祖母のカフェを継いだら、閉店後の本棚が異世界の書架街へつながっていて――“白紙事件”の謎と私の境界線を、紅茶の温度で取り戻す話
後学 砂底
第1章 薄灯坂の鍵
第1話
鍵穴に金属が噛み合う乾いた音が、朝の静寂を切り裂く。重厚な木の扉を押し開けると、カウベルが低く、遠慮がちな音色で来訪者を告げた。
店内に満ちているのは、時間の堆積した匂いだ。焙煎された豆の油分が木材に染み込んだ香ばしさと、古びた紙が放つ乾いた埃っぽさ、そして使い込まれた綿や麻の布地が吸い込んだ生活の体臭が混然となり、ある種の結界を形成している。暮葉は深く息を吸い込み、肺の奥底にその空気を満たすことで、ようやく自分の輪郭が世界に繋ぎ止められたような安堵を覚えた。
祖母が残した店は、まるで主人の帰還を待つ老犬のように、忠実に、そして静かにそこにあった。磨き上げられたカウンターの木目、整然と並べられたサイフォン、窓辺に置かれた観葉植物の緑。それらはすべて祖母の手による完璧な配置であり、暮葉が不用意に動かせば崩れ去ってしまいそうな、危うい均衡の上に成り立っている美しさだった。
「……おはよう」
誰にともなく呟いた声は、驚くほど掠れていた。
暮葉はカウンターの内側へ滑り込み、慣れた手つきでケトルに水を注ぐ。ガスコンロのつまみを捻ると、青い炎がボッと音を立てて花開いた。湯が沸くまでの数分間、それは彼女にとって一種の聖域である。湯気の揺らぎを見つめている間だけは、過去の記憶――都市部のオフィスで雪だるま式に膨れ上がった噂や、自分に向けられた無数の視線、そして言い返す言葉を持たずにただ沈黙を選んだ敗北の記憶――が、薄い膜の向こう側へと追いやられる気がしたからだ。
ボコボコと湯が沸騰し始め、ケトルが震える。その音は、暮葉にとって唯一の「味方」だった。言葉を持たない湯気だけが、彼女を急かさず、責めず、ただそこに在ることを許してくれる。
だが、逃避の時間は長くは続かない。
カウンターの端には、現実という名の怪物が書類の束となって積み上げられていた。保健所への営業許可申請書の写し、食品衛生責任者講習の修了証、仕入れ先リスト、メニューの原価計算表、そして町内会への挨拶回りの日程表。それらは冷徹な事実として、暮葉がこの場所で生きていくためには「手続き」という儀式を通過しなければならないことを突きつけてくる。
暮葉は熱い白湯を一口啜り、温度を内臓に落とし込んでから、覚悟を決めて書類に向かった。
「冷ケースの温度管理記録、よし。ダクトの清掃業者手配、完了。あとは……」
独り言は、思考を現実に縫い止めるためのアンカーだ。
失敗は許されない。かつて彼女は、他人の思惑という見えない糸に絡め取られ、自分の居場所を失った。だからこそ、ここではすべてを「記述されたルール」の中に収めたかった。衛生管理基準に従い、契約書に基づき、数値と記録によって店を運営する。そこに感情や曖昧さが入り込む余地がなければ、誰も傷つかず、誰にも侵食されずに済むはずだ。彼女が求めているのは成功や繁盛ではなく、ただ呼吸が乱されないための「安全な手順」だった。
カラン、コロン。
再びカウベルが鳴ったのは、暮葉が仕入れ伝票と格闘している最中だった。朝の散歩を日課としている近所の老人、野口だ。彼はこの店の古い常連であり、祖母の時代からこのカウンターの隅を定位置としてきた、いわばこの店の歴史の一部といえる存在である。
「よう、早いねえ」
「おはようございます、野口さん」
暮葉は反射的に口角を上げ、営業用の仮面を瞬時に貼り付ける。
「精が出るね。澄江さんが引退して寂しくなるかと思ったが、孫娘がこうして店を開けてくれるんだ、町内会の連中も喜んでるよ」
「ありがとうございます。まだ、準備中の身ですけど」
「いいや、立派なもんだ。ほら、これ。畑で採れたんだ、持っていきな」
野口が差し出したのは、土がついたままの太い大根だった。無造作に新聞紙にくるまれたそれは、彼なりの親愛の情と、この町特有の「お裾分け」という文化の象徴だ。
「……すみません、助かります」
「何言ってんだ。若いのが戻ってきたんだ、これくらい当然だろ」
当然。その言葉が、暮葉の胸の奥に小さな棘のように刺さる。
彼らに悪気がないことは分かっている。むしろ、これは混じりけのない善意であり、新しい店主を歓迎する温かな儀礼なのだ。だが、その温かさこそが暮葉を畏縮させた。善意は負債だ。受け取れば返す必要がある。笑顔には笑顔を、大根には感謝を、そして「この町の一員」としての振る舞いを。それは見えない鎖となって、暮葉の手足を徐々に、しかし確実に縛り上げていく。
「澄江さんの味、楽しみにしてるからな」
「はい、頑張ります」
「無理はすんなよ。何かあったらすぐ言え、みんな味方だ」
「……はい」
野口は満足げに頷くと、短い滞在で店を後にした。去り際、彼は暮葉に手を振ったが、暮葉はその手が自分を守る盾なのか、それとも逃げ場を塞ぐ柵なのか、判別がつかなかった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
暮葉はカウンターの上に残された大根を見つめた。土の匂いが、コーヒーの香りと不協和音を奏でている。
「味方、か」
口の中で転がした言葉は、砂のようにジャリついた。
かつての職場でも、最初は皆が「味方」だった。けれど、ひとたび歯車が狂い、噂という毒が回った瞬間、彼らの瞳から光が消え、無関心あるいは軽蔑の色が宿ったことを、暮葉は片時も忘れていない。人の心は移ろいやすく、善意は容易に刃へと変わる。
だからこそ、期待させてはいけない。深入りしてはいけない。適切な距離と、完璧な手順で、表面上の平穏を維持しなければならない。
暮葉は冷めかけた白湯を飲み干し、再び書類の山へと視線を戻した。文字の羅列だけが、裏切ることのない真実に見えた。
しかし、ふと視線を上げた先、店の奥にある本棚が目に入った瞬間、彼女の手が止まる。
祖母が集めた古書が並ぶその棚は、店の歴史を語る重厚な調度品の一つに過ぎないはずだった。だが、今の暮葉には、その棚が単なる家具以上の「何か」を孕んでいるように見えてならなかった。微かな違和感。整然と並んだ背表紙の中に、一つだけ呼吸のリズムが異なるものが混じっているような、奇妙な感覚。
「……気のせい、だよね」
暮葉は首を振り、意識を無理やり目の前の現実――店の再開に必要な数々の書類――へと引き戻した。
見ないふりをする。それは彼女がこれまでの人生で習得した、最も得意で、最も悲しい処世術だった。
昼が近づくにつれ、店の前の通りには人の気配が増していった。観光客の笑い声、地元住民の挨拶、車の走行音。それらはガラス一枚を隔てた向こう側の出来事でありながら、波のように押し寄せ、店内の静寂を侵食しようとする。
暮葉は準備の手を休めず、ひたすらにグラスを磨き、床を掃き、豆の選別を続けた。動いていなければ、思考の隙間に不安が入り込んでくるからだ。
祖母は言っていた。「店は舞台よ、暮葉。お客様が入ってきた瞬間から、あなたは店主という役を演じるの」と。
今の自分は、果たしてうまく演じられているだろうか。
祖母が残したエプロンは、暮葉の身体には少し大きすぎた。紐をきつく締め上げても、どこか借り着のような心許なさが拭えない。
午後、配送業者が追加の豆と消耗品を運び込んできた。
「カフェ・薄灯さんですね、ハンコお願いします」
「はい、ご苦労様です」
事務的なやり取り。伝票にサインをするペンの走りが、自分の名前を刻む行為であるにもかかわらず、どこか他人の筆跡のように感じられる。
段ボールを開封し、中身を確認する。注文通りの品が揃っていることを確認し、棚に収めていく単純作業。その反復だけが、暮葉の脈拍を正常な範囲に留めていた。
だが、棚の奥にコーヒーフィルターの箱を押し込んだとき、指先が何かに触れた。
埃を被った古い木箱だ。祖母の文字で『備品・予備』と書かれたラベルが貼られている。
蓋を開けると、中には乾燥したラベンダーの束と、封蝋用の蝋の粒、そして見たこともない意匠のスタンプが入っていた。
「……なに、これ」
ラベンダーの香りは、祖母がいつも纏っていた匂いだ。それは懐かしさを呼び起こすと同時に、胸の奥底に眠っていた正体不明の焦燥感を刺激した。ただのカフェの備品にしては、あまりにも儀式めいている。
暮葉はその木箱を、あえて見なかったことにして棚の奥へと戻した。今は余計なノイズを入れたくない。今はただ、この店を「普通のカフェ」として機能させるための準備だけで手一杯なのだ。
夕暮れが迫り、店内に差し込む光が茜色に変わる頃、再び来訪者があった。今度は町内会の役員を名乗る中年の女性たちだ。
「あらあ、暮葉ちゃん。大きくなって」
「おばあちゃんにそっくりねえ」
「再開のお祝い、今度みんなでするからね」
彼女たちの言葉は砂糖菓子のように甘く、そして粘着質だった。好奇心という名の無邪気な瞳が、暮葉の表情、服装、店内の様子を舐めるように観察しているのが分かる。
「ありがとうございます。……でも、まだ不慣れで、ご迷惑をおかけするかもしれないので」
暮葉は言葉を選び、慎重に、防壁を築くように答える。
「何言ってるの、水臭いわねえ。みんな家族みたいなものじゃない」
家族。その言葉の響きが持つ暴力性に、彼女たちは気づいていない。家族だから踏み込んでいい、家族だから隠し事はなしだ、家族だから――。
「……そうですね。ありがとうございます」
暮葉は微笑んだ。顔の筋肉が引きつりそうになるのを、必死の理性で抑え込みながら。
嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように、彼女はただ頭を下げ、相槌を打ち、彼女たちが満足して帰っていくのを待った。
ようやく彼女たちが去り、店に本当の静寂が戻ったとき、外はもう夜の帳に包まれていた。
暮葉は深く、重い吐息を漏らし、カウンターに両手をついた。
疲労が鉛のように身体の芯に沈殿している。肉体的な疲れではない。自分という存在を削り、相手の求める形に合わせようとし続けた、魂の摩耗だ。
「……大丈夫、たぶん」
口癖のように呟く。それは自己暗示であり、祈りでもあった。
ふと、視線が再び本棚へと向かう。
昼間よりもその存在感は増していた。闇に沈んだ店内で、本棚の輪郭だけが奇妙に浮き上がって見える。背板の隙間から、昼間は感じられなかった冷気が、糸のように細く流れ出している気がした。
いや、気のせいだ。換気が不十分なだけだ。あるいは、疲れているから幻覚を見ているのだ。
暮葉は自分に言い聞かせ、逃げるように厨房の明かりを落とした。
しかし、その背中に張り付いた視線のような感覚は、店を出て鍵を掛ける瞬間まで、決して消えることはなかった。
薄灯坂の夜風は、朝よりも冷たく、そしてどこか別の世界の匂いを孕んでいるように思えた。
次の更新予定
2025年12月25日 19:00
祖母のカフェを継いだら、閉店後の本棚が異世界の書架街へつながっていて――“白紙事件”の謎と私の境界線を、紅茶の温度で取り戻す話 後学 砂底 @kou993101
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