第16話
ヴァルティアに、ゆっくりとした変化の波が来たのは――サーシャとの交易が始まってからだった。
南方からの商隊が、定期的に街にやって来る。
珍しい南国の果物、軽くて丈夫な布、細工の細かい装飾品。
それらは女貴族たちの心を掴み、男たちには新しい仕事を生んだ。
増えた税は、まず街道と水路に注がれた。
荷馬車がまともに通れなかった泥の道は石畳に変わり、
井戸だけに頼っていた水は、簡易水路で城下の外れにも引かれるようになった。
完璧とはほど遠い。
それでも、一年前と比べれば、ヴァルティアは別の街になりつつあった。
男たちも、変わった。
まだ高位官僚は女が多いが、
文官見習いとして書類を運び、集計を任される男はずいぶん増えた。
「字が汚いわよ、書き直し。」
銀髪を揺らしながら、セレナが若い男文官の書類にさらりと赤印を入れる。
「す、すみません長官……!」
あたふたする彼の肩を、別の男が笑いながら叩いた。
「前は首輪つきで数字も数えられなかった俺たちが、いま政務にいるんだ。
贅沢言うなよ。」
そうやって、笑いながら前を向ける程度には、
“希望”というやつが街に根を張り始めていた。
研究棟の窓からその様子を見下ろしながら、メルティナはそっと息を吐く。
首輪なしで発動できる強化術式――
一年かけて、ようやく“仮運用”できるところまで来た。
対象は少人数。
効果時間も短い。
けれど、男女問わず、体に負担も狂化もなく力を上げられる。
「……ここまで来られたのは、あの人の言葉があったから、か。」
『やり直しは、何度でもしていいんだよ』
あの時のキョウの声を思い出し、胸がきゅっとなった。
そんなある日だった。
「ただいま戻りました――キョウ様。」
懐かしい、よく通る声が聞こえた。
執務室の扉のところに立っていたのは、
黒髪のポニーテールを揺らした少女――シオン。
顔色はまだ少し白いが、その眼差しはいつもどおり澄んでいる。
「シオン……!」
キョウは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がり、
ほとんど駆け寄るように彼女の前に立った。
「本当に……本当に生きてたんだな……!」
いつもより少し高い声。
それが本人にも分かったのか、キョウは慌てて咳払いした。
「ごほっ……えーと、その。よかった……!」
照れ隠しにもなってない。
シオンは、くすりと笑った。
「死んでたら、ここには立ってませんから。」
その肩を、いきなり後ろからガシッと掴む大きな手があった。
「シオン殿ォ!」
ガルザだ。目が真っ赤になっている。
「お前さんが居ないと、偵察も潜入もてんで駄目でな!
男どもはすぐ捕まるし! もう二度と死ぬなよ!」
「……死ぬ予定は、今のところありません。」
エマも腕を組みながら、口元だけ柔らかくする。
「戻ってきてくれて助かったわ。本当に。」
マリーナは椅子に腰かけたまま、脚を組んで見ていた。
「さすがシオンね。最後はちゃんと生き残ると思ってたわ。」
セレナは、少しだけ目を細めて呟く。
「……おかえりなさい。」
シオンは一人一人に頭を下げた後、
最後にキョウをまっすぐ見た。
「生きて戻れ、と言ったのはキョウ様です。
だから、戻りました。」
キョウは、少し潤んだ目を逸らす。
「……うん。戻ってきてくれて、ありがとう。」
その様子を見ていたメルティナは、胸の奥がまた温かくなるのを感じた。
皇帝の下では、あり得ない光景。
ここでは、仲間の生死が本気で喜ばれる。
改めて、自分が帝国ではなくヴァルティアを選んだことを、
正しかったのだと確認できた瞬間だった。
もちろん、その一年のあいだ帝国が黙っていたわけではない。
国境沿いでは、百人規模の偵察隊や、千人の小部隊が
ちょこちょこ嫌がらせのように攻めてきた。
だが、エマやガルザ、リディアの訓練された部隊にとっては、
その程度は“実戦訓練”にしかならなかった。
「本隊を出せないんだろうな。」
地図を前に、キョウがぼそりと言う。
「東で王国が攻勢を強めてる。
サーシャやシオンの情報が合ってるなら、帝国はそっちに二万以上張り付けてるはずだ。」
セレナが頷く。
「四天王のランバルタ。
あれが前線から動けないってことは――それだけきついってことね。」
場面は東の戦場へ。
大地を覆うように広がる陣。
その中心に、漆黒の鎧を纏った重騎兵が整列していた。
先頭の女が、炎を纏うランスを掲げる。
ランバルタ。
「全軍――前へ!」
号令と同時に、重騎兵一万が動いた。
盾と鎧のぶつかる音。
地面が震え、空気が押し出される。
その後方には、同じく漆黒の鎧を着込んだ重歩兵一万が続く。
盾を前に、ランスや長槍を構え、
歩みは遅いが、一度動き出したら止まらない鉄の壁。
前方からは、王国軍五万が押し寄せていた。
歩兵を中心に、弓兵、軽騎兵。
数だけ見れば圧倒的だ。
その王国軍の中で、
青い髪をなびかせる騎馬の女――第二将軍ルミナスが、
何度も鋭い楔のような突撃を繰り返していた。
「左翼が崩れる! 支援を!」
「中央、押し返されます!」
報告が飛ぶたびに、ランバルタの隣を走る副官ティナが
瞬時に指示を飛ばす。
「第五中隊、左翼支援! 第三重騎兵は中央へ!
ランバルタ様、十数える間だけ前線、私に任せてください!」
「よし任せた! 十数えたら全部戻ってこいよ!」
「はいっ!」
ティナの足運びは素早く、
味方の配置を次々と修正していく。
思い返せば――ティナがまだ見習いだった頃。
「違う、そこじゃねえ。盾はここ。
敵の矢が飛んでくる角度を見ろ。」
「は、はいっ!」
「何回でもやり直せ。全部覚えるまで寝かさねぇからな。」
夜営のテントで、ランバルタは嫌になるほどみっちりと
自分の用兵をティナに叩き込んだ。
今では、彼女の号令だけで、
半分以上の部隊が動くようになっている。
戦場では師弟。
夜になれば、テントの中で静かに抱き合う恋人同士。
しかし、そのふたりですら――
今の戦局を動かす決定打を出せていなかった。
「くそっ……!」
ランバルタは炎を纏ったランスで王国兵をまとめて吹き飛ばしながら、
遠くを疾走していくルミナスを睨む。
「あの女、地形を読むのが上手すぎる……!
重騎兵が突っ込んじゃいけない場所に、必ず誘導してくる!」
ティナも歯を食いしばる。
「追えば沼地や森に引き込まれます。
こちらも一方的に勝てない……。」
双方、損害は少なくない。
だが、どちらの軍も致命傷には至らず――ただ、時間だけが削れていく。
その間、帝国はヴァルティアに大軍を割けなかった。
その情報が、サーシャの商隊ルートや、
シオンの諜報網を通じてヴァルティアに届いた。
「東は膠着。だけど、いつ崩れるか分からない。」
サーシャが、交易会議の席で言う。
「帝国は南方の税を上げてまで戦費を捻出してる。
これが続けば、どこかで限界がくるわ。」
キョウは顎に手を当てた。
「帝国と王国、どっちが先に崩れても……
次の矛先は、こっちに向く可能性が高いってことか。」
「そういうこと。」
サーシャの茶色の瞳が細くなる。
「だから――今のうちに“太る”べきよ。
鉱山、開墾、工房。
戦争で物価が跳ね上がる前に、土台を作ってしまいなさい。」
エマが真面目に頷く。
「街道の整備に続いて、防衛施設の補強も必要ですね。
砦や見張り塔、それから兵站用の倉庫も。」
マリーナは笑いながらワインを揺らす。
「鉱山の権利書、もう何枚か余ってるわよ?
掘る人さえいれば、一気に富が増えるかもしれないわ。」
リディアは腕を組んで壁にもたれ、
鍛錬で鍛えられた腕を引き締めたままぼそりと言う。
「今は、殴りに行くより殴られない準備か。
まあ、筋肉をつけるには“溜め”も必要だ。」
メルティナも、資料を胸に抱えながら口を開いた。
「首輪なしの強化術式が、ようやく実戦投入の目処が立ちました。
重労働や鉱山の作業にも使えます。
怪我をしにくく、疲労も軽減できますから。」
セレナが全員を見渡し、まとめる。
「――つまり、いまは“富国”に全力を注ぐべき時ということね。
戦う準備をしながら、戦わずに済む時間を最大限に活かす。」
キョウは深く頷いた。
「うん。
帝国と王国が潰し合ってるあいだに、こっちは土台を固める。
次に大きな戦いが来たとき、もう“博打”に頼らなくていいように。」
その言葉に、場にいる全員が頷いた。
その一年間で――
エマは警備隊と歩兵隊の訓練体系を整え、
「誰が指揮しても回る部隊」を作り始めた。
ガルザは首輪を外された男兵たちに、
生まれて初めて“自分で考える訓練”を施した。
リディアは武具工房と協力し、
重装備の改良に手を貸すようになった。
以前の帝国式より軽く、動きやすい鎧を試作しては自分で着込んでぶん回している。
マリーナは貴族から徴収していた「訳の分からない特権税」を整理し、
商人たちに「合理的な税」を提示して評判を稼いだ。
その裏で、サーシャと密かに利権も分け合っている。
メルティナは研究棟にこもり、
失敗して倒れ、また起き上がり、
それでも少しずつ、“誰も狂化しない強化術式”を完成へと近づけていった。
シオンは回復するや否や、
帝国・王国・独立都市を結ぶ情報線を整え、
わずかな変化も見逃さないよう目を光らせ続けた。
そして――一年が過ぎる。
帝国と王国の戦場は、いまだ決着がつかない。
そのあいだに、ヴァルティアは確かに“太った”。
痩せたまま戦場に出れば、風に吹かれて飛んでいくしかない。
だが、足腰を固めれば、多少の嵐では揺らがない。
次に大きな嵐が来たとき、
この国がどう在るべきか。
キョウは、夜の城壁に立ちながら静かに空を見上げた。
「……もう、“奇跡待ち”の戦い方はしたくないな。」
誰にともなくそう呟いて、
それから小さく笑った。
「でもまあ、もしまた賭ける時が来たらさ。
その時は――前より、もう少しだけ勝率を上げておきたい。」
遠くで、鍛錬に励む兵士たちの掛け声が聞こえる。
ヴァルティアは、次の戦いのために。
その日が来る前の、静かな一年を、確かに積み重ねていた。
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