分裂犯罪
森本 晃次
第1話 プロローグ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和8年1月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。
その日、S出版社の向田昭は、予定通り、F市郊外にある小説家の家に、原稿を取りに行くということになっていた。
F市というのは、F県の県庁所在地であり、元々はF市郊外に、ベッドタウンが築かれていたのだが、平成になってから、
「大規模市町村合併」
というものが行われて、結局また、F市に地名は変わるということになったことで、
「F市郊外の住宅地」
ということになった。
その小説家の先生というのは、そこに住んでいる。元々は、大きな農地を少し離れたところにもっていて、そこに、県をまたいでの幹線道路ができるということで、立ち退きを余儀なくされたということであった。
実際に、郊外への立ち退きというのは、昭和の終わりの頃には結構あった。
「バブル経済禅や」
というべきであろうか、人口はどんどん都心部に増えていき、さらに、そこから、市外にどんどん広がっていくベッドタウン計画というものが進行し、
「マンションなどではない、夢の一軒家」
というものが目されたおかげで、当時は結構高額で、土地が売れたということであった。
そんな余勢に乗っかる形で、向田氏の土地も、結構高価格で売れたのであった。
元々、少々大きな土地を持っていたといっても、先代の父親は、そこまで土地に執着していたというわけではない。確かに、
「代々先祖から伝わってきた」
ということであったが、実際に、
「昔の土地を守る」
ということを、
「家訓として厳命されていた」
ということでもない。
実際には、山間に土地があるというだけで、その利用価値は限られていると思われたからだった。
だから、
「どうせ売っても、そんなに高くは売れまい」
と思っていたのも事実だ。
それでも、売らなかったのは、
「いずれ、高価格で売れる時も来る」
ということを思っていたのか、それとも、そのあたりには疎いということで、手放すに手放せないということだったということで、そのまま放置しているということになったのかもしれない。
それは、
「この佐藤家の遺伝」
というものなのかもしれない。
実際に、現在の当主である、
「佐藤俊介」
という人物も、どちらかというと性格的には、
「面倒くさがり屋」
ということである。
それも、
「極度の面倒くさがり屋」
ということで、まわりからも、変わり者ということで相手にされないということもおおかったようだ。
たあだ、それもまだマシなところがあり、代々のご先祖様の中には、それこそ、ものぐさな連中が多かったようで、土地の領主をしていたということから、そのような性格になったのかもしれないが、それでも、
「よくこの家が断絶しなかったな」
というものだった。
しかし、この家が断絶しなかったということには、れっきとした理由がある。それは、昔からの家というものでは、常識とも言えるものなのかもしれないが、そこには、
「軍師」
と呼ばれるような人物の存在があったということであろう。
この向田家には、
「遠藤家」
という家来ともいえる家がついていた。
これが、戦国時代から続いているということで、どうやら遠藤家というのは、
「家老職」
という地位にあったというものだ。
戦国時代の家老職ということで、
「軍師」
というか、
「主君を支える忠義な配下」
ということであれば、幾人か浮かんでくるものだが、一番有名どころとしては、
「上杉家を支えた直江家」
ということになるであろうか。
戦国大名の代表というと、たくさんいるが、時代としては、
「群雄割拠の戦国時代」
ということで、それも当たり前のことであろう。
それでも、直江というと、戦国時代後半においては、上杉家の軍師ということで、当時の天下人である豊臣秀吉にも寵愛され、さらには、その秀吉の死後、秀吉への忠義から、
「徳川家康に刃を向けた」
という意味で、結果的には、その選択が裏目だったわけであるが、そのせいで、本来であれば、
「上杉家も直江家も滅亡」
という危機を何とか逃れ、さらには、
「当時の120万石」
という土地を、四分の一という、
「30万石」
にされたところを、一人のリストラもしなかったということで、ギリギリの状態であっても、何とか家の存続に勤めることができたということで、その手腕とすれば、
「歴史小説では人気の題材」
ということになるのであった。
特に、
「尊属の危機から救った」
ということでは、その手腕を大きく評価する人も多く、軍師的な存在というよりも、家老職ということでの家を守ったという方が、有名ということで、ここに登場する、
「遠藤家」
というのも、実に直江家と同じような立場をずっと推移してきたということであった。
そもそもの向井家というのが、上杉家ほどの有名な戦国大名ということでもなかったということと、あくまでも、
「村の領主」
ということでの、
「庄屋としての力」
ということから、遠藤家というのは、F県の郷土史としては、
「向田家よりも、むしろ、遠藤家の方が貴重な緩急材料」
と目されていたようである。
「郷土の偉人」
ということで、名前が挙がるのも、遠藤家の方が僅差ではあるが、向田家よりもいつも多いというアンケート結果もあるくらいであった。
実際に、遠藤家の祖先というのは、直江家のこれまでの歴史上のやり方というものに、造詣を深く持っていたということである。
直江家のやり方を踏襲することで、これまでにも、
「お家の危機」
というものを回避できたという実績もあり、そのおかげで、結果的に領主である向田家も助かったということになるであろう。
学者の先生などが、上杉家と直江家をどのように研究しているのかはわからないが、遠藤家というのは、その立場から考えても、
「直江家の立場から、歴史を見る」
ということで、その自分たちの成功というものを見出したのかもしれない。
だからこそ、
「直江家というものを、自分たちの先生と考え、その研究というものに、怠ることはなかった」
ということであった。
実際には、
「上杉景勝に仕える、直江兼続」
という人物を、一番の師匠としたのだが、歴史的には、
「直江家というのは、兼続が養子になってからの直江家」
ということである。
それまでにも、
「上杉謙信の時代での、直江家というのは、有力な武将家ということで有名ではあるが、景勝に代わってからの家老としての立場は、明らかに兼続から変わった」
ということを認識していただきたいということである。
だから、
「新直江家の当主」
ということでの、
「直江兼続の研究」
というのは、遠藤家にとっては、
「当然の選択だった」
ということになるのだ。
そして、その研究が功を奏したのか、それ以降の歴史の中で、研究成果が随所に出てくるのであった。
もっとも、そのことが立証されたのは、明治以降ということで、その頃になって、いろいろな、
「歴史の事実というものも分かってきた」
ということであろう。
特に、封建時代というのは、
「以前の支配者の歴史を改ざんする」
という傾向にあった。
実際に、時代が、
「封建制度から、中央集権国家に代わる」
という大変革を迎えると、それまでの、
「武士の歴史」
というものの歴史に蓋をして、新しい政権を根付かせることが先決だということになるのであった。
そんな時代において、
「戦国時代というのは、それでも、研究材料になりうる」
ということから、研究することをとがめることがなかったおかげで、いち早い研究成果が出たことで、その結果を書籍化するということも多かった。
そのおかげで、遠藤家も、さらなる勉強に拍車がかかったということになるのであろう。
だから。
「上杉家の研究」
というものに余念がないということで、実際に、
「新潟県や福島県」
というところまでいって、長年滞在し、研究したという代もあったという。
それも、領主である、
「向田家の当主が、その時間を与えてくれた」
ということで、その時の遠藤家の人間とすれば、後ろ髪を少しは引かれるという気持ちになりながら、それでも、
「投手の命令」
ということで、堂々といけることに、感謝をした。
それだけの器のある当時の当主なので、
「この人なら、自分がいなくても、なんとかしてくれる」
という思いもあった。
しかも、
「この当主であれば、もし危ないと思えば、躊躇なく自分を呼び戻すことを選択するだろう」
という思いもあったのだ。
というのは、
「彼には、先見の明がある」
というのは、その時の遠藤家の人も分かっていて、それだけに、
「この土地の人たちが、領主のいうことを嫌がらずに聞いてくれる」
ということが分かっていたもの大きい。
少なくとも、
「人物としては、慕われる領主だった」
ということである。
実際に、その時の、
「向田家の村」
というのは、大きな問題はまずなかった。
「天下泰平だった」
といってもいい。
そもそも、江戸時代における、
「天下泰平」
という時代は、
「抑えつけられたもの」
というイメージが強い。
「武家や大名が謀反を起こさないように、改易政策を行ったり、経済的に謀反を起こさないように、金を使わせるという、参勤交代であったり、天下普請などという、あからさまなことを行った」
ということからも、それが言えるということである。
明治政府も、実際には、その傾向にあるが、実際には、国家の君主としては、
「万世一系である天皇が君主だ」
ということになれば、
「日本国民であれば、まずは、天皇に逆らうということはないというだけの、絶対権力を後ろ盾においていることで、可能となるやり方だ」
何といっても、
「当時の日本というのは、立憲君主国だ」
ということだ。
つまりは、
「憲法に基づいて、天皇という君主の元に、収められている国だ」
ということだ。
あの、
「武士の時代」
ということで、
「身分制度においても、武士が最高位」
ということで言われている時代であるが、それでも、その武家政治の中心である、
「徳川幕府」
というのは、
「あくまでも、朝廷から政治を行う権利をいただいている」
ということをわきまえていて、基本的には、
「朝廷にお伺いを立てている」
ということで、形式的な地位というのは、
「朝廷というものが、君臨する国」
ということになっているのだ。
だから、将軍というのは、
「あくまでも、武家の棟梁」
というだけのことで、少なくとも、
「国家元首ではない」
ということになる。
当然、国家元首というのは、天皇ということで、この歴史は、
「有史から、大日本帝国が滅亡する時代まで続く」
といえるのだ。
つまりは、
「日本国憲法」
というものによって、
「天皇は、国民の象徴」
ということになり、国家元首でも、政府や国家機関に対して、何ら影響力を持たないということになったのだ。
実際に、それまでは、
「統治はしない」
ということはあっても、
「君臨する存在だった」
ということだったのだ。
だから、今の日本は、
「立憲君主国」
というものではなく、
「立憲民主の国」
ということになるのだ。
憲法に基づいた、
「民主国家」
ということである。
もっとも、民主国家というものが、すべていいということではない。
そもそも、民主国家というものには、たくさんの欠点がある。
大きな点としては、
「自由、平等、博愛」
というものが、民主主義の原点といわれてきたが、普通に考えると、
「自由と平等というのは、両立できない」
ということが、実際に政治をすると分かってくるということである。
「どちらかを優先しないと国家が成り立たない」
ということになると、民主主義と呼ばれる国家は、
「自由というものを優先する」
ということになるのだ。
それは、
「自由貿易」
であったり、
「国民の権利を束縛することなく、自由にさせる」
ということからであった。
しかし、そうなると、どうしても、平等というものが犠牲になるということである。
それが、
「多数決の原則」
ということから、
「数の原理」
で、少数派というものが抑えつけられる社会ということになったり、
「貧富の差」
ということから、差別問題や、さらには、せっかく万人に認められるべき自由というのも、一部で迫害されるということになることもあるだろう。
そして、
「一部の特権階級の人間だけが、得をする社会」
ということになり、ますます、強者と弱者の差がハッキリと現れてくるということになるであろう。
それを考えると、
「民主主義にも限界」
というものがあるというものであった。
そこで考えられたのが、
「社会主義」
という考え方である。
こちらは、
「平等を最優先とする」
という考えで、
「企業の国営化を勧めたり、給料を実力で決めるということをせず、一律にする」
ということでの、平等を推し進めるという考え方である。
これは、一見素晴らしい世界であり、理想の世界のようにも見えるということであるが、実際には、欠点も多い。
平等であれば、確かに、
「貧富の差」
というものもなくなるということであろうが、一生懸命に働こうが働かなくても、給料が一緒であれば、進歩はないということであろう。
だとすれば、
「国家的な進歩はなくなってしまい、他国と争うことはできない」
ということになる。
そのためには、優秀な人材には、その力を発揮させなければいけない。そこで国家がやるのは、
「強い国家の建設」
ということで、さらには、
「恐怖政治」
ということだ。
つまりは、
「カネではなく、脅迫観念を植え付けることで、仕事をやらせる」
という強引なやり方である。
しかし、そうなると、国家元首は、
「いつかクーデターを起こされる」
ということに怯えながらの生活となり、気も休まらないということから、怪しい人間は、どんどん抹殺するという、
「粛清政策に舵を切る」
ということになるだろう。
そうなると、結果的にどこかで反発がピークとなり、クーデターが起こることで、壊れてしまうという運命が待っているのだ。
それが、
「1世紀ももたなかった」
といわれる共産主義というものの正体だったということである。
今でも若干の共産圏の国はあるが、以前のような、共産圏という世界地図を二分する勢力には程遠い。つまり、
「共産主義というのは、民主主義に対抗できる勢力ではなかった」
ということになるだろう。
一つの村で、領主として君臨した佐藤家と、それを支える遠藤家というのが、それこそ、
「上杉家と直江家」
をモデルにした村運営ということで、実際には、最近までうまくいっていたということであった。
しかし、そんな時代も、次第に、
「戦後の農地改革」
などで、そもそも、領主のようなやり方は通用しなくなってきた。
そんなこともあって、佐藤家と遠藤家も、少しずギアチェンジを余儀なくされてきて、それでも、何とか、農地改革は乗り切ってきたのだ。
それでも、
「村自体がなくなる」
という事態になれば、そうもいかなくなり、平成になってからの、
「大規模市町村合併」
では、完全に、最終的には、
「F市に吸収される」
という憂き目にあったのである。
そもそも、村民はほとんどいなかったこともあってか、村民のほとんどは、
「F市に合併される」
ということをよしと考えている人が多かった。
そうなってしまっては、かつての領主という形になるわけにもいかず、結局は、
「野に下る」
ということにしかないわけであった。
実際に、先代の父親の時代で、
「村における佐藤氏」
というのは、滅亡したということである。
それに伴って、遠藤氏も同じように、村から出るということになった。
最初こそ、
「いきなり村から放り出された佐藤氏を、一人にさせるわけにはいかない」
ということで、少しでも、外の世界を知っている遠藤氏が、最初はいろいろとしながら、外の世界の、
「しきたり」
というものを教えていた。
今の世代の息子も、その頃のことを勉強していて、今では、
「しっかりとした市民」
ということになっていた。
息子の代になれば、」さすがに遠藤家の助けもいらないということで、遠藤氏は独立して、新たな町で、生活をすることになったのだ。
そもそも、生活費は、立ち退き料で、巨額の富を手に入れていた。
それこそ、
「親父が一生かかっても使いきれないほどのお金」
といってもいいかもしれないが、さすがに、
「息子に残したい」
という意図があったからなのか、父親の遺産は結構なものだった。
実際に、持ち家もあったので、そこで暮らしていた。
そんなに大富豪ということのない、一般的な住宅で、それこそ、昔の領主の家から比べれば、それこそ、
「ウサギ小屋」
という表現がぴったりかもしれないが、それも、狭いなら狭いで、何もすることのない状況では、それくらいがちょうどよかったのだ。
父親は、サラリーマンになった。
実際に、父親が、
「領主ということで、村に君臨していた」
ということはほとんどなかっただけに、それほどの抵抗はなかったのだが、さすがに、社会人としては、思うようにいかないところもあったようで、かなりの苦労があったという。
特に、
「これまでは、先祖はすべてが君主だった」
ということで、その遺伝子を受け継いでいるということから、
「命令されることへの抵抗」
というのは、それなりにあったことだろう。
とはいえ、
「自分で判断することはないだけに、気は楽だ」
ということもあった。
そこに対しては、うまく順応できたところから、何とか定年まで仕事ができたということだったのだが、安心したのか、長生きをすることはなかった。
息子とすれば、大学を卒業し、独立をしていたのだが、彼は、そこで、
「作家への道」
というものにあこがれを持ち、大学時代から、真剣に作家になるということを夢見るようになっていた。
文芸サークルにも所属をし、小説新人賞なども、積極的に公募に応じていたということであったが、
「なかなかうまくはいかないな」
と思っていた。
小説家になるということに関して、
「一番難しく、最初のハードルだ」
といわれていることとして、
「作品を最後まで書き上げることができない」
ということが一番大きいということであったが、そのことは自分なりに理解していてたのだが、実際にそのハードルは、そんなに高くはなかった。
もちろん、最初の作品は、自分で納得できるような作品ではなかったが、
「書き上げることが大切」
ということをわかっていただけに、最初の作品は、
「その礎」
ということで、自分の中の捨て石のような気持ちでいたのだ。
しかし、実際に、この作品は捨て石などではなかった。
それから以降の彼の作品に対して、大きな影響力を与えているのは確かで、実際に、その路線を変えることもなかったし、また、替えてしまうだけの理由も存在しないということであった。
だから、彼は、同じ書き方をずっと続けていて、そのうちに、
「これが、俺の書き方なんだ」
と思うようになったところで、新人賞の佳作をもらうというところまで来たということであった。
その作品は、
「自分としては、納得のいく作品」
ということで、
「まあまあ、いいところまでは行くかも?」
と思っていた。
さすがに、最終選考まで残るとは思わなかった」
とも感じていた。
その理由は、
「今までに10回ほど、応募してきたけど、1次選考を突破したというのは、1度しかなかった」
ということで、すっかり自信喪失になりかかっていたということだったからである。
「2次審査でも、通れば御の字」
ということで、その頃は応募していたのだが、それが、最終選考はおろか、佳作にまで抜擢されるということは、これ以上の悦びはなかったのだ。
その出版社とすれば、
「新人賞はもちろんのこと、佳作以上は、担当の人との話で、出版化も可能です」
ということであった。
当然、佳作の上には、
「特別賞」
というものもあり、さらには、
「佳作の人も一人ではなく、3人いる」
ということで、出版社としても、
「全員の出版化までは考えていない」
ということかもしれない。
そうなると、特別賞が一番候補で、佳作は、おまけくらいにしか考えていないんだろうな?」
と思っていた。
実際に、出版社からの担当が連絡を取ってきたのは、
「本当に連絡がくるのか?」
と考え始めた、専攻の発表があってから、数か月過ぎていたからであった。
「最初は、ぬかるみの悦びだけを与えたんだ」
と思っていたが、それでも、本当に連絡があったことは、嬉しかった。
もしそれが、
「最後の人」
ということであっても、宣言通りに連絡をくれたということは、それだけ紳士的な対応だと思ったからだ。
何といっても、小説やマンガの新人賞応募などというのは、
「これ以上ない」
というくらいにブラックなところが多いということだ。
「作品の選考に関しての問い合わせは一切不可」
であったり、
「原稿は返さない」
ということであったりと、
「あまりにも不透明で曖昧な部分が多い」
ということからも、誰も、出版社を信じたりはしないということになるのであろう。
そういうことから、過去にあった、
「自費出版社系の詐欺事件」
というものが起こるというものだ。
それなのに、
「どうして、選考方法を変えないのか?」
ということで、新人賞に応募する人が疑問を持つことになり、新人賞応募も減ったかもしれない。
しかし、そもそも、
「本気で出版する気がない」
という人が応募してくるというのも、結構あるということで、
「実際には、自然と最初からふるいに掛かったかのようで、よかったのかもしれない」
と、出版社側は感じているのかもしれない。
要するに、手間が省けるということであろう。
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