第2話 静かな匂い
あのときも、ボクは窓辺で待っていた。
いつものように、外の光は傾き、ボクの影は長く伸びた。
光はオレンジ色に変わり、「もうすぐだよ」とボクに言っている。
ボクは、耳を立てた。
近所の犬の鳴き声も、子供たちの遊ぶ声もする。風の音もする。
でも、あのウキウキする音が、いつまで待っても、聞こえてこない。
ボクは、窓ガラスに鼻を何度も押しつけた。
鼻の頭が、冷たいガラスでひんやりする。あの角を、目を凝らして何度も見た。
光は、とうとう、太陽の熱を失い、冷たい青色に変わってしまった。
夜の、深く、黒い匂いが、ゆっくりと窓の外を覆い始める。
パパが帰ってきた。パパの重たい足音が、玄関で止まる。
ママが帰ってきた。ママの足音は、いつもより少し、速くて不安定だった。
でも、キミちゃんの足音は、聞こえない。
ボクは、不思議だった。どうしたんだろう?
ご飯の時間になった。
キミちゃんの代わりに、ママがボクのご飯を用意してくれた。
ママの手は、ボクの頭を撫でてくれたけど、その手はいつもより少し冷たい。
「美味しい魔法」はかからなかった。
ママの目からは、時々、水がこぼれていた。その水は、しょっぱい匂いがした。
ボクは、ご飯を少し残してしまった。
体が、ご飯を欲しがらない。
早く食べて、キミちゃんの部屋の前へ行かなければ。
ボクは、キミちゃんの部屋のドアの前で丸くなった。
部屋の中から流れてくるキミちゃんの匂いが、ボクを安心させてくれる唯一のものだった。
いつもボクがドアの前で丸くなっていると「コロ!」って声をかけてドアを開けてくれる。
今日はまだドアが開かない。ちょっとだけ漏れてくる匂いが少し寂しくなっている。
きっと、次に光が明るくなるとき、キミちゃんは帰ってくる。
ボクの頭の中の時間には、「待つ」ことと「帰ってくる」ことしかないからだ。
でも、次に光が明るくなっても、その次も、その次も、キミちゃんは帰ってこなかった。
ある日、家にたくさんの人がきた。たくさんの、初めての匂い。不思議な煙の匂い、濡れた土の匂い、みんなの涙のしょっぱい匂い。みんな黒い匂いがした。
たくさんの人、たくさんの声、たくさんの音、たくさんの匂い。
でも、キミちゃんの音は聞こえなかった。
そして、みんながいなくなったころ、
パパとママは、ボクを散歩に連れて行ってくれる。
でも、前よりもずっと静か。
笑い声がしない。
彼らの匂いは、いつも悲しい青色で、濃い。
まるで、心臓の奥から、ずっと悲しい音を鳴らしているみたいだ。
ボクは、彼らの悲しい匂いを、どうにかして消したくて、彼らの頬や手を、ペロペロと舐めた。
ボクの舌が、しょっぱい水の跡を消そうとする。
そうすると、彼らはボクを強く抱きしめてくれて、少しだけ匂いが柔らかくなる。
でも、すぐにまた、悲しい匂いが戻ってくる。
ボクの仕事は変わらない。窓辺に座って、あの角を見つめ続けることだ。
キミちゃんが返ってくるときに、ちゃんと待っていられるように、いつものように。
ボクの仕事が、終わるはずがないんだ。
ボクは、窓辺にいる。
外の景色は、ボクに、何かが変わったこと、何かが過ぎ去ったことを教えてくれる。
ボクが待っている間に、外の世界は、まるで巨大な魔法使いが布を替えるみたいに、色が何度も変わった。
<つづく>
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