第2話

 戦場の臭いをまだ肺の奥に残したまま、俺はエマに腕をつかまれていた。


 大きく見開かれた瞳には警戒と、説明のつかない興味が混ざっている。

 彼女の手は細いが、握力は異様に強い。皮手袋越しに骨ばった指の形がわかるほどだった。


 エマは背が高い。

 短く切りそろえた黒髪が風に揺れ、戦場の煤でわずかに汚れているのに、

 どこか清潔感すらまとっていた。


 無駄がなく絞られた身体。

 腰から太腿にかけて走る筋肉は女性的というより“戦士”のそれで、

 そのくせ、肩から首元にかけてはやわらかい曲線が残っている。


 精悍で、凛としていて――少し男勝り。

 それでいて、横顔のラインは妙に色気がある。


「ついてこい。指揮官の命令だ」


 エマは振り返りざまに言い、歩く速度を緩めない。


 城下へ向かう街道は瓦礫と血の線がまだ残っていたが、

 彼女の足取りは乱れず、むしろ真っ直ぐだった。


 やがて、街が視界に広がる。


 だが、違和感があった。


 通りを行き交う者は――ほとんどすべて女だった。


 鎧を着た騎士。荷物を担ぐ労働者。商人。

 すれ違う人々の声、怒鳴り声、笑い声――どれも女。


 まれに男がいたが、

 荷を引かされ、殴られ、命令され、完全に劣位の立場で扱われていた。


(……女が支配する国、か)


 街の中心へ向かうほど、その対比は濃くなっていく。


 エマはそんな俺の視線を鋭く察し、

 低い声で釘を刺した。


「物珍しそうに見るな。ここでは男は労働力。女が守り、統べる」


 淡々と告げる口調には、当然という重みがあった。


 街の中心部に近い場所――そこに、巨大な石造りの門が現れた。


 門の中央には黒い竜の紋章。

 翼を広げた姿が彫り込まれ、その影は夕陽に赤く染まっていた。


「ここがヴァルティア城だ」


 エマはそう言い、俺の腕を引いて門をくぐる。


 中庭に入ると、そこもまた女の兵士ばかりだった。

 槍を構える姿、剣を磨く仕草、それらがあまりにも整然としていて、

 規律の強さが一目で分かる。


 洋館の前に立つと、エマが少し整えた声で言った。


「これから会うのは、この地域を統治する長官――セレナ様だ。

 粗相をすれば首が飛ぶ。……気を引き締めろ」


 普段はあまり感情を見せないエマが、

 そこだけはほんの少し緊張をにじませた。


 扉が開く。


 空気が変わった。


 銀色の長髪が光を受け、ゆっくりと揺れる。

 静かで澄んだ佇まい。

 凍てつくわけではないのに、凛とした冷気をまとった女性。


 セレナ。


 その容姿は、思わず息を呑むほど整っていた。


 透き通るような白い肌。

 知性を感じる深い青の瞳。

 均整のとれた身体つきは、兵でも貴族でもない、統べる者のそれだった。


 玲とはまったく違う。


 冷酷さではなく、誇りと静かな威厳を持つ“美しさ”だった。


(……綺麗だ)


 その一瞬、視線が吸い寄せられていた。


 首筋、胸元のライン、その向こうの細い腰。

 いやらしさではなく、ただ“見てしまった”。


 その瞬間――


「キョウ! 無礼だ!」


 エマが強く俺の肩を引いた。

 掴む手が震えている。


「長官を舐めるように見るなど――以後、許されん!」


「……すまない、そういうつもりじゃ――」


「黙れ。つもりなど関係ない」


 エマは本気で怒っていた。

 ここでは“男が女を見る”という行為そのものが厳重に咎められるのだ。


 セレナは怒らず、ただ静かに俺を見ていた。

 だが、そのまなざしはわずかに揺れている。


 エマが戦場の報告をし、

 セレナは試すように手を前に出した。


 光が生まれる。


 一瞬、空気が震え――

 光矢が走った。


 俺の腕が反射的に動く。

 光矢は触れた瞬間に霧散し、

 セレナの瞳が大きく揺れた。


 その動揺が、

 なぜか俺の胸の奥にまで、伝わってくる。


 次の術。

 光の輪がいくつも飛ぶ。


 触れた瞬間――消えた。


 セレナがほんの一歩、後ずさる。


 静かな長官の、あまりに人間的な“揺れ”。


 その気配が、皮膚を撫でるように伝わってきた。

 息が浅くなり、胸が妙に熱くなる。


「……もういい。下がりなさい」


 声は先ほどのどおり静かだった。

 だがその音色には明らかな乱れがあった。


 セレナは踵を返し、銀髪を揺らして奥へと消えた。


 エマも衛兵も、誰も声を出せない。


 俺はそのまま地下へ連れて行かれ、

 薄暗い牢に押し込まれた。


 石壁。鉄格子。湿った空気。


 目を閉じれば、

 セレナの瞳が浮かんだ。


 玲とは違う、美しい瞳。

 俺を見て、初めて揺れたその目。


 そして――

 胸の奥に芽生えた、奇妙な衝動。


(……もう一度、会いたい)


 それは復讐とは別の、もっと獰猛で熱い衝動だった。

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