第4話
キョウが寝室を飛び出していったあと、
セレナはしばらくその場から動けなかった。
乱れた寝具。
散らばった書類。
まだ揺れているカーテン。
胸の奥が、妙な音を立てていた。
――どうして、私は殺されなかった?
あの瞬間、本気で斬るつもりだった。
光矢も、拘束の魔も、すべては侵入者を排除するためのものだ。
キョウはそれら全てを払いのけ、最後は自分を壁に叩きつけるほどの力を見せた。
それなのに。
頬に触れたあの手は、なぜあんなにも優しかったのか。
震える指先で、自分の頬に触れる。
ほんのり熱が残っている。
――私は……何を感じている?
羞恥か、怒りか、それとも恐怖か。
それすら判然としない混乱が、胸を締めつけた。
この世界で、男は道具だ。
労働力であり、繁殖のための資源であり、首輪で管理する存在。
女が男に“心”を寄せるなど、あってはならない。
何百年も、そうして続いてきた。
だからこそ、セレナは理解できない。
――どうして私は、あの男を思い出している?
あの瞳。
感情の深さを湛えた、異質な光。
この世界の男たちが決して持たぬはずの“意思”の気配。
胸の奥が、ぶるりと震えた。
◆
翌朝、ヴァルティア城は騒然としていた。
「衛兵二名、未だ昏睡状態!」
「牢の鍵は力ずくで破られています!」
「長官の寝室に侵入者――長官はご無事なのか?」
ざわめきが絶えず、廊下には足音が響き続ける。
セレナは乱れを悟られぬよう冷徹に命じた。
「手配書を作成しろ。街中に貼り出すのだ。
だが命を奪うな。捕縛だけでよい」
しかし心の奥は、昨夜からずっとざわついていた。
――私は、捕えたいわけではない。
――ただ……あれが何者なのか知りたいだけ。
この世界では男に“知性を問う”ことすら異常だった。
だからセレナ自身、自分が何を求めているのか理解できなかった。
◆
手配書が貼られ、城下町はすぐに緊張に包まれた。
キョウはフードを深くかぶりながら裏路地を歩いた。
奴隷の男たちが荷車を引き、女商人に叩かれ、首輪を鳴らしながら労働している。
「……見ろよ。あいつ……」
「手配書の似顔絵……」
「関わるな、女の衛兵に連れて行かれるぞ……」
男たちのひそかな怯えと羨望が、肌に刺さるようだった。
――ここは俺がいた世界じゃない。
キョウは城壁の外へ足を向けた。
そこには先日の戦場で散らばった男たちが、まだ野営を続けていた。
テントの合間を歩くと、徐々にざわめきが広がる。
「あれは……」
「術にかからなかった男……」
「敵将をねじ伏せた化け物か……」
その中心に、エマの副官であるガルザが立っていた。
ガルザは丸めた手配書を握りしめていた。
懸賞金の額は男にとっては破格だった。
――こいつを捕まえれば、金が入る。
――だが……それで俺の首輪は外れるのか?
答えは、否だ。
いくら功績を挙げようと、男の立場は絶対に変わらない。
金を得ても、ほんの一時の自由が買えるだけ。
またすぐ女の支配の中に戻る。
だが、戦場で見たキョウの姿は――違った。
術に狂わず。
冷静に斬り、読み、動き。
そして敵将すら地に伏せた。
ガルザの胸の奥が熱くなる。
――もし、この男が前に立つなら……
――俺たちは変われるかもしれない。
懸賞金と解放。
どちらが価値ある未来か、答えは明白だった。
ガルザはゆっくりとキョウに近づく。
そして、その場に膝をついた。
「……キョウ殿。
どうか我らをお導きいただきたい」
その声は震えていたが、迷いはなかった。
背後の千の男たちが、一斉に地面へ膝をつく。
風が地を這うような音が響いた。
キョウは呆然とした。
「導く? 俺が……?」
だが胸の奥で、昨夜触れたセレナの頬が思い浮かぶ。
あの瞳。
あの混乱と怒りと、説明できない寂しさ。
――逃げ続けた中年サラリーマンの人生は、もう終わったのだ。
キョウは、ゆっくりと頷いた。
「……わかった。やってみるよ」
ガルザは深く頭を垂れ、男たちは歓声をあげた。
女が支配する世界に、
小さく、しかし確かな“反逆”の炎が灯った瞬間だった。
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