第17話

 ゼルフィアは、帝都の高塔から外を見下ろしていた。


 窓の外には、いつも通りの帝都が広がる。

 だが、彼女の机の上に積み上がった報告書は、その「いつも」がすでに崩れ始めていることを告げていた。




 一枚、また一枚と目を通す。


「……ヴァルティア、農地増加。

 男文官の増加による政務効率向上。

 南方交易、昨年比三倍……。」


 淡々と読み上げながら、ゼルフィアは小さく指を鳴らした。


 東では王国との戦が膠着。

 西では、あの辺境ヴァルティアが、戦いの合間に着実に力をつけている。


「このまま放置すれば……」


 ゼルフィアの瞳が細くなる。


「帝国の西半分が、あの男の色に染まる。」


 キョウ。

 首輪が効かない異常な男。

 四天王二人を寝返らせ、奴隷制度を壊し、なおかつ富国強兵まで進めている。


「摘むなら、今だな。」


 彼女は静かに立ち上がった。






 翌日。玉座の間。


 皇帝はいつものように、豪奢な椅子にふんぞり返っていた。

 その目は冷たく、残虐な光を湛えたままゼルフィアを見下ろしている。


「で、ゼルフィア。貴様の進言とやら、聞いてやる。」


 ゼルフィアは跪き、頭を垂れたまま口を開いた。


「陛下。王国との和平を提案いたします。」


 空気が、一瞬で凍った。


 皇帝の顔色がみるみる紅潮し、玉座の肘掛けを掴む指が白くなる。


「和平だと……? あの、下賤な女王と、か?」


 声には露骨な嫌悪が混ざっていた。


 帝国皇帝と王国女王は、鏡写しのような存在だ。

 冷酷で、支配欲が強く、サディスト。

 似ているからこそ、互いを心底嫌っている。


「余があの女と手を結ぶ? 笑わせるな。余はあの女を、この手で踏みにじるまで満足せぬ。」


 ゼルフィアは微塵も表情を変えない。


「陛下。西の大半はすでにヴァルティアの手に落ちております。」


 静かな声が、玉座の間に広がる。


「東で王国と消耗を続け、西でヴァルティアを放置すれば……

 ゆくゆくは、東西から挟撃されることになります。」


 皇帝は鼻で笑った。


「挟撃? この帝国がか?」


「……はい。」


 ゼルフィアは顔を上げた。

 皇帝と視線が真っ直ぐぶつかる。


「すでに徴税は限界近くまで上げられ、貴族たちの不満も溜まっている。

 このまま戦を続ければ、内側からも崩れます。」


「貴族など、反乱を起こせば見せしめに殺せばよい。」


「その“見せしめ”を繰り返せば――恐怖で支配する土台そのものが割れます。」


 一歩も引かない言葉。

 皇帝の眉間に皺が寄る。


 ゼルフィアは畳みかけた。


「陛下が求めるのは『王国女王への個人的な勝利』か、

 『帝国の支配者として在り続けること』か。」


 近習たちが息を飲む。


「いま東で王国と争う理由は、すでに薄い。

 西に新たな“反逆国家”が生まれている以上、

 本来、叩くべき相手はそちらです。」


 皇帝は歯ぎしりし、玉座の肘掛けを叩いた。


「……あの女王と、並んで和平文書に名を残せと言うのか……!」


「はい。後世の歴史書には、こう書かれるでしょう。」


 ゼルフィアは淡々と告げる。


「“東西二大国の愚かな女王たちを、巧みに利用しながら

 帝国を生き延びさせた賢帝”と。」


 皇帝の動きが止まった。


 虚栄心と支配欲を、真っ直ぐにくすぐる言葉。


 沈黙が、数秒――いや、永遠にも感じられる時間続いた。


 やがて皇帝は、大きく舌打ちした。


「……よかろう。ランバルタに停戦を命じる。

 あの女との和平など吐き気がするが……帝国のためだ。」


 ゼルフィアは深く頭を下げる。


「御英断に感謝いたします、陛下。」


(さて。これで東の足枷は一つ外れた)






 王国との和平は、意外なほどすんなりとまとまった。


 王国側も、決して余裕があったわけではない。

 五万の軍を動かし続ければ、補給も兵も削られる。


 ルミナスは何度もランバルタの重騎兵を崩しかけたが、

 決定打を与えるには至らず、

 王国女王もまた「これ以上は割に合わない」と判断していた。


 双方が消耗に疲れ、

 ゼルフィアが皇帝を無理やり説き伏せ――停戦。


 東の戦線から、ランバルタ軍がゆっくりと下がっていく。




 帝都に戻ったゼルフィアは、すぐに次の準備に取りかかった。


 自らが統べる二万。

 帝都防衛と、遊撃に回せる精鋭だ。


 だが、正面からヴァルティアへぶつけるには心許ない。


「……ヴァルティアの兵力は、名簿上では五千。

 だが、あの男の“異常性”を考えると、ただの数字で測るべきではない。」


 ゼルフィアは地図の北へ指を滑らせた。


 そこには、帝国すら完全には支配しきれていない、

 異民族の領域があった。


「金と武器を送る。

 ヴァルティア北部に略奪の許可を与えると伝えなさい。」


 腹心が頭を下げる。


「異民族を……使うのですか。」


「ええ。あの蛮族どもは略奪が好きだ。

 略奪していいと許可を出せば、喜んで北から攻め込む。」


 同時に――と、ゼルフィアは今度は南へ指を滑らせた。


「サーシャを呼びなさい。」






 帝都の会議室。

 サーシャは商人としての正装で現れた。


 露出の少ない、落ち着いた色のドレス。

 だが、その瞳の奥には、相変わらず計算高い光が宿っている。


「お呼びとのこと。ゼルフィア様。」


 ゼルフィアは茶を一口すする。


「あなたの独立都市。

 最近、帝国と王国の戦で、周辺が物騒になっていると聞く。」


「交易路の一部が危険地帯になりましたね。

 税も上がってきていますし、いつ“保護”と称して軍を置かれてもおかしくない。」


 サーシャはさらりと言った。


 自分の拠点が、強大な国家の間で板挟みになりつつあることを、

 彼女自身が一番よく理解している。


 ゼルフィアは書類を数枚、サーシャの前に滑らせた。


「帝国は、あなたの都市との“通商特権”を約束しましょう。

 帝国領内での税率優遇、関所の簡略化、

 南方航路の保護を含めて。」


 サーシャは目を通す。


 一行も読み飛ばさない。

 数字を見ながら、頭の中で瞬時に利益と損失を弾き出していく。


「……ずいぶんと、太っ腹ですね。」


「それだけの価値があるからよ。

 あなたの商隊は、帝国とヴァルティア、王国を繋ぐ“血管”になっている。」


 ゼルフィアは言葉を続ける。


「ヴァルティアは、確かに面白い国よ。

 男女平等、奴隷解放、富国。

 だが――国力そのものは、まだ脆い。」


「そうですね。」

 サーシャも頷く。


「帝国と王国が本気で挟撃すれば、

 どれだけあの男が優秀でも、持たないでしょう。」


 ヴァルティアとの一年の交易は、サーシャにとっても利のあるものだった。

 だが、それは短期的な“おいしい取引”にすぎない。


 長期的に見れば――

 帝国と敵対する側に立ち続けるリスクはあまりにも大きい。


 ゼルフィアが小さく笑う。


「あなたには、ヴァルティア南部の“火種”を煽ってほしい。」


「火種?」


「改革で利を失った貴族たち。

 男女平等など笑止、男を奴隷として扱えなくなった連中。

 あの者たちは、キョウとセレナに不満を抱えている。」


「ああ……いますね。」

 サーシャも記憶を辿る。


 酒場で愚痴をこぼしていた女貴族。

 男を安く買えなくなったと嘆いていた商人。

 新しい税制に顔をしかめる連中。


「金と情報を流し、

 “今動けば帝国が味方してくれる”と囁いてやりなさい。

 反乱の準備くらい、すぐ進むわ。」


 サーシャは少しだけ目を伏せてから、笑みを深くした。


「……一年間のお付き合い、悪くなかったですけどね。

 商人は、沈みそうな船には乗り続けません。」


「協力してくれるのね。」


「ええ。

 帝国に恩を売れるなら、なおさら。」


 サーシャは書類に目を走らせたまま、心の中で冷静に天秤を見ていた。


 ヴァルティア → 短期的な利、しかし長期的には帝国と王国の挟撃対象。

 帝国 → 倒れかけているが、まだ“世界の軸”であり、

 ここで貸しを作っておけば、独立都市の生存確率は上がる。


「では――南は私が乱してあげます。」



 こうして、三つの刃が静かに研がれていった。


 北では、異民族の戦士たちが酒場で武具を磨き、

「南には首輪を外された男と女がたくさんいる」と笑い声を上げる。


 南では、一部の貴族たちが密会を重ね、

 サーシャの言葉に煽られて小さな武装を整え始める。


 そして帝都ではゼルフィアの二万が、

 無駄のない補給と編成のもとで静かに集結していた。




 ヴァルティアの空は、その日も穏やかだった。


 新しく延びた水路を、子どもたちが覗き込み、

 男も女も畑で汗を流し、

 鍛冶場からは鉄を打つ音が響く。


 その平穏の下で――

 目に見えない包囲網が、じわりと締まり始めていた。


 ゼルフィアは帝都の塔の上から、西の空を見つめる。


「ヴァルティア……。

 あなたがどれほどの“異常”なのか――確かめてあげる。」


 それは、帝国四天王筆頭の女の、

 静かな宣戦布告だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る