コロの窓辺

雨後乃筍

第1話 ボクの仕事

 ボクの名前はコロ。パパとママがそう決めたんじゃない。


 キミちゃんが、ボクを抱っこして「コロ、コロ!」って呼んでくれたから、ボクはコロになったんだ。


 キミちゃんは、ボクの名前を呼ぶのが、世界で一番上手だ。


 その声を聞くと、ボクの心臓は、嬉しさで少しだけ速く動く。


 ボクの毎日は、キミちゃんの存在によって、ただ一つの、温かい円を描いている。

 

 その円の中には、複雑なものは何もない。


 あるのは、キミちゃんの匂い、キミちゃんの音、そして、このボクの「待つ仕事」だけだ。


 キミちゃんは、毎朝、ボクの頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれる。


 その手の感触は、ボクの体の毛の一本一本に刻み込まれる。


 それが、ボクの一日の始まりの合図だ。


 キミちゃんはスクールバッグを背負い、玄関から出ていく。


 ボクは、急いでリビングの窓辺へ行くんだ。


 窓のガラスは、キミちゃんが去ったばかりで、まだ冷たくない。


 ボクは、そこに体をぴったりつけて座り込む。


 キミちゃんの小さな背中が、あの角を曲がって、見えなくなるまで、ボクは目を離さない。


 キミちゃんは、一度も振り返らないけど、ボクは知っている。


 キミちゃんの心は、いつもこの家と、ボクの方を向いている。


 それが、ボクが待つための、消えない力になるんだ。


 キミちゃんの影が、遠くで完全に消えたら、ボクの「待つ仕事」が本格的に始まる。


 待つことは、退屈なんかじゃない。


 それは、遊びよりも、ご飯よりも、散歩よりも、ボクの体の隅々まで満たす、最も重要な仕事。


 ボクにとって、待つことは、キミちゃんと遊ぶことと同じ。


 窓から入る光は、ボクに何かを教えてくれる。


 朝の光は、キリッとしていて、ボクの体を冷たい空気から守ってくれる。


 光が窓枠の隅を移動し、正午の光は、一番強くて熱い。


 ボクは、その熱を背中に受けながら、まどろむ。


 そして、午後になると、光は力を失い、優しく柔らかくなる。


 ボクの影は、長く、長く、床の上に伸びていく。


 外の世界は、ボクにたくさんの話を匂いで教えてくれる。


 遠くで遊ぶ子供たちの、汗と土の匂い。


 風に乗ってくる、遠いキッチンからの、甘い匂いや、香ばしい匂い。


 雨が降れば、地面の湿った、濃い土の匂い。


 でも、ボクが待っているのは、匂いや光じゃない。


 ボクが待っているのは、あの音だ。


 光がオレンジ色に変わると、ボクの心臓は、いつもよりずっと早く、トクトク、ドクドクって動き出す。


 オレンジ色は、「もうすぐだよ」「準備しなきゃ」と、ボクに合図を送っている。


 ボクは、耳をピーンと立てる。


 遠くの音を、一つ残らず、ボクだけの特別な力で拾い集める。


 そして、聞こえてくるんだ。


 ウキウキっていうリズムの足音。


 パパの、重たくて、靴底が地面を叩く音ではない。


 ママの、急いでいるカツカツという、少し高い音でもない。


 キミちゃんの足音は、まるで地面が跳ねているみたいに、軽くて、弾んでいる。


 それは、ボクのところに早く帰りたいっていう、キミちゃんの心が音になった、世界で一番大好きな音だ。


 この音が聞こえるだけで、ボクの全身の毛は、嬉しさで逆立つんだ。


 ボクは、その音が聞こえたら、窓辺から一目散に、リビングのドアの前へ行く。


 そこで、行儀よく座って、その瞬間を待つ。尻尾は、嬉しすぎて、勝手にブンブンと振れてしまう。


 ガチャッと鍵が開く音。


 ドアが開いて、キミちゃんの小さな顔が、ボクを見つける。


 そして、キミちゃんの「ただいま、コロ!」っていう、最高に嬉しい声!


 ボクは、その瞬間、キミちゃんの腕の中に飛び込む。


 キミちゃんの体には、学校でついた新しい匂いがたくさんある。


 砂場の匂い、図画工作の糊の匂い、ときどき給食の甘い匂い。


 その全てが、ボクにとっては「キミちゃんの匂い」で、安心と喜びの匂いだ。


 キミちゃんの匂いは、ボクを優しく包み込み、一日の全ての緊張を、そっと溶かしてくれる。


 キミちゃんが、ボクのご飯を用意してくれる。


 そして、ボクの頭をトントンって叩いてくれる「美味しい魔法」をかけてくれる。


 ボクの待つ仕事は、この瞬間のためにある。


 この瞬間が、ボクの毎日の真ん中にある、暖かくて、消えることのないキラキラの光。


<つづく>

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