第14話

 濁流が兵を呑み込み、川原は一瞬だけ静まり返った。

 だが、その静寂は長く続かなかった。


「退路はないッ! 動揺するな、前へ進めぇッ!!」


 川を渡りきっていた帝国前衛五千を率いる女将校が、怒号を飛ばした。

 筋骨たくましい体躯。頬には戦化粧がまだ乾かずに残っている。


「五千も残っている! ここで押し返せばまだ勝負は分からん!

 ヴァルティアの連中は所詮急造の寄せ集めだ、怯むなッ!」


 兵たちは動揺しながらも、その声によってわずかに秩序を取り戻しつつあった。


 死者も多いが、それは相手も同じこと。


 ここで踏ん張れば、まだ挽回できる。

 女将校はそう信じ、部下を鼓舞し続けた。


「押し返せば――帝都の栄光を守れる! 行けッ!!」


 そのとき――


 ギィ……と砦の門がゆっくり開いた。


 女将校は反射的にそちらへ目を向ける。

 視界の奥で、砂煙を踏む影がひとつ。


「……っ!?」


 その影を見たとき、女将校の顔から血の気が引いた。


「リ……リディア……?

 帝国四天王の……リディア様?」


 声が震え、喉の奥がつまったように言葉が出ない。


 捕虜になった――そう聞いていた。

 城に拘束されていると、皇帝からも報告があった。


 だがいま目の前に現れたその姿は、

 敵として砦から歩み出てくる“裏切り者”の姿だった。


「嘘だろ……どうして……!」


 女将校は後退りした。

 指揮官としての威厳は、一瞬で吹き飛んでいた。




 リディアは大剣を片手で引きずり、川原にゆっくりと近づく。


「捕虜ってのは、案外暇なんだよ。」


 足元の砂を、刃先でなぞりながら言う。


「いろいろ考える時間がある。

 ……お前らの皇帝と、誰の下で戦うべきかってことをな。」


 女将校は震える手で剣を構えた。


「う、裏切ったのか……リディア様……!

 帝国の誇りを……!」


 リディアは鼻で笑った。


「誇りね。女を使い潰して悦に浸ってるだけの無能が、何だって?」


 その声は冷たく、感情の色はほとんどなかった。


「名乗れよ、お前。死ぬ前に聞いといてやる。」


 女将校は口を開くが、言葉にならない。


 その隙に――リディアの身体が“消えた”。


 目にも止まらぬ速さで踏み込み、

 最初の一撃で女将校の剣が粉々に砕け散る。


「な……」


 言葉が終わる前に、大剣の二撃目が横一線に走った。


 金属音。肉を裂く音。

 女将校の身体は、真っ二つに割れた。


 血が砂地に線を引き、赤く染めていく。


 リディアは死体を一瞥し、淡々と呟いた。


「捕虜でも、考えた答えは曲げねえ。」


 その瞬間、帝国前衛五千の士気が音を立てて崩れた。


「リディア様が……敵に……?」


「無理だ……勝てるわけ……!」


「うわあああッ!!」


 兵たちが恐慌状態に陥る。




 そこへエマの槍が突き込み、千の歩兵が一斉に前へ走る。


「突撃!」


 エマは鋭い声で叫ぶ。

 動揺していたヴァルティア兵たちも、その声に奮い立つ。


 川を渡ったばかりで足元の弱い敵に、重い一撃が次々と突き刺さった。




「遅ぇぞ、エマ! こっちも行く!」


 ガルザの千が横から食い込み、前線を押し込む。

 血に濡れた腕を振り回し、敵兵を蹴散らす。


「怯むなッ! キョウ様のために押し切るぞッ!!」




「はいはい、こっちは私が切り崩すから。」


 赤髪をなびかせながら、マリーナの軽騎兵五百が川原を横切る。

 馬上で槍を振るい、敵兵の影を次々と落としていく。


 ふくらはぎから太ももにかけて泥と血が跳ねても、

 彼女はそれを気にもとめず、むしろ愉しげな目をしていた。


「逃げる背中って、本当に刺しやすいわねぇ。」




 互いの兵数は五千同士。

 しかし、士気の差は歴然だった。


 前を失い、リディアの裏切りを見せつけられた帝国兵は、

 “軍”としての形を保てなくなった。


 対してヴァルティア側は、

 川を越え、勝ち筋を掴みかけたことで勢いが増していた。




 じわじわと押し返された帝国前衛は、

 やがて散り散りに崩れ落ちた。


「勝ったぞォォ!!」


「ヴァルティアの勝利だ!!」


 勝鬨があがった瞬間、

 川の対岸でその声を聞いたメルティナの心は完全に折れた。


 白い頬が蒼白になり、金髪が震えた。


「……もう、止められない。」


 指揮官を失い、前衛が崩壊した以上、

 これ以上の戦いは死体を増やすだけだ。


 メルティナは小さく震える声で命じた。


「全軍……退きなさい。」


 その声には、もう威厳も覇気も残っていなかった。






 帝都に戻ったメルティナは、

 自ら白い死装束をまとい、縄を肩に掛けて皇帝の前に跪いた。


「戻りました……陛下。」


「戻りました、だと……?」


 皇帝の顔が、怒りで真っ赤に染まる。


「敗北して! 五千を失って! よくも戻れたものだなッ!!」


 玉座の間に怒号が響く。


「処刑だ! 貴様も! 一族も! 全て処刑だ!!」


「……家族だけは……どうか……!」


「聞き入れぬ!」


 近習が青ざめる中、メルティナは牢に投げ込まれた。




 そこからの日々は地獄だった。


 軍法会議は毎日開かれ、

 少しでも言い訳めいた言葉を口にすると――


 鞭が飛んだ。


 細い背に、白い腕に、赤い線が何十本も刻まれた。


「……っ……!」


 悲鳴を上げれば、さらに鞭が加わる。


 そして、一週間後。

 処刑の日が決まった。


 家族はすでに“見せしめ”として処刑されていた。


 メルティナの心は、その瞬間完全に折れた。






 その夜。


 牢に、影が滑り込む。


「……メルティナ。」


 黒髪のポニーテール。黒装束。

 シオンだった。


「あなたは……?」


「シオン。ヴァルティアの者よ。

 あなたを助けに来た。」


「……殺しにではなく?」


「あなたは殺すには惜しい。」


 シオンは淡々と言う。


「誠実で、職務に忠実で、術も優秀。

 キョウが放っておくタイプじゃない。」


 メルティナの瞳に、涙が滲む。


「……家族も守れなかった、わたしに……生きる意味が……」


「生きたいの?」


 沈黙のあと、

 メルティナはかすかに頷いた。


「……生きたい……です。

 助けて……シオン。」


「いいわ。」


 シオンは鉄格子を開け、彼女の手を取った。






 だが脱獄は困難だった。


 裏道へ向かう途中、五つの影が行く手を塞ぐ。


 カレン――シオンのかつての同僚。

 その背後に四人の暗殺者。


「裏切り者は殺す。」


「そっちがね。」


 シオンの仲間五人が前へ出る。


「シオン様を通せ!!」


 一人ずつ倒れながら、時間を稼いだ。




 城壁を抜け、森を駆け、川へ。


「ここまで来れば……!」


 小舟を押し出す仲間――カゲロウ。


 しかし、その背後からカレンたちが追いつく。


「逃がさない。」


「カゲロウ!! メルティナを連れて行け!!」


「でも――」


「行けッ!!」


 シオンは煙幕を投げ、二人を覆う。




 白い霧の中、

 シオンは二対一の戦いを強いられた。


 刃と刃がぶつかり、火花が散る。


「ぐっ……!」


 カレンの刃が腹を裂き、血が川へ散った。


 しかしシオンは最後の短剣を投げ、距離をとる。


 そして――


 後ろへ倒れ込むように、川へ身を投げた。


 大きな水音。

 赤い泡。


「……まだ死なないわね、あの女。」


 カレンは唇を噛んだが、追うのを諦めた。


 小舟の上、メルティナは涙で霞む視界の中で叫ぶ。


「シオン……!!」


 その声は川風に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る