第2話 数字で見る街のかたち

 インフラ管理課での最初の一週間は、予想以上に「紙と数字」にまみれた時間になった。


 朝、出勤して机に座る。

 木箱から羊皮紙を束で取り出し、一枚ずつ目を通して、必要な項目を書き抜く。

 昼前には、読み終えた分を帳面に整理し、地図の上に小さな印を付ける。

 午後は、別の箱を開けて同じことを繰り返す。


 やっていることだけ見れば、前の職場とそう変わらない。

 ただ、そこに映っているのが「インターネット回線障害」や「道路陥没」ではなく、「魔力配管の明滅」や「浮遊街区の揺れ」になっているだけだ。


 紙の山に向かう作業は、身体の疲れと引き換えに、頭の中のざわつきを静かにしてくれる。

 少なくとも今のところは、心臓が変な跳ね方をする気配もない。


◆ ◆ ◆


「様子はどう? うちの紙の山と喧嘩してない?」


 三日目の午前、インクを足そうと手を止めたタイミングで、マルグリットが私の机を覗き込んだ。


「今のところは、仲良くやれていると思います。報告の形式が揃っているので、分類しやすいです」


 私は帳面を開き、作りかけの表を見せる。

 地区ごと、設備ごと、事象ごとにマス目を分け、横に件数を書き込んでいる。


「第三区南側・魔力配管・夜間供給停止、十件。

 明滅の苦情、二十件。

 雑音・異音、五件……といった感じで集計しています」


「ふむふむ。最初からここまで形にできる新人は、そう多くないわよ」


 マルグリットは、感心したように頷いた。


「もともとの様式がそこまで悪くないのは認めるけれど、それを一度全部引き剥がして、こういう表にし直すのは結構な手間だからね」


「前に似たようなことをしていたので、その癖が残っているんだと思います」


 危うく「前の世界」と言いかけて、言葉を濁す。

 マルグリットは、特に深く踏み込もうとはしなかった。


「去年一年分で、その調子なら上出来よ。課長も助かるわ。……三年前の分も、同じ形で見られると一番いいんだけど」


「三年前ですか?」


「ええ。あの頃は、今と担当者が違っていてね。集計の仕方もバラバラなのよ。だから比べづらくて」


「なるほど。……時間をもらえれば、やってみます。古い方が筆跡も癖もバラバラなので、少し時間はかかりそうですけど」


「今週いっぱいは、その辺りの整理に専念してくれていいわ。現場の人たちも、そろそろ“去年と比べてどうか”って数字が欲しい頃だろうし」


 マルグリットにそう言われて、私はひとつだけ深呼吸をした。


 一年分でもなかなかの量だが、三年前までさかのぼるとなれば、その二倍三倍になる。

 それでも、こういう作業は嫌いではない。むしろ、得意な分野だった。


◆ ◆ ◆


 午前中いっぱい数字と向き合ったあと、インフラ管理課の昼休みは、思ったよりも賑やかだった。


 正午を少し回ったあたりで、誰かが湯沸かし用の魔道具に手を伸ばす。

 金属製の筒の側面に魔力を通すと、内部で水が沸き、ほどなくして焦げた豆のような香ばしい匂いが立ち上がった。


「お疲れさまです。コーヒー、いけます?」


 ヨシュアがマグカップを片手に、私の机の前に現れる。


「いただきます。……それ、本当にコーヒーなんですね」


「“一応は”ね。魔法大学の連中が面白がって育ててる豆らしいけど、味は日によって微妙に違うんですよ。今日のは当たりのほう」


 カップを受け取り、一口飲む。

 前の世界で飲んだ缶コーヒーに比べればずいぶん薄いが、香りは悪くない。


「思ったより飲みやすいです。これなら何杯かいけそうですね」


「二杯目から、“もう少し濃くてもいいかな”ってなるんですよ。それで調子に乗って濃くすると、マルグリットに『午後の仕事に支障が出るからやめなさい』って怒られる」


「カフェインの力に頼りすぎると、あとで反動がきますからね」


 前世の夜勤明けを思い出しながら言うと、ヨシュアが興味深そうに眉を上げた。


「なんか、実感こもってますね」


「似たようなことを、前にもやっていたので」


「前にも、か」


 ヨシュアはそれ以上は掘り下げず、代わりに私の机の上の帳面を覗き込んだ。


「で、紙の海と格闘して三日目の新人さん。何か“ヘンなとこ”は見えてきました?」


「まだ全体を見渡せているわけではないですけど……気になる地区はいくつかあります」


 私は帳面の、端に色付きの印を付けておいたページを開く。


「たとえば、第三区の南側。魔力配管に関する苦情が、ここ二年でじわじわ増えています。夜間にランプがチカチカするとか、一時的に魔力供給が止まるとか」


「ああ、あの辺ね」


 ヨシュアはすぐに場所が浮かんだようだった。


「最近、住宅が増えてるんですよ。元からある幹線に枝管を継ぎ足してるから、現場でも“なんか前と違う”って感覚はある」


「地図と照らし合わせてみても、幹線から少し外れた枝のあたりが特に多いです。増え方だけで言えば、“危険”というより“これから要注意”という印象ですけど」


「そういうのを、“今のうち”に印つけておけるかどうかが大事なんですよね」


 ヨシュアはカップを軽く振りながら、壁に貼った地図を見た。


 私の机の横の壁には、粗い王都地図が貼られている。

 その上に、私が書き込み始めた小さな印が、ところどころに散らばっていた。


 赤い印は、配管関係。

 青は、浮遊街区支柱。

 緑は、転移門。

 印の大きさは、件数の多さに応じて少しだけ変えてある。


「浮遊街区の支柱のあたりも、印が増えてますね」


「はい。第四区の浮遊街区。床石が少し沈むとか、酔ったような揺れを感じるとか、住民からの報告が去年あたりから目立つようになってきています」


「定期点検のときにも、支柱の根元の魔力流に“波”が出てるって話は聞きました。数値は基準値内だけど、体感としては増えてる感じがするって」


 ヨシュアは、自分の机の引き出しをごそごそと探り、小さく折り畳まれた紙を取り出した。


「こないだ見に行ったときのメモ。こういうのも、必要ならコピーして渡しますよ」


「助かります。現場の記録と苦情を地図上で重ねていくと、きっと見えてくるものがあると思うので」


 私は紙を受け取り、ざっと目を通す。

 数値だけ見れば、本当に基準値の範囲内だ。ただ、“前はもっと安定していた”という一文が、最後の方に小さく書き添えられている。


「こっちとしては、“今までと変わってきている”って体感があるから、こうして報告を上げるんですけどね」


 ヨシュアは苦笑した。


「数字しか見てない人からすると、『基準値内だから問題なし』で切り捨てたくなる。でも、苦情も現場も同じ方向を向いてるなら、そろそろ“何かが変わってきている”って考えた方がいい」


「そういう違和感を、ちゃんと並べておくのが、私の仕事なんでしょうね」


「ですね」


 その言葉に、少しだけ背筋が伸びる。


「転移門の方はどうです?」


「第二次集計の途中ですけど──」


 私は別のページをめくる。


「第二区の商業街と第五区の倉庫街を結ぶ転移門。この組み合わせを使ったときの、耳鳴りやめまいの苦情が、去年の後半から急に増えています。件数自体はまだ大したことはないんですけど」


「体感で言うなら、“増えてる”のは間違いないですね。商人さんたち、よく怒鳴り込んできますから」


「怒鳴り込まれるんですか」


「『荷物が崩れた』『高価な魔道具の調子がおかしくなった』『客が気分が悪くなった』、まあ色々です」


 言いながら、ヨシュアは少し肩をすくめた。


「魔術師の先生たちは、『転移門の誤差は設計上の範囲内』って言うんですけどね。こっちはそれを何十回も説明する係」


「設計上の範囲と、利用者が感じる不安の範囲は違いますからね」


 前の職場でも耳にタコができるほど繰り返された言い回しが、自然に口をついて出る。


「数字上は誤差でも、その誤差が積み重なった先に何が起きるかを考えるのも、危機管理の仕事、ですよね」


「……やっぱり、こういう話が通じる人だ」


 ヨシュアは感心したように笑い、カップの残りを飲み干した。


「じゃ、引き続きよろしくお願いします、“違和感マップ担当”さん」


「そんな肩書き、いつの間に」


「今つけました」


 そう言い捨てて、自分の席に戻っていく背中を見送りながら、私は少しだけ笑った。


◆ ◆ ◆


 午後、三年前の記録箱に手を伸ばした。


 去年のものより、紙は少し黄ばんでいる。

 筆跡も今より硬く、文章も事務的で、余計な一言があまりない。


 ──「第三区・南側魔力配管、接合部からの漏れ。応急補修実施」。

 ──「第四区・浮遊街区支柱、定期点検にて軽微なひび割れを確認。補修済」。

 ──「第二区商業街転移門、魔力制御の乱れにより一時停止。再調整後、運用再開」。


 三年前は、今よりも「目に見える壊れ方」が多かった。

 配管から実際に水漏れがし、支柱にひびが入り、転移門が止まっている。


(今増えているのは、そういう“目に見える故障”じゃない)


 私は、去年と三年前の表を並べてみる。


 三年前に一度だけ起きた「配管の漏れ」が、

 去年は「明滅」「一時停止」「異音」といった、より小さくて頻度の高い現象に変わっている。


 三年前の「支柱のひび割れ」は、

 去年は「住民が体感する揺れ」や「沈み込み」として現れている。


 転移門についても、三年前は「一度止まって再調整された」という大きな出来事だったのが、

 去年は「耳鳴り」「めまい」「荷物の揺れ」といった、細かい訴えに分散している。


 数字だけ見れば、「三年前の方がよほど派手な事故が多い」とも読める。

 ただ、今は、生活の隙間に入り込んでくるような“違和感”が、じわじわ増えている。


(ここで“安全になった”と見るか、“崩れる前の静かなきしみ”と見るかで、だいぶ話が変わる)


 そこまで考えて、私はペン先を止めた。

 結論を急ぐのはまだ早い。数字は揃い始めたばかりだ。


 代わりに、地図の方に目を向ける。


 第三区・南側の印。

 第四区・浮遊街区の印。

 第二区・商業街の転移門の印。


 ばらばらに記録したはずの点が、王都中心部から斜めに走る一本の線の近くに、自然と集まり始めている。


 壁の地図に薄く描かれた線──都市建設時に敷設された、主な魔力配管の幹線だ。


(幹線そのものに異常が出ている、というより、幹線の負荷のかかり方が変わっている、くらいの可能性……かな)


 仮説にしても、まだ情報が足りない。

 ここで「絶対にそうだ」と思い込んでしまうと、見落としが増える。


 私は、自分の手帳の端に小さくメモを書き込んだ。


 ──「第三区〜第四区〜第二区の幹線沿い:違和感系苦情の増加傾向?」


 最後の疑問符は、自分に対するブレーキでもある。


 前の職場で、「確証のない憶測を断定形で出した結果、後で説明に苦労した」ことが一度あった。

 ああいう失敗は、二度と繰り返したくない。


 気になることは、まず疑問形で残しておく。

 数字と現場の話が揃ってきたときに、初めて「仮説」から「説」に変えていけばいい。


 そう思ってペンを置いたところで、扉をノックする音がした。


「リナ、少しいい?」


 顔を出したのは、マルグリットだった。


「はい。今、三年前との比較をまとめていたところです」


「ちょうどいいわ。その表、少し見せてもらってもいい?」


 彼女は帳面を覗き込み、赤い印の並んだページをざっと眺める。


「……やっぱり、第四区の浮遊街区、増えてるわね」


「はい。揺れや沈み込みの報告が、三年前はほとんどなかったのに、去年は住民からの訴えが一気に増えています」


「それ、今度使わせてもらうわ」


 マルグリットは、少しだけ真面目な表情になった。


「明後日、第四区の浮遊街区で、住民向けの小さな説明会を開くことになってね。最近の揺れとランプの明滅について、“どれくらい起こっているか”を数字で説明したいの」


「説明会……ですか」


「第四区支所から、『インフラ管理課からも誰か来てほしい』って要請があったの。課長が現場に出るわけにもいかないから、今回は私と現場一人と、記録係を一人つけて、って話になってる」


 そこで、マルグリットが私を見る。


「記録係、やってみる?」


「……私が行っていいんですか」


「数字を一番見てるのは、今はあなたでしょ。まとめ役はこっちでやるから、当日はメモと、あと住民からの声をしっかり拾ってきてちょうだい」


 断る理由は、特に思いつかなかった。

 むしろ、数字で見ていた現象を、実際の現場と結びつける機会は貴重だ。


「分かりました。ぜひ、行かせてください」


「そう言うと思った」


 マルグリットは、少しだけ口元を緩めた。


「じゃあ、説明会用に簡単な資料を作りましょうか。難しい数字は要らないけど、『ここ数年で確かに増えている』ってことが分かるくらいには」


「件数の推移と、代表的な事例だけ抜き出せば、十分だと思います」


「グラフ的なもの、描ける?」


「棒グラフなら。手描きになりますけど」


「それでいいわ。住民説明では、ぱっと見で分かることが大事だから」


 前の世界で何度も聞いた言葉と同じ台詞が、この世界でもさらりと使われる。

 違うのは、今回は最初から「数字を扱う役」として期待されていることだ。


「じゃあ、今日と明日で叩き台を作って、明後日の朝に一度見せてください」


「了解しました」


 マルグリットが部屋を出ていくのを見送りながら、自分の胸の内に小さな緊張が生まれているのを自覚する。


 ここ数日は、紙と数字と地図だけを相手にしていた。

 明後日は、そこに「人」が加わる。


 揺れに不安を覚えている住民たち。

 揺れを「誤差」と判断してきた技術側。

 その間に立って話をするのは、マルグリットたちの仕事だとしても、そこに使われる数字を作るのは、私の仕事だ。


(前の世界でやっていたことと、本質は変わらない)


 ただひとつ違うのは、今回は最初から、「崩れる前に気づきたい」と思って動き始めていることだ。


 私は、新しい帳面を取り出し、表の枠線を引き始めた。


 第四区・浮遊街区・揺れ・明滅。

 三年前、二年前、去年、今年。


 小さな数字の積み重ねが、この街の「今」を形作っている。

 それをどう読み取るかは、私の肩にかかっていた。


 そう自分に言い聞かせながら、私は一本一本、線を引き足していった。

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