第13話
砦は、まだ新しい木の匂いがした。
石と木を無理やり積み上げた急造品だが、川を渡った先に立っているというだけで、敵の喉元に杭を打ち込んだような位置になる。
キョウは砦の上から川面を見下ろし、深く息を吐いた。
「……配置、確認するね。」
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと口を開く。
「川の向こうでガルザの千が一度受け止める。
限界が来たら、迷わず退くこと。ここは“時間稼ぎ”が仕事。」
砦の内側に広げられた簡易地図の上で、ガルザが膝をつき、真剣な顔でうなずく。
「承知しました。兵を無駄には死なせません。」
その一言に、キョウは少しだけ肩の力を抜いた。
撤退を恥じない男は、それだけで頼りになる。
「マリーナは、その撤退の援護。
矢と機動力で、ガルザたちの背中を守ってほしい。」
「任せてちょうだい。」
マリーナは椅子から立ち上がり、スリットからのぞく白い太ももを無造作に組み替えた。
赤髪をかき上げながら、悪戯っぽく笑う。
「逃げる男の背中を、綺麗に飾ってあげるわ。」
キョウの視線が一瞬だけ太ももに吸い寄せられ、あわてて逸らす。
「えっと……戦術的な話だからね、うん。」
「分かってるわよ、指揮官さん。」
マリーナは愉快そうに目を細めた。
「川のこっち側では、エマが千で布陣。
ガルザたちが渡ってきたところで合流して、二千で受け止める。」
「了解。」
エマは短く答え、地形を指でなぞる。
「この一帯、川原は細くなってる。
一度に押し寄せられる人数が減る分、なんとかなるはず。」
「砦の中にはセレナと……リディア。」
名前を出した途端、砦の壁にもたれていたリディアが、あからさまに舌打ちした。
「後ろで座ってろ、ってことか。前の方が向いてるんだがな、あたし。」
「それは分かってる。」
キョウは苦笑しながら首を振る。
「でも今回は、“崩すタイミング”が大事なんだ。
前に出てもらう時は必ず来るから……その時、一番いい形で暴れてほしい。」
「……口だけじゃないといいが。」
そう言いながらも、リディアの目にはほんの少しだけ、期待の色が混じっていた。
セレナはそんな二人を見て、静かに微笑む。
「キョウの言う通りよ。
今回は、前を支えるのと同じくらい、後ろで“決定打”を握っている方が重要。」
キョウは小さく頷き、砦の外へ視線を向けた。
「――来るわ。」
砦の上から川を見張っていたエマが、低く呟いた。
川の向こう側に、黒い線のような軍勢が現れる。
一万の男兵。その背後に、二千の女術者。
そして、その中心。
白い肌に、きちんと束ねられた金の髪。
濃紺の術士服を身にまとい、小柄な身体をまっすぐ保った女が、馬上から全体を見渡していた。
メルティナ。
キョウは無意識に息を呑む。
清楚――その言葉が似合う。
控えめな装いなのに、彼女の周囲だけ空気の密度が違うように感じる。
セレナが瞳を細める。
「……澄んだ魔力ね。歪みがない。」
「敵なのが、惜しいくらい。」
キョウの呟きは風に紛れて消えた。
「ガルザ、前へ。」
伝令用の術が響き、ガルザは兵の前に立った。
「耳を貸せ!」
その声は、兵たちの胸に重く落ちる。
「これから当たるのは、一万だ。
だが俺たちの役目は、勝つことじゃない。“ここで全員、生きて戻ること”だ。」
ざわついていた空気が、少しだけ落ち着いた。
「撤退は敗北じゃない。キョウ様の策の一部だ。
退くときは迷うな。俺の声が聞こえたら、振り返るな。」
「「はっ!」」
声が揃い、盾が一斉に構えられる。
川向こうのメルティナが、そっと手を上げた。
細い指が空中に幾重もの紋を描く。
「強化、開始。」
淡い光の筋が兵士たちへと伸び、全身を包み込む。
呼吸が整い、視界が澄み、筋肉が静かに高鳴る。
一万の足音が、大地を震わせて迫ってきた。
「ぐっ……!」
ガルザの盾に、強化された衝撃が叩きつけられる。
一撃目で、腕が痺れるほどの重さ。
それでも――彼は冷静だった。
(このまま押し合えば、数で潰される。ここで粘るのは“仕事”じゃない。)
「全員、退くぞ! ここで死ぬな、下がれぇッ!」
ためらいなく自分の盾を投げ捨て、踵を返す。
兵たちも、訓練通り一斉に後退を開始した。
「逃がすな!」
敵兵が追い縋った瞬間、横合いから矢の雨が降り注いだ。
「はいはい、こっち見て?」
赤髪をなびかせ、マリーナの軽騎兵が川沿いの丘から躍り出る。
馬上の彼女は、馬の動きに合わせて裾を少しだけまくり上げていた。
濡れやすい足元を嫌ってのことだが、のぞく太ももは、戦場の空気とは不釣り合いなほど白く滑らかだった。
「ガルザ、早く行きなさい! 女に守られてばかりじゃ格好つかないわよ!」
軽口を叩きながらも、矢の狙いは鋭い。
追撃の先頭を正確に射抜き、ガルザたちの退路を切り開いていく。
「恩に着る!」
ガルザが振り返りざまに叫ぶ。
「あとでお酒でも奢ってちょうだい!」
マリーナは笑いながら、再び弦を引いた。
ガルザの千とマリーナの五百は、乱れながらも川へ飛び込み、必死にこちら側へと渡っていく。
その姿を見て、メルティナ率いる前衛も勢いのまま川へ足を踏み入れた。
川のこちら側。
エマの千が、すでに布陣を整えている。
「ガルザの旗、全員渡った!」
砦の上からセレナが叫び、キョウが小さく頷いた。
「ここから……だから。」
川原は狭まり、一度に戦線に立てる人数が限られている。
さっきまで押し潰すように迫っていた一万の圧力は、この地点では薄まる。
「エマ、頼む。」
「任された!」
エマが槍を掲げ、声を張る。
「全軍、構え!」
その背後に、荒い息を整えたガルザの兵が合流する。
二千の壁が、川を渡ってくる敵を待ち受ける形になった。
キョウは砦の石壁に手をつき、川の流れを見下ろす。
(……これでいいのか、本当に。)
川の中を進む敵兵の姿が、妙にゆがんで見える。
彼らの首に巻かれた首輪が、かつてのガルザたちの姿と重なる。
――殺したいのは、九条玲みたいな女だけのはずだ。
胸の奥で、呟きが生まれる。
それでも、この術を選んだのは自分だ。
敵兵の命を“数字”として削る策を、容認したのは自分だ。
『男を駒としてしか見ない世界を変えたい』
その願いを叶えるために、また男たちを飲み込む。
(……俺は、どこまで許されるんだろう。)
喉がひどく乾いた。
それでも、声は出さなければならない。
「セレナ。準備は?」
「いつでも。」
砦の内部。
セレナが指先で術式を確かめる。
川底に仕掛けた、古い地脈を利用した崩落の陣。
キョウがそっと、その手に自分の掌を重ねた。
「……頼む。」
「ええ。」
セレナの魔力と、キョウの得体の知れない“何か”が絡み合う。
川の下で、目に見えない線が静かに光り始めた。
川の中には、すでに前衛の半分近くが入っている。
渡り終えた者たちがエマたちの陣とぶつかり、鋼の音が響き始めた。
「押し返せ!」
「踏ん張れぇ!」
エマとガルザの声が、戦場に混ざり合う。
川の中ほどには、まだ大量の兵がいる。
この瞬間を逃せば、二度と同じ形で敵を捕らえることはできない。
キョウは、握った手に少しだけ力を込めた。
「――今。」
その一言に、セレナが頷く。
「崩れなさい。」
大地の奥で、鈍い音が響いた。
次の瞬間、川底が、音もなく抜け落ちる。
「え……?」
川の中にいた兵士が、間抜けな声を漏らす暇もなく、
水が一気に沈み込み、巨大な渦を生み出した。
ごう、と耳をつんざくような水音。
足元をさらわれた兵士たちが、まとめて濁流に飲み込まれていく。
「うわあああっ!」
「足が――!」
「助け――!」
一万の前衛のうち、およそ半数が、その瞬間、水と土に引きずり込まれた。
重い鎧は浮力を奪い、整えられたはずの強化術も、乱れた流れの中では機能しない。
砦の上からその光景を見ていたメルティナは、
まるで世界がひっくり返ったかのような顔をした。
「……嘘。」
馬上で、金髪が震える。
すぐに術式を組み直そうと、細い指が空をなぞる。
「戻って――強化を……!」
だが、彼女の魔力は、川の中でバラバラに乱れた兵たちを捉えられない。
誰がどこにいるのか分からない。
“立っている兵”にかける前提で組んだ術は、水中では行き場を失う。
光の糸が、ぷつり、ぷつりと千切れていく。
「どうして……届かないの……。」
声が震えた。
自分は一万にバフをかけられる術者だ。
それを誇りとしてきた。
なのに、目の前で沈んでいく兵たちに、何一つ手を伸ばせない。
皇帝の命令。
勝たなければならない戦。
それなのに、自分の術は、水一つ前に無力だ。
「ごめんなさい……。」
誰に向けた言葉か、メルティナ自身にも分からなかった。
川は、濁った水で満たされていく。
叫び声は次第に小さくなり、やがて水音に溶けた。
砦の上からその様子を見ていたキョウは、拳を握り締める。
(……本当に、これでよかったのか。)
吐き気がするような感覚が、喉の奥からせり上がる。
それでも、目をそらすことはしなかった。
隣でセレナが、静かに川を見つめながら呟く。
「これは、あの皇帝が選んだ戦い方の代償よ。
あなた一人の罪じゃない。」
その言葉が慰めになるかどうかは分からない。
それでもキョウは、小さく頷いた。
濁流が落ち着き始めた川の上には、漂う破片と沈んだ影だけが残っていた。
戦場は、一瞬だけ、息を詰めたような静寂に包まれた。
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