの壁に、水が当たる。
一瞬だけ、庭が見えた。
しかしすぐに消えた。
「……まあいいか」
彼はそう言って、ホースを戻した。
理由を考えることはなかった。
世界は彼を受け入れていた。
彼もまた、世界に適応していた。
ただ一つだけ、最後まで残った感覚がある。
なぜか分からないが、
水をやる行為だけは、
生きている証のように思えた。
それが、誰の記憶だったのかは、
もう確かめようがなかった。
*
その夜、彼は夢を見た。
病院。
だが、今通っている病院ではない。
もっと古い。
廊下を歩く。
自分の足音が、遠くから聞こえる。
部屋がある。
ドアに、名前が書いてある。
読めない。
読もうとすると、文字が滲む。
彼はドアを開けた。
中には、誰かが座っていた。
老人だった。
庭で見た、あの老人。
老人は、こちらを見た。
口が動く。
何か言っている。
聞こえない。
だが、分かった。
老人は、穏やかな表情のまま世界に溶けた。
彼は目を覚ました。
天井は白い。
照明は正しい。
すべては正常だ。
だが、彼の頬に、涙の跡があった。
なぜ泣いたのか。
彼には分からなかった。
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