激辛レッドと無彩の夜
mynameis愛
第1話 激辛レッド、点火
2026年7月上旬。神田駅から少し歩いた雑居ビルの四階、窓の外は蒸し暑い夜気で、看板の光がにじんでいた。遥希は小さな開発室の机に肘をつき、ノートの端にボールペンの先を立てる。ページの上には、同じ項目が何度も書き直されていた。
《配線順:黄→青→黒。発熱:左端。原因:接触不良ではなく、参照値の揺れ》
半田の匂いが残る部屋で、遥希は一度息を吸って、吐いた。机の上には分解した機械の腹が開き、細い線が蜘蛛の巣のように走っている。彼は「昨日の自分」を置き去りにしないために、失敗の理由を必ず文章にして残す。そうしないと、次の失敗が同じ顔で来る。
腹が鳴った。コンビニのおにぎりは冷えきっていて、海苔は少し湿っている。遥希がかじった瞬間、窓の外のネオンが、ふっと灰色に落ちた。
まばたきの間。赤も青も、ただの薄い影になる。
遥希は噛むのを止め、椅子を半歩引いた。「……今の、見間違いじゃない」
机の隅に置いた、掌サイズの箱に手が伸びる。透明な小窓の奥に針があり、簡単な目盛りが描かれている。遥希が何百回も失敗して、何百回も直した装置――彩度計。
電源は入れない。まだ早い。そう自分に言い聞かせてきた。だが、窓の外の看板は元の色に戻り、戻ったはずなのに、喉の奥だけが冷たくなる。
遥希はノートを開き、さっきの現象を書き足した。《23:41 ネオンの赤が灰色へ瞬断。周囲音は変化なし。自分の心拍、上がる》。書いている間に、手の震えが収まる。彼は、震えを「観察」に変える癖を身につけていた。
翌朝、秋葉原。中央通りの人波は早い時間から濃く、店先のスピーカーが元気よくセールを叫んでいる。遥希は改札を出たところで立ち止まり、ポケットの中の彩度計を確かめた。昨夜の出来事を、誰かに話して笑われるのは嫌だった。だから、証拠を取る。
激辛ラーメンの看板が見えた。赤地に黒い文字。店の前で、女が腕を振り回している。
「ねえ、聞いて! 夏こそ熱くて辛いものを食べたいんだってば!」
声が通りに跳ねて、通行人が一瞬だけ振り向いた。女は自分が注目されたことを気にせず、店の暖簾を勢いよくくぐる。遥希も後に続いた。理由は分からない。けれど、昨夜の灰色が頭から離れず、赤い看板に吸い寄せられた。
店内は狭く、卓上の唐辛子が小瓶で並んでいた。女はカウンターに肘をつき、メニューも見ずに言う。
「一番辛いの。あと、追い辛。さらに追い辛」
店員が目を丸くする。「えっと……」
「できるでしょ? 夏なんだから」
遥希は隣の席に座り、静かに水を飲んだ。女は涼しい顔で箸袋を割き、割いたまま指で遊んでいる。視線だけがやたらと鋭い。店内を、客を、厨房の奥を、値踏みするように見回していた。
「……辛いの、好きなんですか」
遥希がつい口にすると、女はぱっと笑ってこちらを見る。
「好き。辛いのってさ、分かりやすいじゃん。食べた瞬間、体が『生きてる!』って言うでしょ」
「……分かりやすい、か」
遥希は自分のノートを思い出した。失敗の理由も、分かりやすく書ければいいのに。そう思った瞬間、店の照明がすっと色を失った。
赤い提灯の印刷が薄くなり、卓上の唐辛子がただの灰色の粉みたいに見える。店内のざわめきが、急に消えた。客の会話が止まり、誰かが箸を落としても、音がやけに遠い。
女の笑顔が消えた。代わりに、喉を鳴らして息を飲む。けれど、すぐに彼女は、いつもの大声で場を裂いた。
「……あれ? ねえ、なんか暗くない? え、停電? 店長ー!」
その叫びが、薄い膜を破ったみたいに、店員の動きが戻る。だが色は戻らない。遥希の心臓が、昨夜より速く打った。
「見えるなら、測れる」
遥希はポケットから彩度計を取り出した。指先が汗で滑る。電源スイッチを押す。いつもなら、ここで針が途中で止まり、または妙に揺れて、彼はため息をつく。失敗の回数だけ、指が覚えている。
――ところが。
装置の中で、小さな回路が滑らかに走った。針が、ためらいなく跳ね上がる。目盛りの数字の横で、細いランプが青く点いた。
遥希は息を止めた。「動いた……」
女が彩度計を覗き込み、目を細める。「なにそれ。温度計? それとも、辛さ計?」
「色の……揺れを測る装置です」
言いながら、遥希は自分でもおかしいと思った。色の揺れ。そんな言い方、誰が信じる。けれど、針は確かに振れている。しかも、店の奥――厨房の陰のほうへ向けると、針がさらに沈んだ。
女もその方向を見る。灰色の空気が、そこだけ濃い。店の壁紙の模様が、剥がれ落ちるように薄れていく。
「……ねえ。あんた、これ、今日たまたま持ってきたわけ?」
「昨日、変なものを見て。確かめたくて」
女は一瞬だけ口角を上げた。計算が終わった顔だ。次の瞬間、彼女は椅子を蹴って立ち上がった。
「じゃあ、確かめよ。私、こういうの……放っておけないの」
遥希は首をかしげる。さっきまで「得」しか見ていない目だったのに。女は振り返りざま、短く言った。
「私の名前、しおり。いまから、厨房の奥、見に行く。あんたは測って。針が落ちたら教えて」
「勝手に——」
言い終わる前に、しおりは厨房の扉を開けた。熱い湯気が、いつもなら白く見えるのに、今日は灰色の煙みたいに重い。
遥希は立ち上がり、彩度計を握りしめた。後ろの客が、遅れて騒ぎ出す。「何だよ、色が……」。「俺、さっき何話してたっけ」。記憶の端が、砂みたいに崩れていく声。
遥希の頭にも、薄い霧が差し込む。昨夜のノートの文字を思い出そうとして、少しだけ遠い。だが、手の中の彩度計の針ははっきりと動き、警告みたいに震えている。
「しおりさん!」
遥希が呼ぶと、扉の向こうから返事が飛んだ。
「辛いの、持ってきて! なんでもいい! 辛いの!」
遥希は半笑いになりかけて、すぐに真顔に戻った。笑っている場合じゃない。けれど、しおりの声は不思議と胸を支える。曖昧な恐怖が、具体的な用事に変わる。
卓上の唐辛子の瓶を掴み、遥希は厨房へ踏み込んだ。足元のタイルが、色を失ってひやりと冷たい。灰色の空気の奥で、何かが「静かになれ」と囁いている気がした。
彩度計の針が、さらに落ちる。
遥希は唇を結び、ノートに書いたはずの言葉を、心の中で繰り返した。――大丈夫。原因は必ずある。見えるなら、直せる。
そして彼は、何百回も失敗した発明が、今、確かに動いていることを思い出す。動いたなら、止まるまで見届ける。自分の癖を直すみたいに、街の色も取り戻す。
彩度計の黒い画面に、自分の顔が薄く映った。そこに重なるように、もっと幼い目つきの自分がいる気がした。失敗ログの山に埋もれて、机の角で額を冷やしながら、それでも線を引き直していた夜の自分。
遥希は小さく息を吐き、その影へ言葉を投げる。
「大丈夫、乗り越えられるよ」
言った瞬間、胸の奥の熱が形を持った。震えが指先から引いていき、箸を持つ手が落ち着く。
しおりの背中が湯気の向こうに見えた。彼女は鼻をつまみながら、唐辛子の瓶を受け取る。
「よし。じゃあ……点けようか」
しおりが瓶を振った瞬間、赤い粒が舞い、灰色の湯気の中で一瞬だけ色が弾けた。遥希は、その小さな赤に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
赤い粒が落ちた場所だけ、空気がわずかに軽くなる。だが次の瞬間、その赤は吸い取られるように薄まり、壁の隅に広がる灰色の染みへ流れ込んだ。染みの中心は、まるで濡れた紙みたいに光を飲み込んでいる。
遥希は彩度計を近づけた。針が、底まで沈みかける。
「……そこ、触るな」
自分の声が低くて、遥希は驚いた。しおりは振り向き、肩をすくめる。
「触らないと分かんないじゃん。ほら、辛味は攻めだよ。あんたのは守り?」
しおりは唐辛子の瓶の蓋を開け、指先にほんの少しだけ粉をつけた。舐める前に、わざと大げさに眉をひそめる。
「……うわ。やっぱり強い。これ、効くかも」
彼女が息を吐いた瞬間、しおりの頬に薄く血が巡り、色が戻る。灰色の染みが、ほんの一呼吸ぶんだけ縮んだ。遥希は目を見開き、彩度計の針の跳ね返りを見逃さない。
「戻った……少し、だけど」
「でしょ。辛いのは裏切らない。――でも、やりすぎると倒れるから、そこはあんたが止めて」
しおりは笑った。冗談みたいに言うのに、目は真剣だ。遥希は頷き、ノートを取り出して走り書きする。《辛味刺激→体温上昇→灰色縮小? 彩度計:回復反応あり》。
厨房の奥で、スープの鍋が弱くぶくぶくと鳴った。灰色の静けさが、怒ったように濃くなる。遥希は彩度計を握り直し、しおりと並んで一歩踏み出した。
「ねえ、遥希」
「……何ですか」
「その針が下がったら言って。私、もっと辛いの、行くから」
遥希は返事の代わりに、針の震えをしおりに見せた。色の異変が、もう“見える”。
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