第7話
マリーナはヴァルティアを出ると、馬車を飛ばして帝都へ向かった。
夜明け前の宮殿は、不気味なほど静かだった。
皇帝―― アゼリア・ロウ=エンパイア。
豪奢な玉座の上にいる彼女は、若く美しく見えるが、
その瞳の奥には底なしの傲慢と残虐さが沈んでいた。
「……セレナが、男を庇った?」
マリーナの報告を聞いた瞬間、アゼリアの口元が吊り上がる。
「女なのに、しかも四天王で長官なのに男に情けをかけるなんて……最低の裏切りね」
玉座の肘掛けを叩く音が響く。
「処刑しなさい。セレナも、男も。
首を刎ねて、城門に晒しなさい」
「へ、陛下……セレナは四天王です。軍を以てしても――」
「シオンがいるでしょう?」
皇帝の声は嬉々としていた。
誰かが死ぬ話をするのが楽しくて仕方ないという顔。
「……シオンなら一晩で片付くわ。
男はどうせ使い道のない生ゴミだし、セレナも役目を終えた。
燃えるなら、まとめて燃えればいい」
人の命を使い捨ての鼻紙のように扱う女。
帝国が腐り果てた理由が、マリーナにはよく分かった。
「……承知しました」
こうしてシオンに、キョウの暗殺命令が下された。
⸻
その夜。
ヴァルティアの洋館は静かだった。
風音と、かすかな蝋燭の揺れだけが夜の空気を満たしている。
屋根裏の梁が、わずかにしなる。
まるで影が滲むように、シオンが姿を現した。
黒装束に身を包み、気配は風よりも薄い。
(――簡単ね)
警備は形だけ。
男が寝る部屋に、本気の警戒はない。
屋根裏から、毒薬を垂らす細い管をそっと差し込む。
口元に一滴落とせば終わり。
いつも通り、感情のない“仕事”。
しかしその瞬間――
――カシャン。
「……っ?!」
黒い鎖のようなものが天井裏に奔り、腕と脚を絡め取った。
反応するより早く、身体は天井を破って落下した。
床が迫る。
とっさに受け身を取るが、衝撃は大きく、
装束が裂け、肩口から布が滑り落ちる。
白い肌が、ひやりと外気に晒された。
「誰だ」
低い声。
キョウがベッドから起き上がっていた。
⸻
「……くっ」
シオンは身を起こそうとしたが、鎖の拘束はまだ残っている。
キョウは歩み寄り、覆面に手を伸ばした。
「やめろ……ッ!」
だが力の差は歴然だった。
布が剥がれ、黒髪が、さらりと落ちる。
長い睫毛、強い瞳、わずかに濡れた唇。
敵として見ていたはずなのに、衝撃的なほど整った顔立ちが現れた。
「……美人だな」
ぽつりと漏れた言葉は、シオンの耳を刺す。
「黙れ……! 男に、そんな……!」
羞恥なのか怒りなのか分からない震え。
破れた装束を押さえるが、肩が露わになってしまう。
⸻
「名は?」
「答えると思うのか……?」
シオンは激しく睨みつけた。
だがキョウは苛立ちを隠さなかった。
「うるさい」
ビンタ。
続けざまに、みぞおちへ拳。
「っ――……!」
短い悲鳴とともに身体が折れ曲がる。
キョウは息を吐いた。
「……悪い。やりすぎた」
その一言は、彼自身の戸惑いを含んでいた。
鎖を解く。
自由になるとシオンは即座に短刀を抜いた。
「殺す!!」
その刃が振り下ろされる直前――
キョウの手が、空気を押し出すように動いた。
――ドンッ!!
衝撃波のような風圧が走り、シオンの身体は簡単に弾き飛ばされた。
廊下の壁に叩きつけられ、黒装束がさらに裂ける。
背中、肩、太もも――
隠しきれない白い肌があらわになってしまった。
「な……っ……!」
急いで布を掻き寄せるが、破れていて整わない。
羞恥で顔が熱く、まともにキョウを見られなかった。
だがキョウの方は――逆に、困惑した顔だった。
「……おい、大丈夫か。
そんな……破けた服で動くな」
視線を逸らし、片手で顔を覆うようにしていた。
シオンは息を呑む。
(殺しに来た相手に……そんな顔をするのか?)
⸻
「お前、名前は?」
「……シオンだ。
だが、殺すために来ただけ」
「マリーナの差し金か」
「そうだ。
私は……“影”だから」
そう言った瞬間、シオンの胸が痛んだ。
どれだけ自分を騙していたのかが、ようやく分かった。
村を燃やし、男を処刑し、貴族の欲望のために女も殺した。
泣く子供の頭を、マリーナは笑って踏みつけた。
『あなたの手なら染まってもいいのよ、シオン。
ねぇ、また殺してきなさい?』
腐敗した帝国。
膿を広げる皇帝。
その影として動く自分。
(もう……嫌だ)
⸻
「お前を殺す理由なんてない」
キョウの言葉が、冷え切った心に刺さった。
「殺さない……? どうして」
「お前の瞳は濁ってない。
お前は、腐ってない」
「…………っ」
破れた服の隙間から覗く肩が震えた。
羞恥でも恐怖でもない、聞いたことのない感情だった。
「……私は、これまで何人も殺したんだぞ」
「それでも。
お前は道具じゃない」
シオンは、初めて呼吸がうまくできなくなった。
⸻
「シオン。
この世界を、変える気はないか」
「……この世界を……?」
「男は鎖で縛られ、女は傲慢になり、帝国は腐っていく。
そんな世界を――壊したい」
シオンの胸が強く波打った。
彼女がずっと目を背けてきた叫びが、そこにあった。
「……キョウ。
私は、あなたを殺しに来たんだぞ」
「だが今は、お前に味方してほしい」
「…………」
シオンは目を閉じた。
皇帝の狂気。
マリーナの残虐。
焼き払われた村の匂い。
そして――
キョウの揺らがない眼差し。
心の奥で、ひとつ決壊した。
膝をつく。
「……分かった。
あなたに――刃を預ける」
破れた装束を握りしめる手は震えていたが、
その震えには、もう絶望はなかった。
⸻
翌晩、ヴァルティアのマリーナ邸が炎に包まれた。
悲鳴。
怒号。
崩れ落ちる天井。
マリーナは泥まみれで逃げ出しながら叫んだ。
「シオン……! この裏切り者がッ!!」
⸻
ヴァルティアの洋館。
キョウが振り返ると、シオンが五人の影を連れて現れた。
「仲間を連れてきた。
あなたの言う世界が本当か――確かめるために」
灯りの中、破れた服は新しいものに着替えられていたが、
あのときの羞恥と決意は、まだ瞳に残っていた。
影たちは静かに跪く。
女の支配が崩れ、
男の反逆が形を取り始める瞬間だった。
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