パワハラ上司に殺された中年サラリーマンは異世界で国をつくる

越後⭐︎ドラゴン

第1話

 蛍光灯の色は、夜が深まるほど青白く冷たくなる。

 人の会話が消えたオフィスは、空調の低い唸りだけが漂い、

 どこか遺体安置所のような温度を帯びていた。


 パソコンの排熱と紙のインクの匂いが、

 静まり返った室内に薄く沈殿している。


 篠原匡、四十八歳。

 平凡。どこにでもいる中年男。

 結婚歴なし。趣味も特にない。


 ただ生きるために働き、

 ただ時間を消費して生きてきた。


 ――本来なら、それでよかった。


 だが、この一年だけは違った。


「まだいたの? 本当に使えないわね、中年って」


 九条玲。

 俺の直属の上司であり、一年間を地獄に変え続けた女だ。


 整った顔立ち。

 艶のある黒髪をまとめ、白いブラウスに黒のタイトスカート。

 雑誌のモデルのように美しいのに、

 その美しさは常に、棘と見下しで満たされていた。


「こんな資料、意味が分からないのよ。ゼロからやり直し」


 書類が顔に叩きつけられた。

 紙の角が頬を裂き、鈍い痛みが広がる。


 誰も助けない。

 誰も目を合わせない。


 “弱い方が悪い”

 そんな空気が染みついた職場だった。


 玲は、俺という人間をあらゆる角度から否定した。


「あなたみたいな独身中年男、ほんと無理。

 存在が不快なの。生理的にね」


 淡々とした声で放たれる言葉ほど、

 人間を傷つけるものはない。


 そして――その夜だった。


 残っていたのは俺と玲だけ。


 冷えたフロアに、ヒールの音が響く。


 玲が近づき、赤い唇をわずかに歪めた。


「ねぇ。最近、私をじろじろ見るでしょう? 気持ち悪いのよ」


「……そんなつもりは――」


「そうやって言い訳ばかり」


 玲がさらに一歩踏み込む。

 距離が近い。

 香水の甘さが、鼻先を掠めた。


 俺は椅子に押しやられ、逃げ場を失った。


「中年のくせに……ほんと、無理」


 言葉を返すより早く、玲は倒れ込んだ。


「きゃああっ! 何をするの! 助けてっ!」


 悲鳴。

 次の瞬間、警備員が駆け込んできて、

 俺の腕をねじ上げた。


「違う、俺は触っていない! 勝手に――」


 必死に振り払おうとして、身体がよろめいた。


 机の角が迫る。


 ――ガンッ。


 鈍い音が頭蓋に響き、

 世界が暗く沈んだ。


 最後に見たのは、

 泣き崩れるふりをした玲の——

 勝ち誇った、歪んだ笑みだった。


 ◇


 目を開けた。


 冷たい空。

 灰色の濁った雲が空を覆い、太陽は影だけ。

 昼かどうかすら曖昧だった。


 風が土埃を巻き上げ、血の匂いが混ざっている。


 ここはオフィスではない。

 ここは――戦場だった。


 革鎧。

 左腕には傷だらけの木盾。

 右手には短剣。

 首には冷たい金属の輪。


 身体が、異様に軽い――

 疲労も年齢も感じない。


「前へ――進めッ!!」


 丘の上の女指揮官が叫ぶと、

 角笛が戦場全体を震わせた。


 俺の足は、自分の意思とは無関係に動き出す。

 前へ。前へ。


 前方には敵軍。

 槍、盾、鉄。

 矢が空を裂き、男たちが倒れてゆく。


 隣の兵士の喉が射抜かれ、

 生温かい血飛沫が頬に散った。


 なのに。


 恐怖がない。


 身体は熱く、軽く、鋭い。


 盾がぶつかる。

 本来なら押し負けるはずの衝撃を、逆に押し返す。


 剣を振り抜くと、

 敵の盾ごと男が吹き飛んだ。


 軽い。

 強い。

 筋肉が若返ったどころではない。


 内側から湧き上がる熱と活力。

 戦うほどに高まる昂揚。


 ――なんだこれは。


 その時、首輪が光った。


「うああああああ!!」


 周囲の男たちが狂ったように咆哮し、

 痛覚を失って突進していく。


 狂化――バフのようなものだ。


 だが、俺だけは正気のままだった。


 呼吸も一定。

 視界も澄んでいる。


 狂化していないのに、

 狂化兵よりずっと強い。


 敵陣奥。

 白銀の鎧、黒いマント。

 鋭い瞳を持つ女騎士が俺を見つめていた。


 泥と血に汚れた顔で、

 ただ一つの感情を浮かべていた。


 理解不能。


「……なんだ、こいつは」


 俺は距離を詰めた。

 槍をかわし、馬を引き倒し、

 女騎士を地面に叩きつける。


 兜が転がり、

 乱れた髪が俺の指先に触れた。


 汗の匂い。

 息の熱。


 女騎士は息を呑んだ。

 その吐息が、頬に触れた。


 一瞬だけ、

 戦場の音が遠のく。


 なぜだ。

 なぜ、こんな状況で――


 後方から狂化兵が突っ込み、

 俺は女から引き剥がされた。


 女騎士は群がる兵に飲み込まれ、

 悲鳴はすぐに肉の潰れる音に変わった。


 戦場が静まっていく。

 血と泥と鉄の匂いが濃くなる。


 丘の上から、

 先ほどの女指揮官がゆっくりと歩いてきた。


 鎧の金属音が、

 死の静寂に響く。


 彼女は俺を見つめ、

 短く問うた。


「お前……何者だ?」


 鋭い問いに、

 自分の中に残る唯一の名が浮かんだ。


「……キョウだ」


 玲に殺された中年サラリーマンは、

 狂化の戦場でただひとり正気を保ち、

 異様な力を振るう存在として、

 女が支配する国の未来を――

 大きく揺るがしていくことになる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る