インフラ管理課の裏方係見習い

第1話 転生先も、やっぱり役所でした

 その夜、電話のベルは、鳴り止む気配を見せなかった。


「夜間窓口なんて、やるもんじゃないよなあ……」


 どこかの席から、疲れ切った声が聞こえる。

 住民からの苦情電話、システム障害のエラーログ、机の上で固くなったコンビニおにぎり。

 蛍光灯の白い光はじんじんと目に刺さり、パソコンの画面には「タイムアウト」の文字が虚しく並んでいた。


 地方都市の市役所、防災・インフラ担当課。

 私は、その中でも「どう見ても人手が足りないのに、仕事だけ増え続ける部署」の一員として、今日もいつも通り、泥縄の対応に追われていた。


「……よし、障害復旧ログは取れた。明日の説明用に簡単な資料も作って……」


 立ち上がろうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪む。

 心臓が一拍、嫌な跳ね方をした気がして、その次の瞬間には、足元の感覚がふっと消えた。


 机に額をぶつける鈍い音も、誰かの叫び声も、すべてが遠くなっていく。


(ああ、やっちゃったな。ニュースになったら「公務員また過労死」って見出しがつくやつだ……)


 苦笑いする余力もないまま、そんなことだけが頭をよぎり、意識は真っ黒な闇に飲み込まれた。


◆ ◆ ◆


 次に目を開けたとき、そこには見覚えのない天井があった。


 白く塗られた漆喰。木彫りの蔦の装飾。

 蛍光灯ではなく、カーテン越しに柔らかな陽の光が差し込んでいる。


(病院、じゃないよね……)


 上体を起こそうとして、自分の腕の短さにぎょっとした。

 丸みを帯びた小さな手。布団の感触に過敏に反応する肌。

 どう見ても、大人の身体ではない。


「お嬢さま、起きられましたか?」


 戸口の方から、見知らぬ女性の声がした。

 そちらを向くと、白いエプロンドレスを着た若い使用人が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「リナお嬢さま、具合はいかがです? 昨日は少し熱が出ていたと伺いましたが」


(リナ? お嬢さま?)


 名前と呼び方の組み合わせに、思考が一瞬止まる。

 次の瞬間、前世で読みあさった異世界転生ものの数々が、頭の中を駆け巡った。


(……転生、ってやつ? しかも“お嬢さま”ポジション?)


 そう思ったところまでが、この世界での「最初の記憶」だった。


◆ ◆ ◆


 そこから先の十数年は、振り返ってみればひどく駆け足だった。


 ここは、魔法都市グラン=セリア。

 私は、王都に屋敷を構える中堅貴族、アルディア家の三女として育った。


 家督を継ぐのは長男で、長女は既に婚約者が決まり、次男は軍務に就く予定。

 三女の私は、言ってしまえば「余剰戦力」に近い扱いだった。


 剣の稽古を受ければ、「まったく駄目というほどではないが、特筆する才能もないな」と言われる。

 魔法の素養を確かめられても、「努力すれば実務には困らない程度にはなるだろうが、宮廷魔術師を目指す器ではない」と評価される。

 舞踏や礼儀作法の授業では、「粗相をするわけではないが、印象に残りづらい」と微妙な顔をされる。


(つまり、“どこに出しても無難だけど、どこでもトップにはならない人材”、という評価ね)


 前世なら、「どの部署に回してもそこそこ便利に使える中堅職員」になっていたタイプだと思う。

 今回は、その縮図が貴族社会の中で繰り返されているだけだ。


 ただ、前世と違う点がひとつある。

 剣や魔法、社交では平凡な私が、なぜか「数字と記録」の分野だけ、妙に評価が高かったのだ。


 学問の授業で算術や統計の基礎を習えば、教師が驚くほど理解が早く、

 家の帳場を手伝えば、家令から「これは助かります」と何度も礼を言われた。


 使用人の勤怠表を整理し、出入金帳を見やすく書き換える作業は、前世の記憶と結びついて、ほとんど「思い出し作業」に近かった。


(こっちの世界で、いちばん“前の仕事”と地続きに感じるのが、よりによって帳簿と記録なんだから、人生って本当に妙なところでつながる)


 そんなことを考えていた十七歳の春、父に呼び出され、「今後の進路」の話をされることになった。


◆ ◆ ◆


「リナ。お前には、王都維持管理局へ出仕してもらうことにした」


 執務室で向かい合う父は、いつもの落ち着いた表情のまま、そう切り出した。


「剣や魔法の才で軍や宮廷に出るには、お前は少し穏やかすぎる。縁談で家として大きく得をする立場でもない」


「ええ、それは自分でも分かっています」


 自分がどう評価されているかは、家の空気を読めばだいたい察せる。

 そういう意味で、私は空気を読めないほど鈍くはなかった。


「だが、お前には数字を見る目があると、家令から聞いている。王都の役所であれば、その力も役に立つはずだ」


 父は机の上の書類に目を落とし、それから私を見た。


「配属先は、王都維持管理局インフラ管理課。王都全体の魔力配管や結界、浮遊街区、転移門などの維持管理を行う部署だ」


「……ずいぶん実務的なところですね」


 思わず本音がにじむ。

 父は、その言い方に少しだけ口元を緩めた。


「派手さはないが、王都を支える大事な仕事だ。お前のように淡々と記録を積み上げられる者には、向いているだろう。家としても、真面目に勤め上げれば悪くない評価を得られる」


 要するに、「家の名に傷をつけない程度にはちゃんと働け」ということだ。

 前世の上司の言葉遣いと、あまり変わらない。


「承知しました。インフラ管理課ですね」


「ああ。……あまり無理はするな」


 一拍置いてから添えられたその一言に、胸の奥が瞬間的にざらりとした。


(そこは、本当に気を付けたいところなんだけど)


 自分で苦笑しつつ、私は父に一礼した。


◆ ◆ ◆


 そして今日。

 私は王都の中心部にほど近い石畳の上で、ひとつ息を吐いた。


 白い石造りの大きな建物。正面には「王都維持管理局」と刻まれた石板が掲げられている。

 出入りする人々は、鎧でも礼装でもなく、質素なローブや事務服姿がほとんどだ。


(外観だけ見れば、ほぼ市役所か合同庁舎)


 前世の感覚がひょっこり顔を出し、自分で苦笑する。


 石段を上り、重い扉を押し開けると、受付カウンターと待合用のベンチ、それから行き交う職員たちの姿が目に飛び込んできた。紙とインクと人の気配が混じった空気は、懐かしいようで、やはり別物でもある。


「アルディア家三女、リナ・アルディアと申します。本日よりインフラ管理課に配属となりまして、参りました」


 受付で名乗ると、若い職員が慣れた様子で頷いた。


「インフラ管理課ですね。三階の奥になります。マルグリット、案内頼む」


「はーい」


 奥から現れたのは、肩までの栗色の髪をまとめた女性職員だった。

 年の頃は二十代後半くらいだろうか。淡い灰色の瞳は、よく動くが落ち着きもある。


「リナ・アルディアさんね。インフラ管理課のマルグリットです。今日から同じ課、よろしく」


「こちらこそ、お世話になります」


「そんなにかしこまらなくていいわよ。うちは“課内では全員同じ職員”ってことになってるから」


 あっさりと言われて、少し肩の力が抜けた。


「分かりました。……じゃあ、よろしくお願いします、マルグリットさん」


「ええ、よろしく。じゃ、ついてきて」


 三階に上がった廊下は、一階より少し狭く、その両側には扉がずらりと並んでいた。

 ところどころに積まれた文書箱と、魔力計測器らしき装置。

 紙と魔道具の匂いが混じる空間は、不思議と落ち着く。


「ここがインフラ管理課ね」


 マルグリットが扉を開けると、中には十数台の机と書類棚が並び、数人の職員がそれぞれの仕事に没頭していた。窓際では、誰かが魔道具の針を覗き込み、その隣では大量の羊皮紙が積み上がっている。


「課長、着任者です」


 部屋の奥に声をかけると、書類の山の向こうから、黒髪の男が顔を上げた。


 四十代前半ほどの年相応の皺。きっちりとした服装だが、表情のどこかに現場慣れした人特有の鋭さと疲労が同居している。


「インフラ管理課課長、グレン・ハルバートだ。リナ・アルディアで間違いないな?」


「はい。本日付で配属となりました。これからよろしくお願いします」


 きちんと頭を下げると、グレン課長は頷き、短く言った。


「ここは仕事の場だ。分からないことはそのままにするな。できないことをできると言うな。サボるな。──以上だ」


「分かりやすくて助かります。その方が、やりやすいです」


 思わず本音が出る。

 課長は口元をわずかに緩めた。


「言うことだけは一人前か。……マルグリット、聞いていた通りの口の回りだな」


「いい意味ですよね?」


 マルグリットが軽く睨むように言うと、課長は肩をすくめる。


「数字が分かるやつだと聞いている。なら期待しておく」


「頑張ります」


 そこへ、奥の机からひょいと手が上がった。


「新しい人?」


 声の主は、二十代半ばくらいの男性職員だった。

 浅く日焼けした肌に、金に近い茶色の髪。机の上には、書類と工具と何かの部品が混在しているが、不思議と“必要なものは把握している”感じがある。


「ヨシュア・ベルクです。現場回り多めの、雑用係寄り職員ってとこかな。よろしく、リナさん」


「リナで大丈夫です。こちらこそ、よろしくお願いします」


「お、話が早い。うちの課、だいたい名前呼びだから助かる」


 ヨシュアが気安く笑うと、マルグリットが「はいはい」と手を叩いた。


「挨拶はそのくらいにして。リナ、机を案内するわ」


「お願いします」


 部屋の窓際、書類棚の横にひとつ空いた机があった。

 インク壺とペン立て、それからまだ何も書かれていない帳面が数冊並んでいる。


「ここがあなたの席。今日からあなたは、“インフラ管理課の裏方係見習い”ね」


「裏方係見習い、ですか」


「そう。うちの仕事は、大ざっぱに言うと三つあるの」


 マルグリットは指を折りながら説明していく。


「ひとつは、ヨシュアみたいな現場担当。配管や結界柱、浮遊街区の支柱、転移門なんかを実際に見に行く係。

 もうひとつは、そこから上がってくる報告書や住民の苦情を整理して、記録と数字にする係。

 最後に、その結果を使って課長が王城やギルドや住民代表と調整する。……で、あなたには当面、その“記録と数字”のところをやってもらう」


「それなら、得意分野です」


 前世で嫌になるほどやった仕事に、構造がよく似ている。

 苦情と事故の報告を集めて分類し、一覧とグラフを作り、さらに説明用の資料に落とし込む。

 やり方さえ掴めば、ここでも同じことができるはずだ。


「よし。じゃあ歓迎の言葉代わりに、最初の仕事を渡そうか」


 グレン課長が、自分の机の横に置いてあった木箱を持ち上げ、こちらへと差し出した。


「受け取れ」


 両手で受け取ると、予想以上の重量が腕にのしかかってくる。

 中を覗くと、羊皮紙がぎっしりと詰め込まれていた。


「これは……?」


「去年一年分のインフラ事故報告と苦情の書類だ」


「一年分、全部ですか」


「安心しろ。最低限の仕分けはしてある。発生日と地区、設備の種別くらいはな」


 課長は当たり前のように言う。


「お前には、これをもう一段整理してもらう。地区ごと、設備ごと、事象ごとに分け直せ。特に──」


 ここで一拍置き、私の顔を見る。


「三年前と比べて“増えているもの”を、あとで教えてほしい」


「増えているもの、ですか」


「数字を見るときは、何が減ったかより、何がじわじわ増えているかに気を配れ。危ない変化は、たいていそこに出る」


 それは、前世で何度も聞かされた言葉とよく似ていた。

 老朽化した橋のひび割れ報告を眺めていた、元上司の背中が一瞬よぎる。


(増えているひび。増えている苦情。増えている小さな事故。

 たしかに、そういう“増え方”を放置した先に、大きな事故があった)


「分かりました。やってみます」


「分からなければ、マルグリットかヨシュアに聞け。それができるなら、あとは好きなようにやれ」


 そう言い残して、課長はまた自分の書類に視線を落とした。


「じゃ、腰を据えてもらおうか、裏方係見習いさん」


 マルグリットが軽く笑い、私の机の椅子を引いてくれた。


「最初の一週間は、ひたすら紙と数字と仲良くなるところからよ。嫌になったら、廊下の端まで散歩してきていいから」


「ありがとうございます。……たぶん、嫌にはならないと思いますけど」


 本音を言えば、少しわくわくしていた。


 椅子に腰を下ろし、木箱から一番上の羊皮紙を取り出す。

 ざらりとした紙の感触が指先に伝わった。


 ──「第三区・南側魔力配管にて、夜間の魔力供給が一時停止。住民より苦情多数」。


 発生日、場所、設備の種別、被害の程度。

 最後に、「最近夜中にランプがちらつくようになった」「前にも似たことがあった気がする」と、報告者の一言が添えられている。


(はいはい、知ってる。こういう文面、前の世界で何十枚も読んだやつだ)


 思わず心の中で苦笑する。


 ただ、今回は違う。

 前世では、すでに出来上がったインフラの上で発生した事後処理ばかりをやっていたが、この都市の仕組みについて、私はまだ何も知らない。


(だからこそ、まずは“記録の地図”を作って、この街を覚えないと)


 インクにペン先を浸し、帳面の一ページ目を開く。


「王都維持管理局インフラ管理課 事故・苦情一覧(前年分)」。


 そうタイトルを書き入れた瞬間、この世界での「仕事」が本当に始まったのだと、ようやく実感が湧いてきた。


 前世と同じように、数字と苦情と記録に向き合う日々。

 けれど今回は、少しだけ違う結末を掴みたい。


 そんなことを考えながら、私は二枚目の羊皮紙へと手を伸ばした。

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