第3話

 牢は想像していたような汚れた地下牢ではなかった。


 石壁は薄暗く湿っているが、妙に清潔だ。

 藁ではなく厚い布が敷かれ、埃や虫もほとんどいない。

 日に二度、温いスープと固いパンが与えられ、飢える心配もなかった。


 閉じ込められたという感覚よりも――

 何かを“観察されている”感覚だけが、静かに背中へまとわりついていた。


 そして、その環境が皮肉にもキョウの思考を研ぎ澄ませていく。


(……会いたい)


 最初はわずかな胸のざわめきだった。

 だが日に日に膨らみ、堰き止められなくなる。


 銀髪。

 冷静な声。

 術を放つときの指の線。

 そして――光が霧散したとき、驚きに揺れた瞳。


 あの瞬間だけは、

 セレナが“ただの女”としてそこにいた。


 その揺れが忘れられない。


(会いたい。……もう一度)


 前世では縁がなかった。

 女に触れる経験などほとんどなく、

 恋も、嫉妬も、渇望も遠い世界の出来事だった。


 だが、この世界に来てから――

 胸の奥で燃えるような感情が、日ごとに強くなっていく。


 ある夜、その衝動は抑えられなくなった。


 鉄格子に触れる。

 軽く握るだけで、蝶番が悲鳴を上げ、一瞬で外れた。


(……出られる)


 驚きより先に、妙な納得があった。


 廊下の衛兵は二名。

 どちらも女だ。


 キョウは足音を殺し、背後から一人の首に手を添える。

 軽く押すだけで全身の力が抜け、静かに倒れた。


 二人目も同様。

 一切の音を立てずに眠らせた。


 身体は軽く、影のように動ける。

 それが恐ろしくもあり、自然すぎてもあった。


 月明かりを頼りに、城の奥へ進む。

 気づけば、廊下の先に豪奢な扉が見えた。


 装飾の繊細さ。

 護衛の多さ。

 位置関係。


(……ここがセレナの部屋だ)


 心臓がひどく跳ねた。


 扉を押すと、驚くほど簡単に開いた。


 中は淡い灯りが揺れ、

 清らかな香草と、微かな女性の体温が混ざった空気が漂っていた。


 寝台に、セレナが眠っていた。


 銀の髪が枕に広がり、

 胸元のレースが静かに上下し、

 薄布のネグリジェが身体の曲線を描いている。


 その姿は、

 この間みた長官とはまるで別人のようで――

 どこか危うく、息を呑むほど美しかった。


(……夜這いみたいじゃないか、これ)


 そんな言葉が頭をよぎった瞬間。


 セレナのまつ毛が震えた。


 次の瞬間、彼女は跳ね起きた。


「っ……無礼者!! どうやって侵入したの! 衛兵は何を――!」


 声は震え、完全に狼狽していた。

 乱れた呼吸のせいで、胸元の布がわずかに揺れる。


 セレナは手を翳し、光矢を放った。

 眩しい閃光が一直線に飛ぶ。


 キョウは腕を軽く振る。

 光矢は触れた瞬間に霧散した。


「……嘘……!」


 その声には怒りよりも恐怖に近い震えが混ざっていた。


 セレナは迷いなく壁際の剣を取る。

 防御姿勢は完璧——

 だが、寝間着の裾から覗く素肌が、かすかに震えていた。


 キョウが踏み込むと、

 空気が押し出されるように波打った。


 拳を振る。


 風が走り、剣が弾き飛ぶ。


「きゃ……!」


 衝撃でセレナの身体が宙を舞い、

 背中から壁へ叩きつけられた。


 息が漏れ、崩れ落ちる。


 寝間着が少しずれ、

 素肌の白さが月光に照らされた。


(……しまった……!)


 キョウは凍りついた。


 一目惚れした相手を傷つけた。

 それが、胸の奥を鋭く貫いた。


「だ、大丈夫か……」


 近づき、震える指で頬に触れる。

 白く、熱く、思ったより柔らかかった。


 セレナは痛みに眉を寄せながら、

 その触れ方にわずかに目を見張った。


 キョウははっとして飛び退く。

 そのまま逃げるように部屋を飛び出した。


 残されたセレナは、床に手をついたまま息を整えられずにいた。


 怒り。

 屈辱。

 恐怖。

 混乱。


 そして――説明のつかない、胸の奥のざわめき。


(……なぜ……あの男の瞳は……あんなに、綺麗だったの……?)


(……なぜ、あんなに……悲しそうなの……?)


 自分でも理解できない感情が、

 夜の静寂の中で、胸の内側をじわりと満たしていった。

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