第22話

 荒れた海は、まだ眠っていた。


 キョウとセレナが潜伏していた寒村には、

 朝の霧がゆっくりと溶け始めている。


「……海の向こうに、別の国がある?」


 老人が語った噂話は、どうしても嘘には思えなかった。

 帝国の追手が日に日に近づいている以上、

 ここに留まる選択肢はもうない。


 セレナは、ボロ舟の側で静かに息を整えた。


「行くしかないわ、キョウ。

 帝国に見つかれば、私たち二人とも終わりよ」


「分かってる……行こう」


 二人は舟を押し出し、暗い海を滑るように進み始めた。




 星がまだ空に残っているうちは、海は穏やかだった。


 だが、夜明けが近づくにつれ、

 水平線の向こうに黒い雲が渦を巻き始めた。


 セレナが空を睨む。


「まずい……風が変わった」


 直後、海がうなり声を上げた。


 ボロ舟が何度も跳ね上がり、

 雨が針のように肌を刺す。


「キョウ、しっかり!! 転覆する!」


「分かってるッ……!」


 二人は必死に舟のバランスを取り、

 嵐に飲まれまいと腕を振るい続けた。


 波が砕けるたび、視界が白くなる。

 セレナの髪が貼りつき、頬の血の気が奪われていく。


 それでも、前に進むことだけはやめなかった。


 やがて——

 灰色の雲の切れ間に、島影が見えた。




 舟が浜辺に乗り上げた瞬間、

 二人は砂に倒れ込んだ。


「……生きて、る……?」


「ええ……なんとか、ね」


 笑う余裕などない。

 どちらも腕は痺れ、呼吸は荒れていた。


 そこへ、砂を踏みしめる足音が近付く。


 十数人の兵士——いや、警備兵と思われる集団が現れた。


 先頭に立つのは、日焼けした屈強な男。

 そして、どの男も——


 首輪をつけていなかった。


 セレナが小さく息を呑む。


(……この世界に、こんな国が……?)


 警備兵は弓を構え、短く命じた。


「異国の者だな。武器を置け。

 抵抗すれば殺す」


「……分かった。降参する」


 キョウが両手を上げると、

 兵士たちは迷いなく縄をかけた。


「間者の可能性がある。政庁へ連れていく」


 セレナもキョウも目を合わせる。


(この国……何なんだ?)




 街へと連行される間、

 二人は驚愕しっぱなしだった。


 市場の中心では、男女が並んで店を切り盛りし、

 武具店では、女と男が肩を並べて剣を選んでいる。


 子どもたちは男女混じって剣術の稽古。


 鍛冶屋の炉の前には、日焼けした男と筋肉質の女が

 同じように鉄を叩いていた。


 セレナは目を見開いたまま呟いた。


「……ありえない。男女が……同じ立場で働いてるなんて」


 キョウは何も言えない。

 胸の奥の何かが熱くなるのを感じていた。




 政庁へ通されると、

 青い瞳の知的な女性が現れた。


「ようこそ、シリウス島国へ。

 私は大臣のアリアと申します」


 凛とした声。

 ただ者ではない雰囲気があった。


 アリアは二人を静かに見渡す。


「さて……あなた達は何者で、何を求めてこの島へ?」


 キョウとセレナは、

 ヴァルティアでの戦い、

 帝国との戦争、

 男女平等の国家を目指したこと、

 そして敗走してここに逃れたことを語った。


 アリアの表情が変わる。


「……男女平等の国家?」


「はい。俺は……それを目指していた」


 アリアはしばらく沈黙したのち、

 二人に手招きした。


「ついてきなさい。あなた達に見せるものがあります」




 政庁地下の図書館。

 ひっそりとした空気の中、アリアは一冊の古書を取り出す。


「この島の建国に関わった人物の記録です」


 キョウは無意識に息を飲んだ。


 歴史書にはこうあった。


 ――数百年前、

  大陸で女性支配の制度に抗い戦った“異世界の男”。

  彼は敗北し、追われ、

  ついにこの島に辿り着いた。

  ここで男女平等の国を築いた——と。


 セレナがキョウを見る。


「……あなた、まさか……」


 アリアは言う。


「史実かどうかは判別できません。

 ですが、この国の理念はその男から始まったと伝えられています」


 キョウの胸の奥が熱くなる。


「……俺と、同じ……」


 セレナは小さく首を振る。


「違うわ。

 あの男は、あなたの“前任者”なのよ」


 アリアは二人を迎賓館へ案内した。


「ゆっくり休んでください。

 この国へ害意がないのであれば、客人として扱います」




 夜。


 蝋燭の灯りがゆらめく部屋で、

 キョウとセレナはようやく二人きりになった。


 セレナが口を開く。


「キョウ……あの伝承、あなたのことよね。

 異世界から来たって……本当なんでしょう?」


 キョウは、もう隠せなかった。


「……ああ。俺は、この世界の人間じゃない。

 前の世界で……ゼルフィアに似た女に殺された」


 セレナは息を呑んだ。


「あなたは……そんな苦しみを抱えて……」


「俺がここに来た理由なんて分からない。

 でも……あの歴史書を見て、少しだけ思ったんだ。

 “あの男の意志を継ぐために来たのかもしれない” って」


 しばらく、セレナは瞳を揺らしていた。


 だが次の瞬間、

 彼女はそっとキョウの手を握った。


「どんな理由でもいい。

 私は……あなたのそばにいたい。

 あなたが世界を変えるなら、その隣に立ちたい」


 キョウは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 外では波が静かに打ち寄せていた。


 二人の新しい旅が、この島から始まろうとしていた。

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