第8話
帝都へ逃げ込んだマリーナは、泥と血にまみれた姿のまま皇宮へ駆け込んだ。本来なら何層もの検問と洗浄が入るはずだが、今回は“緊急報告”として特例扱いだった。それほどにヴァルティアの異変は、帝国全土に重く響いていた。
豪奢な玉座の間。その中央に座す皇帝アゼリアの瞳は、宝石のように冷えきっている。
マリーナが膝をつき、震える声で報告を終えた瞬間――。
「……愚か者」
皇帝の声が、まるで刃のように空間を切り裂いた。
「セレナのような優秀な四天王を失いかけただけでなく、貴様は男ごときの反乱を止められなかったのですか? 失敗は罪。帝国でそれは死を意味する」
玉座のまわりの侍女たちが静かに身を震わせる。
帝国の統治は苛烈だ。
上に立つ者の失敗は、処刑で“組織を清める”文化がある。
「ひ、ひぃ……! ど、どうか、どうか命だけは……」
「では階級を落とします。今日から貴様は将校。前線に立ち、ヴァルティア討伐戦で挽回しなさい」
生き残るための細い糸にすがったマリーナは、深々と頭を垂れた。
皇帝は次に玉座横の水晶板に手を添える。
淡い光が広がり、地図の上にひとつの紋章が浮かぶ。
「四天王リディアに伝えよ。ヴァルティアを平定せよ、と」
マリーナは反射的に息を呑む。
リディア――セレナと同格の四天王にして、“怪力の戦姫”と恐れられる女だ。
「……り、リディア様を?」
「セレナに反逆の疑いがある以上、同格の者が動くべきでしょう。
あの女は力任せで粗野だが、戦場では最も信頼できる」
皇帝の言葉には、人間への敬意が微塵もない。
兵士は駒、四天王は道具。
その思想が帝国を腐敗させていることを、皇帝自身は気づいていなかった。
マリーナは玉座から逃げるように立ち去った。
◇
リディアの駐屯地。
剣戟の音が響く訓練場に、マリーナは息を切らして現れた。
「リディア様! 皇帝陛下より、ヴァルティア平定の勅命です!」
銀の髪を高く結い上げ、筋肉の締まった背の高い女が振り返る。
鍛え上げられた身体は鎧の上からでも分かり、顔立ちはどこか幼さを残すが、その腕力は帝国随一だ。
「……セレナが裏切ったか。あの堅物がね」
リディアは楽しげに笑った。
「戦相手としては不足なし。やり甲斐があるわ」
しかしマリーナが続ける。
「敵の将は、男なのです」
「男?」
その一言で、リディアの眉がわずかに下がった。
「まさか、ただの男が……?」
「セレナの術が通じなかったそうです。そして狂化術にも耐えたと」
リディアは鼻を鳴らした。
「術に耐性のある男なんて、聞いたことがない。……まあいい。相手が誰であろうと、陛下の勅命とあらば討つのみ」
すでにこの駐屯地は“進軍準備を整えつつあった”。
武具の点検、食料の確保、補給線の調整――全てが滞りなく行われている。
「明日には出る。兵一万を率いてな」
その声には迷いがなかった。
「マリーナ、お前には五百を預ける。先行してヴァルティア近郊で陣を敷け。住民に“リディア軍接近”を喧伝しろ」
「はっ!」
マリーナは深く頭を下げた。
――これだ。
ゆっくり進軍し、圧をかけ、貴族たちを裏切りと恐怖で揺さぶる。
それがリディアの戦術。
戦う前から勝ちを積み上げていく老練のやり方だ。
◇
その報告を受け、ヴァルティア城では緊張が走った。
「……リディアが来る」
シオンの影のような気配が、セレナの執務室に落ち着きなく揺れる。
報告を受けたセレナは戦慄した。
「よりによって……一番相性が悪い相手が」
セレナは術を中核とする戦い方だ。
対してリディアは術をほとんど使わず、圧倒的な膂力と怪力で戦場をねじ伏せる。
過去、四天王同士の模擬戦で、セレナの術式はリディアの踏み込み一撃で粉砕されたことがある。
石柱が折れ、術式の光が四散したあの光景は、今も脳裏に焼きついている。
「進軍は遅い、と言ったな」
「はい。歩みはあえて緩い。貴族たちが次々と寝返るのを待っているのでしょう」
シオンは淡々と告げる。
「五日で着ける距離を、二週間かけて来るつもりです」
「つまり……時が経つほど、こちらの立場が悪くなる」
「その通りです」
すでにマリーナの先行部隊が“リディア襲来”を吹聴して回っており、ヴァルティアに残る貴族は動揺していた。
セレナがいくら出兵を呼びかけても、誰も応じない。
残された戦力は、
•セレナ直属のエマ隊 1000
•キョウを担ぐガルザ軍 1000
わずか二千に過ぎない。
リディア軍一万。
差は歴然だった。
「……キョウは?」
「庭でガルザたちと訓練をしている。首輪を外されたガルザ軍は士気が高く、動きも以前とは違う」
セレナは窓の外を眺めた。
夕陽の中で剣を振るう男。
なぜか胸の奥がざわつく。
「あの男の存在が……この戦の鍵となるのか」
誰にも聞こえないほどの声で、セレナは呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます