第6話

 エマとガルザの対峙が続いていた。

 甲冑が擦れる音、槍の柄を握る兵たちの荒い息遣い。

 庭には1000と1000の軍勢が向かい合い、

 張り詰めた空気が湿った霧のように漂っていた。


 その緊張を裂くように、

 豪奢な馬車の車輪が軋む音がゆっくりと響いた。


 白い羽飾りをつけた侍女たちが先導し、

 その背後には武装した私兵二百。

 帝都仕えの精鋭である証だ。


 馬車から降り立ったのは、

 絹のドレスを揺らしたひとりの女。


 貴族マリーナ。


 帝都で強い影響力を持つ三大貴族のひとつ――マリーナ家の当主であり、

 この地方を監督する帝国高官、そしてセレナの副長官でもある。


「なぜまだ始末していないのだ、エマ!」


 扇子で自分の顎を叩きながら、苛立ちを隠さない声を放つ。


「……セレナ長官が、人質に取られているのです」


 エマは唇を噛んだ。

 忠誠と義務のはざまで揺れる、苦い目をしている。


 マリーナは軽く笑った。


「それがどうしたの?」


 扇子が乾いた音を立てる。


「長官に何かあれば、私が任を引き継ぐだけのこと。

 帝国は何一つ困らないわ。むしろ整理がついて好都合でしょう?」


 エマの拳が震えた。

 彼女は忠誠の対象であるセレナを、傷つけることなどしたくない。

 だが、帝国貴族の命令には逆らえない。

 その立場が、胸を締めつける。


 庭全体の緊張が最高潮に達したそのとき。


 洋館の扉が重々しく開いた。


 セレナとキョウが、並んで姿を現した。


 セレナはキョウの腕を借りて歩いている。

 その姿は弱々しさではなく、どこか親密さにも映り、

 庭中の視線が凍りついた。


「セ、セレナ長官……!」


 エマの声には安堵と戸惑いが混じる。


 マリーナは露骨に顔をしかめた。


「……見苦しいわね。男などにもたれかかって」


 セレナはキョウの腕からそっと身を離し、

 短く息を吸って一歩前へ出る。


「武器を収めなさい」


 その声は静かだったが、

 庭全体に雷鳴のように響いた。


 千の兵が、一斉に動きを止める。

 エマもガルザも、命令に従わずにはいられなかった。


「こんな反乱分子を前に、何を──!」

 マリーナが扇子を叩きつけるように振る。


「エマ! あの男を斬り捨てなさい!

 長官が死のうが生きようが、帝国は回ります!」


 エマの表情が歪む。

 忠誠心と命令、

 その板挟みが胸を抉っていた。


 セレナはゆっくりとマリーナに向き直り、

 静かに告げた。


「……やめなさい」


 その声はさほど大きくない。

 だが空気を震わせた。


 セレナはキョウへ一度だけ視線を向け、

 すぐに前へ向き直る。


「私はこの男に問いました。何を望むのか、と」


 キョウは黙って立っていた。

 恐怖、決意、その両方を宿した瞳で。


 セレナは続ける。


「彼は言いました。

 自分を追い詰めた女に復讐したい、と。

 そして──男女が対等に生きられる世界がほしい、と」


 その言葉を口にしながら、

 セレナの胸の奥でざわめくものがあった。


 復讐――理解しきれない。

 だが、男女が対等な世界。

 その言葉の奥に宿る強さが、胸を揺らした。


 何百年も女が支配してきたこの世界。

 争いは絶えず、男は屈し、

 帝国は腐敗の極みにある。


 そして現皇帝は――

 人の上に立つ器ではない。


 本当に正しいのは今の世界なのか?


 キョウの瞳を見た時、

 その疑問が胸の奥で形となった。


「私は、彼の言葉に賭けてみる価値があると思いました」


 セレナは宣言した。


「よって、この地の軍事と行政の権限の一部を──キョウに委ねます」


 庭が凍りつく。


 マリーナは絶句し、

 次いで怒号を上げた。


「正気ですか!?

 帝国の任命なくして権限委譲など認められません!

 あなたは越権を……いえ、反逆をしているのですよ、セレナ長官!!」


 セレナは静かに指を上げた。

 そこに白い光が集まり始める。


「反逆者の処罰は、長官の権限内よ」


「な──」


 返す言葉は、光矢の音に掻き消された。


 光の矢が、マリーナ私兵の足元を正確に穿つ。

 悲鳴が上がり、血が飛び散るが、誰も死んでいない。


 だが――

 セレナが“本気を出せばどうなるか”を、

 全員が理解した。


 空気が震え、

 魔力の風が庭を吹き抜けた。


 マリーナは青ざめた。


「……いいでしょう。

 帝都で審議させていただきます。

 あなたの賭けが愚行かどうかも、ね」


 彼女は扇子を握りしめ、私兵を連れて去っていく。


 喧騒が遠ざかり、

 庭には重い沈黙が落ちた。


 セレナはようやく息を吐き、キョウへ向き直る。


「……あなたの言う世界が正しいかどうか、私には分かりません」


 セレナの声は素直だった。


「ですが、今の世界が正しいとも言い切れなくなりました。

 だからこれは、私の賭けです」


 月光が二人を照らす。


「キョウ。

 あなたの理想が偽りなら、私があなたを討ちます。

 本物なら──この世界は変わるでしょう」


 キョウは息を呑む。

 逃げ道はもうない。


 千の兵が見守る中、

 セレナは問いを投げた。


「……さあ、キョウ。

 あなたは、何を選びますか」


 キョウは喉の渇きを覚えながら、

 それでも静かに一歩、前へ踏み出した。

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