第2話 自費出版詐欺

「自費出版社系詐欺事件」

 というのが、今から約20年くらい前にあり、かなり大きな問題となったものだった。

 すでに、時間もかなり過ぎているということから、すでに人々の記憶から殺傷されたという人も結構いるに違いない。

 その寺家というのは、原因としては、いろいろなものが考えられるであろうが、他の詐欺と同じで、

「どうせできっこないが、あわやくば」

 と思っている人が多かったということが要因の一つだったのではないだろうか?

 そもそも、小説の執筆というのは、趣味としても、やっている人は珍しいであろう。しかし、よくよく考えていれば、

「これほど、お金のかからない趣味というのはない」

 といってもいいのではないだろうか。

 普通趣味といえば、

「ゴルフ、スキーなどのスポーツ」

 であったり、

「園芸や菜園など」

 であったり、

「旅行など」

 のように、そもそもに、道具が必要であったり、場所を借りたりするのにもお金がかかるということであったり、移動するのにもお金がかかるということであった。

 しかし、小説の執筆というのは、

「筆記具と用紙、あるいは、パソコン一台」

 さえあれば、場所は、机といすさえあればできるということなので、道具代も、場所代もいらない。

 家でやれば、移動費もただということで、確かに、

「これ以上安上がりな趣味はない」

 といえるだろう。

 もちろん、本気でプロを目指したり、コンクールの入賞をねらったりするには、教材うあ、教室に通うなどしてお金がかかることもあるだろうが、あくまでも、趣味として楽しむだけということであれば、そこまでお金がかかるということもない。

 それを思えば、

「小説の執筆は、どれほどハードルの高い趣味ではない」

 といえるだろう。

 しかし、どうしても、小説を書くという趣味の人は少ない。もっとも、

「趣味で小説を書いています」

 と公言する人が少ないからなのか、実際には、なかなか聞かないし、実際にパソコンを広げて、街のカフェなどで書いている人の姿を見ることはない。

 昔であれば、有名プロ作家ともなれば、

「田舎の温泉宿を定宿にしていて、そこで、アイデアを練りながら書いている」

 などという姿は、今では見ることもできないだろう。

 実際に、昔にも、そんな作家がたくさんいたとは思えない。

 なぜなら、

「小説家というと、出版社の担当の目が光っていて、締め切り近くになると、編集者が哲也で張り付いている」

 などというシーンをマンガやドラマでよく見たりしていた。

 そんな状況で、そう簡単に、自宅を離れることができる人は、よほど日頃から締め切りを守っている作家だったり、有名作家で、出版社の立場よりも、作家の方が立場が上というほどの実力のある作家しかいないだろう。

 そうなると、そんな作家がそう簡単にいるはずもない。

 それを考えると、

「作家も出版社も、それぞれに辛いところだ」

 ということになるだろう。

 要するに、小説家というのは、

「アマチュアのうちが華だ」

 ということになる。

 それでも、小説を書いている人の中には、

「いずれはプロに」

 と考えている人がほとんどであろう。

 そもそも、

「小説を書きたい」

 と感じた時、プロというものを意識しなかった人というのは、本当にいるのだろうか?

 誰もが、

「プロを目指す」

 ということで、あきらめずに、

「最後まで書き上げる」

 という、一番最初で最大ともいえる難関を乗り越えたのは、少なくとも、

「プロになりたい」

 あるいは、

「1冊でもいいから、自分の作品を出版したい」

 という人なのではないだろうか?

 そのためには、自費出版社系が現れるまでは、

「有名出版社が公募する新人賞や賞に入賞する」

 ということと、

「自作の小説の持ち込みを、直接出版社にかける」

 というものである。

 前者が、一番オーソドックスなもので、

「趣味の段階から、小説家になりたい」

 と考えた人が、誰もが考えることであろう。

 応募資格は、応募要項に書かれていることさえクリアできていればいいというわけである。

「年齢、性別、職業」

 などに制限があるというわけではなく、誰もが応募できるものである。

 もちろん、

「日本語ができない外国人」

 でもない限り、募集要項に当てはまらないということはない。

 しかし、実際の文法であったり、一定の作法が身についていない作品は、最初の段階でふるいにかけられるというのは当たり前のことである。いわゆる、

「応募に値しない作品」

 と呼ばれるものである。

 その後には、

「部収容考に沿っていないもの。例えば、ジャンルが微妙に違っているもの。文字数制限をオーバーしているもの、逆に、短すぎるもの」

 なども、最初にはじかれるというものだ。

 実際に、ここまでで、残りが3割くらいしか残らないというものも少なくないということであった。

 そこからが、本当の審査というもので、実際に、作品の優劣を判定するというのは、最終選考に残った作品ということで、実際には、そのあたりの詳しい選考までは分からない。

 しかし、中間発砲ということで、

「最終選考の終わった時点で、その途中の通過者は色分けなどで分かる」

 という仕掛けになっているということで、その発表は、出版社が出している月間雑誌での発表になっているということだ。

 そして、最終選考になると、初めて作品に対しての一つ一つの評価が書かれているというものだ。

 だから、作品というものに対して、選考委員がちゃんと読んでいるかどうかは、

「最終選考までいかないと、専門家に読まれることはない」

 ということを意味している。

 そして、その選考委員というのも、

「自分の仕事以外の、副業でやっている」

 ということを考えると、

「どこまで真剣なものなのか」

 ということになるだろう。

 しかも、入選すれば、確かに、作家としての、スタートラインに立てたと言えるのかもしれないが、それは、作家側の考えであり、出版社側からは、

「やっと、スタートラインに立つ権利を持った人間が現れた」

 ということである。

 出版社とすれば、

「問題は樹種策ではなく、次回作だ」

 ということである。

 受賞作というのは、基本的に、

「ジャンルだけを決めておいて、その内容は基本的に自由である」

 ということだ。

 確かに、

「ジャンルは決まっていて、後は自由」

 というのは、ある意味、

「一番難しいことだ」

 といえるかもしれない。

 しかし、実際には、その逆ということで、

「入選したのは、プロの先生の好きな小説として嵌った」

 ということだけであろう。

 ある意味、

「選考委員との相性がよかった」

 ということであり、作家として、これからやっていけるかどうかというのは、まったくの未知数ということである。

 受賞作を、担当がどう感じたのかも、出版社が何を求めているのかということは別であり、あくまでも、編集者が編集会議で、

「どういう作品を欲しがっているか?」

 ということで、その内容が、作家にとって、得意か得意でないかというのは、二の次である。

 出版社とすれば、

「この人ができないといえば、他の人に書かせるだけ」

 ということであるが、納品日という締め切りに制限があるということになるので、執筆にそんなに時間はかけられないということになる。

 そんな編集部の意向も知らずに、

「自分は作家の仲間入りだ」

 なるほと思っていると、本当にスタートラインに立つこともなく、小説家になるということを断念しなければいけないのであろう。

 それが、作家というものである。

 そして、もう一つの、

「原稿持ち込み」

 というもの。

 こちらは、さらにたちが悪い。

 新人賞などの場合は、その透明性が疑わしいということで、グレーな部分が多く、なかなか評価が分からないというところがあるが、持ち込みとなると、もっとひどい現状が待っているということになるのだ。

 そもそも、出版社にやってきて、見てくれる人が誰であれ、その人は本業を持っていて、それだけで大変なのだ。

 一般社員にだって、担当作家がいて、その作家に対して、相談を受けたり、企画を考えたり、小説の内容を、最初に審議したものと変わりはないかなどのチェックをしたり、さらには、印刷に回して、本にする手配までしなければいけない。

 ときには、作家の家に張り付いて、原稿を促すなどという、テレビなどでよく見ることもしなければいけない。

 そんな人が、何を好き好んで、自分お仕事でもない人の原稿を見なければいけないというのか?

 それこそ、無駄な時間ということになるだろう。

 当然、残業手当が出るわけでもない。まったくのボランティアである。相手にされないのも当然だ。

 となると、編集長や、所長クラスの人が見るということになるだろうが、彼らだって、責任者としての立場から、門前払いもできないということから、一応は相手をするということになるだろう。

 もっとも、それくらいの仕事もありということからなのかもしれないが、とりあえずは、面談くらいはする。話は聞いてあげても、すぐに、

「しょうもない話を聞かされる」

 と思うことだろう。

 それこそ、毎日のように、まるで、テープレコーダーを聞いているように、ほとんど同じセリフを吐かれるのは、正直うんざりである。早く追っ払いたいと思いながらも、とりあえずは、聞いているふりをする。聞いている方としては、地獄の時間なのかもしれない。

 そうなると、一応は受け取った原稿であるが、見るわけもない。君箱にポイで終わりということになる。

 それが、持ち込み原稿の運命ということだ。

 作家の方は、一応は、渡したことで満足はするかもしれないが、それがどうなるのかということは分かっているのだろうか?

 手元に原稿を残していなければ、その原稿の運命はそこで終わりということであろう。さすがに、持ち込む方も、南部かコピーしたり、プリントアウトはしていて、他のしゃっパン社にも、持ち込んでいることであろう。

 それこそ、

「就活で、複数の会社を受けるというのと同じ理屈ということである。

 そういう意味では、持ち込み原稿というのは、どっちもどっちなのかもしれない。

「どこかにでも、引っかかってくれれば御の字」

 と、作家は思っているだろうが、万に一つもありえないということをわかっているというのだろうか?

 それを考えると、持ち込み原稿ほど、無駄なことはないともいえるだろう。

 そうなると、

「素人作家が分断デビューなどありえない」

 ということになる。

 それでも、新人賞を獲得すれば、登竜門を合格したということで、その道は開けることになるだろう。

 作家としても、

「認められた」

 ということで有頂天になるに違いない。

 そこで勘違いする人が多いというのは、

「これが、スタートラインに立つ権利を得た」

 というだけで、ゴールどころか、スタートラインにも立っていないのだ。

 中には、そこで満足してしまい、

「燃え尽き症候群」

 のようになってしまうことで、

「受賞作が、自分の最高傑作ということになるので、っこれ以上の作品を書くことはできない」

 という人も多いだろう。

 しかし、出版社は、

「あくまでも、次回作で評価する」

 ということだ。

 つまりは、

「次回作の出来次第が、スタートラインということになる」

 ということなのだ。

 だから、次回作への期待の大きさがプレッシャーとなり、中には逃げ出す人もいるという。しかし、中には、新人賞を受賞したということから、

「自分はプロ作家としてデビューするんだ」

 ということで、それまで働いていた会社を辞めてしまうという人もいるだろう。

 しかし、実際に、次回作へのプレッシャーに負けてしまった人というのは、

「自分ではしごを外した」

 ということで、自分から自分を置き去りにしてしまった格好になる。

 そのせいで、

「今さら、就職するという気にもならない」

 ということで、しかも、

「小説家としてやっていくということも自信がなくなった」

 と考えると、

「とりあえず、文筆業をやりながら、アルバイトをして生活をしていく」

 という人生を選ぶしかないということである。

 これが、

「作家を目指して、アルバイトをしている」

 という人に比べれば、数倍きつい人生ということであろう。

 実際には、目指すべき作家への道の扉を開きかけ、一度はその先を垣間見た人間としてみれば、

「目標を失ったのに、目標をまた持たなければいけない人生を選ぶしかない今の自分というもの」

 それが、この先に待っているものだと考えると、これ以上苦しい人生はないとおもうことであろう。

 そこまでいくと、さすがに辛いが、詐欺集団というのは、

「出版業界のグレーな部分」

 というものに目を付けた。

 時代とすれば、

「バブル崩壊から、少し落ち着いてきた時代」

 ということで、バブル期のような、

「24時間戦えますか?」

 という、モーレツ社員などといわれた時代ではない。

 あの頃と違い、会社も、

「給料は出せない」

 ということから、事業拡大も慎重になっていることから、

「堅い商売」

 ということになるだろう。

 だから、正社員以外の、

「非正規雇用」

 として、派遣社員などには、誰にでもできる仕事を任せることにして、正社員には、

「その責任と指導を担ってもらう」

 ということで、責任としては大きいが、会社での拘束時間は、ある程度決まっているのであった。

 そんな、

「ストレスばかりが残る仕事」

 というものをしていると、自分の時間をいかに使うかということが、問題となってくるだろう。

 ストレス発散ということがまずは最優先ということになる。

 そのために、

「趣味に走る」

 という人が増えて、前述のように、

「カネがかからない趣味」

 ということで、それまでは、あまり注目されなかった趣味であるが、バブル崩壊の混乱が、少し収まってきて、精神的に余裕もできてきた人たちには、

「お金のかからない趣味」

 というのは、重宝され、注目されるということだったのだろう。

 しかし、

「小説を書く」

 ということに抵抗がある人も結構いる。

「プロになる」

 ということを目指す人は結構いるだろうが、心の中で、

「そんなことできるわけはない」

 とあきらめている人もほとんどだろう。

 しかし、

「小説を書いている」

 ということで、高尚な趣味ということになり、出会いやまわりからの目が変わってくることを望むという人もいるに違いない。

 そういう意味で、昔ほどのハードルの高い趣味ではないということになるのだろうが、そこで詐欺連中が目を付けたのが、

「プロ作家になるための、もう一つの道」

 というものであった。

「新人賞に合格しても、なかなか目が出ない」

 あるいは、

「持ち込みなど、ゴミ箱にポイで終わり」

 ということだ。

 そこで、彼らが考えたのは、

「何が、小説家になるための一番のネックになっていることなのか?」

 ということである。

 その一つが、

「透明性のなさ」

 ということであろう。

 その一番の考え方として言えることは、

「誰も評価をしてくれない」

 ということである。

 その評価というのは、

「合否」

 というだけのことではなく、

「何がよくて何が悪いのか?」

 という作品に対しての評価である。

 せめて、

「不合格でも、どのレベルなのか?」

 つまりは、

「合格点が、70点以上だとすれば、69点なのか? それとも、30点くらいなのか?」

 ということを、説明文をつけて示してくれれば、自分でも納得がいくだろう。

 もし、

「69点だというのであれば、もう少し頑張ればという励みになるし、30点だとしても、悪いところが分かれば、そこを重点的に分析して、全体を見直す」

 ということも考えられるというものだ。

 あくまでも、

「選考内容に関しては、お答えできません」

 というだけでは、納得がいくわけもない。

 もちろん、それはそうだろう。

 最終選考に残らないと、プロ作家の目には留まらないのだから、そこまでの批評などというのを、いちいちかけるわけもない。それまでに審査する人も、いちいち文章に残しているわけではないだろうからである。

 そこで、詐欺出版社が考えたのは、原稿を送ってくれた人に対して、批評をしてあげるということであった。それにより、送付してきた人に、まずは、信頼してもらえる基礎ができるということだからだ。

 それこそ、

「営業の極意」

 といってもいいのではないだろうか?

「営業というものは、最初の数回は営業活動をせずに、まずは、自分を知ってもらうことから始める」

 というではないか。

「まずは人間関係」

 というところから始まるということである。

 だから、原稿を送ってもらうためには、宣伝というものが必要だというこおとで、新聞、雑誌、さらには、電車の中づり広告などに、大々的に原稿募集の宣伝をうつということである。

「原稿をお送りください」

 であったり、

「本を出しませんか?」

 という内容で書いておけば、少なくとも、趣味で小説を書いている人や、密かに、プロ作家を目指しているという人の目には、飛び込んでくることだろう。

 内容を見てみると、

「あなたの原稿をこちらで評価し、ランク付けをして、出版に対してのアドバイスをします」

 と書いてあるではないか。

 それを見て、少なくとも興味を持った人は

「原稿を送ってみよう」

 ということになるだろう。

 出版社の方では、それまでに、スタッフは揃えていることだろう。

 たくさんの小説家が、原稿を送ってくると踏んでいるからだ。

 そのスタッフの中には、

「元出版社」

 という人も多いかもしれない。

 バブル崩壊によって、リストラされた人もたくさんいるだろう。

 ただ、それ以上に、巷に溢れていた、

「小説家志望で、小説家になりかかった人たち」

 というのが多いのかもしれない。

「新人賞に入賞し、次回作を期待されたが、結局できなかった」

 という、いわゆる、

「中途半端なプロ作家」

 という人たちではないだろうか?

 彼らは、一種の、

「浪人たち」

 といってもいいかもしれない。

 鳴かず飛ばずの状態で、

「バイトで食いつないでいる」

 という人たちからすれば、

「人の原稿を読んで、評価をし、さらに、その人たちに、本を出させるお手伝いをする」

 という仕事である。

「適任ということであれば、彼らほど適任はいないだろう」

 といえるが、そもそも、

「作家になりたい」

 と切望していた人たちなのだ。プライドがゆるかどうか、それが大きな問題といってもいいだろう。

 だが、

「背に腹は変えられない」

 ということと、

「ここが、詐欺であるということをわかっている」

 ということから、自分の立場や今の状況から考えて、

「皆一つ穴のムジナにしてやろう」

 という気持ちがあれば、できないことではない。

 当然、仕事は忙しいだろうが、それだけの金ももらえるだろう。

 さらに、忙しい方が、罪の意識もなくていいかもしれないともいえることが、こんな役割でもしようという人が集まってくるという気持ちが、心の中の根底にあるのかもしれない。

 そして、実際に、かなりの数の原稿が寄せられてくる。

「こんなにもたくさんの、作家志望者がいるというのか?」

 というほどのようで、実際に、寄せられた原稿の批評を書いて、送り返すようになった。

 送り返してもらった方とすれば、

「半信半疑だったけど、本当に、送り返してきてるよ」

 とばかりに中を見ると、案外ときちっとした様式になっている。

 最初に、あいさつ文とお礼が書かれている。その時点で、送った人は、信用するに値すると思ったことだろう。

 さらに、批評を見る。

 そこに書かれていることを見ると、びっくりしたのだが、

「まずは、その作品の欠点から書かれている」

 ということだ。

 ただ、それも、厳しいことは書いているが、決してけなしているわけでも、評価が下がる書き方をしているわけではない。あくまでも、気を付ける部分ということで書かれている。

 そして、

「そんなマイナス部分もあるが、それを補って余りある」

 となかりに、そこから先は、マシンガンのように、褒めちぎるのだ。

 つまり、

「一度落としておいて、そこから引き上げる」

 というのだから、その誉め言葉は、勢いがあればあるほど、心に響き、さらには、信憑性というものをこれでもかとばかりに植え付けているということになるのだ。

 そうなると、最後に担当が、

「何かご質問があれば、こちらまでご連絡ください」

 ということで、担当の携帯電話の番号が書かれていれば、当然、気持ち的には有頂天になっているのだから、かけたくなるのも当たり前というものだ。

 そこで、電話を掛けてみると、相手は、

「わざわざありがとうございます」

 とくるわけだ。

「いえいえ、素晴らしい批評をこちらこそありがとうございます」

 といって、そこからの会話になるわけだが、そこから先は、相手は褒めることしかしない。

「あなたの作品は、この間の直木賞よりもいいですよ」

 と褒めちぎるのだ。

 しかし、有頂天になっているので、本人は気づかないが、実は、

「作品に対しての具体的な評価」

 というものを、何もしていないということである。

 つまりは、

「電話がかかってきた相手がどんな小説を書いた人なのか?」

 ということを、分かっていないということだ。

「相手は、有頂天でかけてきているので、褒められれば、どんな言葉にだって疑いを向けない」

 ということが分かっての、一種の、

「確信犯」

 ということである。

 かけている方とすれば、

「自分のことをこれ以上ないくらいに評価してくれた人と話ができている」

 というだけで悦びである。

 なぜかというと、

「これまで、まともな批評を受けたことがない」

 ということが一番大きい。

 中には、文芸サークルに入っていて、サークル仲間に見てもらっての批評というのはあっただろう。

 しかし、少なくとも、自分であれば、

「厳しいことは言われたくない」

 という思いから、

「できれば、厳しい言い方はしないようにしたい」

 ということで、少しでもオブラートに包んで本心を書かないというくせがついている。

 だから、相手もそうだろうと思えば、他人の批評を心底信じられないと思うのだ。

 それをしてもらおうと思えば、それこそ、

「有料のところで、添削を受けるしかない」

 ということになる。

 これが、思うの他高かったりする。それこそ、

「通信教育のような、作家養成講座」

 というものである。

 これだと、

「カネがかからない趣味」

 として始めた意味がないではないかと思う人も多いはずだ。

 せっかく、始めた趣味だから、できれば、続けたいという思いと、

「プロになりたい」

 という思いとが、ジレンマにそれまではなっていたということである。

 そのジレンマを解決してくれたのが、この

「自費出版社系の出現」

 ということであろう。

 彼らは、そんな作家になりたいという願望を持った人のジレンマを巧みにくすぐってくるのである。それを作家たちはわかっていない。だから、原稿を送る人が増えてくるということだ。

 やはり、

「ブラックやグレーな部分というものがあって、そこをこじ開けてくれる」

 という存在があれば、そこにゆだねたくなるという気持ちはわからないでもない。

 それを巧みに利用するこのやり方は、表から見ると、

「これほど画期的なやり方はないだろう」

 ということだ。

 これは、他の出版社から見ても、

「ただのライバル出現」

 というわけでもなく、ある意味、

「歓迎すべき出版社」

 といってもいいかもしれない。

 というのは、それまで、鳴かず飛ばずでいる、自分たちが発掘した人たちの行く末を見てくれるということで、ありがたいと思ったのかもしれない。

 さらに、

「捨ててしまうとはいえ、持ち込み訪問者に取られる時間もバカにならない」

 と思っていたので、それが、なくなったことは、出版社としても、余計な仕事をしないで済むという意味ではよかったと思ったに違いない。

 さらには、

「どうせ、素人の作品を本にするんだろうから、売れる見込みはないんだろうな」

 という、出版社からの目で、

「ライバルにもならないだろう」

 と思っていることだろう。

 そういう意味では、これらの出版社が、詐欺だということを最初に看破したのは、

「他の有名出版社たち」

 だったのかもしれない。

 彼らは、出版社の目から、

「どうせ長くはないだろう」

 ということも分かっていたはずだ。

 しかも、時代的には、

「出版不況」

 といわれている時代で、

「本や、音楽CDなどは、インターネットで購入できる」

 という時代に入っていた。

 今でこそ、

「活字の本やCDなどの媒体を使わずとも、スマホで、作品を直接ダウンロードしたり、配信から購入する」

 という方法がある。

 その頃は、

「本やCDを、宅配システムで本屋に行かずとも、購入できる」

 というシステムが出来上がっていたということであった。

 だから、実際には、

「店舗での購入」

 というものが減ってきていて、実際に、

「本屋や、CDショップというものを廃業する」

 というところもどんどん減ってきている。

 それこそ、

「商業施設や、百貨店などには必ずあった店舗が、どんどんなくなってきている」

 ということになるのだ。

 そうなると、

「物理的に、トータルの本棚が減ってきている」

 ということになるわけで、そんな時代に、どんどん作家ばかりが増えてきて、本が溢れるということになれば、

「本を作っても、売る場所がない」

 ということになるわけである。

 それを考えると、

「作った本は、どこに行くのだろう?」

 ということである。

 つまりは、

「自費出版社の経営方法というのは、自転車操業だ」

 ということである。

 つまり、

「行き当たりばったり」

 ということで、まずは、

「本を出したい」

 という人が増えなければ、すぐに成り立たなくなるという、まるで、

「もろ刃の剣」

 のような商法である。

 だから、本来であれば、

「ある程度儲けた段階で、うまく引き上げる」

 というのが、一番うまいやり方なのかもしれない。

 つまりは、

「あくまでも、一大ブーム」

 という考えで、ブームの動向を冷静に見て下り坂になる前に、引き上げるということをしないと、雪崩に巻き込まれるということは、分かっていることであろう。

 しかし、彼らとすれば、

「想像以上に成功した」

 ということかもしれない。

 実際に、この商法が、機動に乗りかけた時、自分たちの調略なのかもしれないが、一部のタレントやコメンテイターが、この商法について、

「砂らしいやり方だ」

 であったり、

「これが、未来の出版業界のあるべき姿だ」

 などともてはやしたことで、さらに、注目を浴びるようになり、想定以上なのかどうかわからないが、

「本を出したい」

 という人が増えてきた。

 そんな中で、一つの出版社が、

「年間の出版数日本一」

 などという記録を出したものだから、それこそ、

「一大ブームを巻き起こした」

 ということになるだろう。

 そうなると、

「ここで辞めるわけにはいかない」

 というのも当たり前というもので、さらなる自転車操業に走るということになった。

 しかし、自転車操業というのは、大きく成ればなるほど、収拾がつかなくなるというものである。

 まずは、宣伝によって、人を集め、評価することで、相手を信用させ、本を出させるというところは、表のやり方である。

 しかし、作った本を、約束としいぇ、

「一定期間、有名本屋に置き、そして、国会図書館にも置く」

 などという約束で本を作ることになるのだが、実際には、

「国会図書館はおろか、有名本屋にも本が置かれない」

 ということになる。

 それは当たり前のことで、本屋がどんどん減っているのに、どこの出版社か分からないところの、しかも、素人の作品を誰が有名本屋の看板で出すようなことをするというのかということだ。

 そもそも、有名本屋に、自費出版社の入り込む隙間などあるわけはないのだ。

 毎年のように、新人賞に入賞した作家が出てきて、どんどん作品が生まれている。それは、営業の連中に、一番分かっていることではないか。しかし、それを作家になりたいというう人は分からない。だから、本を出したいということで、大金をはたくということである。

 しかし、実際には、たくさんの本を作っても、まったく売れる見込みのないということなので、当然、在庫として抱えるということになる。

 つまりは、本を作る代金と、在庫を抱える代金とを、作家に賄ってもらわなければいけないということである。

 だから、協力出版といいながら、すべてを作家に出させるという暴挙になり、その時点で、

「詐欺だ」

 ということになるのだ。

 だが、それが露呈し、裁判沙汰になる。そんな人がどんどん増えてくると、今度は、

「本を出したい」

 という人も減ってきている。

 もちろん、

「本を出したい」

 と考える人が頭打ちになったということであろう。

 つまりは、

「ブームが去った」

 という時期である。

 しかし、裁判を起こされた時点で、廃業にするわけにもいかず、結局は、

「ズルズルと流されるしかない」

 ということになり、結局は、

「破綻するしかない」

 ということになり、

「結局あれは、詐欺商法だったんだ」

 ということで、やっと世間で、問題になって噴出するということだ。

 マスゴミや、タレントなどで、彼らを擁護した連中とすれば、立場はないわけで、彼らも、それなりに、正妻を受けるということになるだろう。

 それにしても、一世を風靡したはずの、

「自費出版社系の商法」

 というものの隆盛は、結局は、

「2、3年で終わってしまった」

 ということになるであろう。

 それが、

「ブームというものの運命」

 ということであろうが、もう一度出てくることはないブームという意味も含んでいるに違いない。


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