第2話 消失の兆候

キャンパスの空は、午前の薄光を真綿のようにやわらかく吸い込んだまま、まだどこか眠たげだった。低く垂れ込めた雲の向こうには、太陽の存在が希薄にしか感じられない。

前夜から降り続いた雪は、アスファルトの輪郭を曖昧にぼかし、緩やかに残っていた。地面を覆う白は、歩くたびに革靴の重みでわずかに沈み込む。水分を多く含んだ湿り気を帯びているせいか、踏みしめる音が「キュッ」という乾いた音ではなく、「ザクリ」という、普段より低い、くぐもった音を立てた。その音は、静寂に包まれた朝のキャンパスに、妙に生々しく響いた。

浩は研究室のある北棟へ向かう長い坂道を歩きながら、かじかむ指先でポケットからスマホを取り出した。冷たい金属の感触が、素手の指に痛いほど伝わる。画面の明かりが、灰色の世界で妙に鮮やかに見える。まるで、モノクロームの風景に一点だけ色が灯ったかのように。

洋子からのメッセージが入っていた。

「少し遅れる、コーヒー買ってから行く」。

いつもの、何の変哲もない一文。語尾には、お気に入りの猫の絵文字が添えられている。彼女がよく使う、目を細めた猫の顔。それを見るだけで、彼女の表情が思い浮かぶ。しかし、その日常的な文面を見た瞬間、浩の胸の奥がチクリと痛んだ。彼女が昨夜見せた、あの硝子細工のように脆い表情が、記憶のどこかで薄くざらついていたからだ。窓際に立ち、雪を見つめていたあの横顔。透明で、儚く、今にも消えてしまいそうな。

――もしも私が雪みたいに消えたら、覚えててくれる?

冗談めかした口調だった。いつもの彼女らしい、突拍子のない比喩だったはずだ。それなのに、その言葉はどうにも胸に刺さったまま、抜け落ちてくれない。冷たい朝の空気が、その棘をさらに深く押し込んでくるようだった。浩はスマホを握りしめ、返信しようとして、やめた。何を書けばいいのかわからなかった。「了解」という素っ気ない一言では足りない気がする。だが、それ以上の言葉も見つからない。

坂道を登りきると、視界が開けた。北棟が目の前に立ちはだかる。灰色のコンクリートの外壁が、雪の白さと対照的だ。無機質で、冷たく、どこか拒絶的な印象を与える建物。だが、ここが浩にとっての日常の場所だった。

研究棟のエントランスに近づくと、ガラス張りの自動ドアが音もなく開いた。

途端、外気の冷たさよりも先に、熱気を含んだざわめきが押し寄せてきた。

それは物理的な暖かさではなく、人の密度と不安が生み出す、ある種の圧迫感だった。普段なら、講義へ向かう学生たちがまばらに行き交うだけの静かな一階ロビーだ。朝のこの時間は、まだ人もまばらで、靴音が反響するほどだった。だが今日は違った。掲示板の前、そして柱の陰、至る所に学生と職員が小さな塊を作って集まっている。

誰もが沈んだ顔で、手元のスマホを睨みつけたり、壁の電子掲示板を不安げにのぞき込んだりしている。話し声は小さいが、その密度が異様な熱を生み出している。耳を澄ますと、断片的な言葉が聞こえてくる。「本当らしいよ」「警察が」「また増えた」。それらの言葉が、ロビーの空気を重くしていた。

浩は人混みを避けるように、壁際を歩いた。視線を落とし、誰とも目を合わせないように。だが、周囲の不安は伝染するように、彼の心にも染み込んできた。

「また……誰かいなくなったらしいよ」

すれ違いざま、ダウンジャケットを着た男子学生が、隣の友人に潜めた声でそう言っていた。その声には、恐怖と好奇心が混じっていた。

「マジで? これで何人目?」

「わかんないけど、警察が来てるって」

小さく、しかし確かに耳に残る会話。

『また』、というのが気になった。昨日の今日で、何かが連鎖している。一つの事件ではない。複数の、同じような現象が。その事実が、浩の不安を増幅させた。足を止めて、彼らの会話をもっと聞きたい衝動に駆られたが、それは盗み聞きになる。浩は足を速め、階段へと向かった。

二階の研究室へ向かう階段の踊り場で、浩は下りてきた村上助手と鉢合わせした。

「あ、おはようございます」

浩は反射的に頭を下げた。

「やあ、浩くん。おはよう」

村上は昨日と同じ、人当たりの良い柔らかい笑みを向けてきた。だが、その目の奥には隠しきれない疲労と、深い戸惑いの影が色濃く落ちていた。徹夜明けのような、澱んだ空気をまとっている。眼鏡のレンズも、いつもより曇っているように見えた。髪も乱れ、シャツの襟も少しずれている。彼らしくない、だらしない様子だった。

「ニュース、見たか?」

村上の声は、いつもより低く、重かった。

「いえ……まだです。ロビーが騒がしいなとは思いましたけど」

「そうか」

村上は声を落とし、周囲を気にするように視線を巡らせた。階段の上下を確認し、誰も聞いていないことを確かめてから、さらに声を潜めた。その慎重さが、事態の深刻さを物語っていた。

「朝の通勤時間帯だけで、新たに二件だ。どちらも行方不明って扱いになってるが……内容が異様なんだ」

「異様、とは?」

浩の声も、自然と小さくなった。

「どっちも、"家族が覚えていない"って報告が上がってる」

浩は息を呑んだ。心臓が早鐘を打つ。胸の奥で、何かが冷たく収縮していく感覚。昨日の話が、現実になっている。いや、現実になりつつある。その認識が、浩の理性を揺さぶった。

「家族が……ですか? そんな馬鹿な」

浩の声は、否定しようとして、かすれた。

「普通じゃないよな。警察も最初は悪質な悪戯か、あるいは集団ヒステリーだと半信半疑だったらしい。けど、状況証拠が揃いすぎてるんだ」

村上は手すりを強く握りしめた。その指が白くなっている。彼もまた、この事態に動揺しているのだ。科学者として、助手として、冷静であろうとしているが、その内面では恐怖と困惑が渦巻いている。

「本人のカバンやスマホだけが現場に残されていたり、本人が住んでいたはずのアパートに生活用品があるのに、賃貸契約の記録が曖昧だったり……物理的な痕跡と、人の記憶が矛盾してる」

その説明を聞きながら、浩の脳裏には、様々なイメージが浮かんでは消えた。誰もいない部屋。残されたカバン。そして、その持ち主を誰も思い出せない。それは、ホラー映画の一場面のようだった。だが、これは現実だ。この大学で、今、起きていることなのだ。

昨日の学生の話――"ゼミの仲間はおろか、教授すら覚えていない"。

ただの不気味な噂話だと思っていたそれが、突然、現実的な質量を持って輪郭を結びつつある。抽象的だった恐怖が、具体的な形を取り始めている。それは、科学では説明できない何か。理性では理解できない何か。

「村上さん、そんな……まさか、昨日話していたのと、同じ現象が起きているんですか?」

浩の声には、動揺が隠しきれなかった。

「まだ断言はできないよ。科学者として、こんな非合理なことを認めるわけにはいかないからな。だが……何かが起きてるのは確かだ」

村上の言葉には、諦めに似た響きがあった。科学者としてのプライドと、目の前の現実との間で、彼は引き裂かれているのだろう。

階段を登ろうとして、村上はふと足を止め、一度だけ後ろを振り返った。その視線は、浩の背後、誰もいない空間を探るようだった。まるで、そこに何かがいると感じているかのように。その仕草が、浩の背筋に冷たいものを走らせた。

「洋子さんは?」

村上の声には、わずかな緊張が混じっていた。

「あ、彼女は少し遅れると。コーヒーを買ってくるそうです」

浩はスマホの画面を示した。猫の絵文字が、妙に明るく見えた。

「……そうか。ならいいんだ」

村上は少しだけ安堵したように息を吐き、真剣な眼差しで浩を見た。その目には、何か伝えたいことがあるようだった。だが、言葉にできない何か。

「気をつけるんだぞ。二人とも」

「え……」

気をつける、とは。誰に? 何に? 姿の見えない誘拐犯にか? それとも、正体不明の現象にか? どうやって気をつければいいのか、浩にはわからなかった。

浩は喉まで出かかった疑問を飲み込み、ただ頷いた。村上の背中は、逃げるように階下へと消えていった。その後ろ姿は、重く、疲れ切っているように見えた。

浩は、しばらくその場に立ち尽くしていた。階段の踊り場。窓からは、灰色の空が見える。雪は、まだ降り続いていた。

洋子が研究室に到着したのは、午前の講義開始を告げるチャイムが鳴る少し前だった。

「わ、ごめんごめん! 寒すぎて自販機の前から動けなくなっちゃった」

ドアを開けるなり、冷気と共に彼女の声が飛び込んでくる。その声は、いつもの明るさを保っていた。だが、どこか無理をしているような響きもあった。片手には湯気を立てる紙コップのコーヒー。もう片方の手には、浩の分も持っているようだった。小走りで入ってきたその頬は、外気でほんのりと赤らんでいた。白いマフラーに雪の結晶が幾つかついていて、室内の暖かさで溶け始めている。

「大丈夫だよ。……なんか、外が騒がしいの気づいた?」

浩が尋ねると、洋子は白いマフラーを首からほどきながら、表情を曇らせた。その動作は、いつもよりゆっくりとしていた。まるで、時間を稼いでいるかのように。マフラーをハンガーにかけ、コートを脱ぐ。その一つ一つの動作が、妙に重たく見えた。

「うん、スマホのニュース見た。行方不明事件……だよね。でも、記事の内容がちょっと変じゃない?」

彼女は自分のデスクにコーヒーを置き、浩の方を向いた。その目には、不安と疑問が混在していた。答えを求めているようでもあり、答えを恐れているようでもあった。彼女の手が、デスクの端を軽く握りしめている。

「家族が『そんな子は知らない』って言ってるって。……ねえ、浩くん。これって、やっぱり昨日の"噂"と関係あるのかな」

洋子の声は、確認を求めるようだった。否定してほしい、という願いが込められていた。浩は、その期待に応えることができないことを知っていた。

「……わからない。けど、偶然にしてはおかしすぎる」

浩は正直に答えた。嘘をついても意味がない。彼女は聡い。ごまかしても、すぐに見抜かれるだろう。村上から聞いた詳細――契約記録の曖昧さや、警察の困惑――を話すべきか迷ったが、彼女の不安げな瞳を見て、今はまだ黙っておくことにした。これ以上の情報は、彼女をさらに不安にさせるだけかもしれない。

浩は立ち上がり、窓の方へ歩いた。外を見る。雪は、まだ降り続けている。無数の白い点が、ゆっくりと、しかし絶え間なく、地上へと降り注いでいる。その光景は美しく、そして不気味だった。

重たい沈黙が、狭い研究室に落ちる。

二人とも、言葉を失っていた。何を言えばいいのか、何を聞けばいいのか、わからなかった。時計の秒針の音だけが、規則正しく時を刻んでいる。その音が、妙に大きく聞こえた。

換気扇の回る音だけが、やけに大きく響いた。

低い、機械的な唸り。それは、いつもは気にならない背景音なのに、今日はやけに存在感を主張していた。まるで、沈黙を埋めようとするかのように。

その沈黙の底で、洋子がぽつりとつぶやいた。

「人って……そんなに簡単に"いなかったこと"にならないよね?」

その声は小さく、震えていた。彼女は浩の方を見ずに、自分の手元を見つめていた。紙コップを両手で包み込むように持っている。その手が、わずかに震えているように見えた。

「当たり前だろ。記憶っていうのは脳内の神経ネットワークに刻まれた強固な情報だ。そう簡単に書き換わるものじゃない。物理的にも、情報的にも」

浩は努めて冷静な声を出した。科学者として、理性的に答える。データと理論に基づいて説明する。それが、彼の役割だった。彼女の不安を和らげる役割。

「普通なら、記憶はそこまで脆い構造じゃないはずだ」

その言葉には、自分自身を納得させようとする響きもあった。浩もまた、不安を抱えている。だが、それを表に出すわけにはいかなかった。

「うん。普通なら、ね」

洋子の声には、諦めに似た響きがあった。その「普通なら」という言葉が、今の状況が普通ではないことを暗に示していた。

洋子はふっと視線を外し、研究室の大きな窓際に立った。ガラスの向こう、鉛色の空から舞い落ちる雪をじっと見つめる。

その後ろ姿は、昨夜と同じだった。細く、頼りなく、そして何かを考え込んでいる。浩は、彼女が何を思っているのか、聞くべきか迷った。だが、言葉が出てこなかった。

外気の冷たさが伝わってくるのか、ガラスの表面はうっすらと結露していた。その曇りが、外の景色を柔らかくぼかしている。まるで、現実と夢の境界が曖昧になっているかのように。

「でもさ、雪の結晶は、温度や湿度の条件さえ揃えば一瞬で形を崩すよ。あんなに綺麗で複雑な形をしていても、融けてしまえばただの水。跡形も残らない」

洋子は、また雪の話をしていた。彼女にとって、雪は単なる自然現象ではない。何か、もっと深い意味を持つものなのだろう。存在の儚さの象徴。あるいは、記憶の脆さの比喩。

彼女の指先が、ガラスに触れるか触れないかの距離で止まる。その手は、何かに触れたいような、でも触れることを恐れているような、複雑な動きをしていた。

「それがもし、人の記憶にも起こるとしたら……条件さえ揃えば、私たちも雪みたいに」

その言葉は、途中で途切れた。最後まで言うのが怖かったのかもしれない。あるいは、言葉にすることで現実になるのを恐れたのかもしれない。

「そんなこと……」

浩は強く否定しようとした。

だが、言葉が続かない。

なぜなら、彼自身が心のどこかで疑い始めていたからだ。「村上の話していた噂は、単なる噂ではないかもしれない」と。論理では否定しきれない不気味な一致が、科学者としての理性を侵食し始めていた。物理的な痕跡と記憶の矛盾。それは、科学の常識では説明できない。だが、起きている。現実として。

浩は、自分の腕を見た。確かに存在する肉体。触れれば、温度がある。心臓が鼓動している。呼吸をしている。これが、存在の証明だ。だが、それだけで十分なのか? もし、誰も自分のことを覚えていなかったら? それでも、自分は存在していると言えるのか?

「……あはは、ごめん。ただの仮定の話だよ」

浩の強張った表情を見て、洋子は取り繕うように小さく笑った。

その笑顔は、いつもの彼女の笑顔とは違っていた。無理をしている笑顔。不安を隠そうとしている笑顔。だが、その目は笑っていなかった。

「でもさ、これだけは言えるよね。何かが消えていくとき、誰か一人でもそのことを覚えていれば、それは完全な"消失"とは言わないよね?」

浩は即座には答えられなかった。

昨日と同じ問い。けれど、状況が変わった今、その問いはより切実な響きを持って、胸の奥でひっそりと疼いた。

その問いは、単なる哲学的な思考実験ではなくなっていた。それは、生存に関わる問いだった。存在に関わる問いだった。もし、誰かが消えたとき、それを覚えているのは誰か。そして、自分が消えたとき、誰が覚えていてくれるのか。

浩は洋子の方を見た。窓際に立つ彼女の姿。透明で、儚く、美しい。

「……覚えてるよ」

浩は、ようやく口を開いた。声は小さく、かすれていた。

「何があっても、俺は覚えてる。洋子のこと」

その言葉は、約束だった。誓いだった。科学的な根拠のない、感情的な、だが確かな約束。

洋子は振り返った。その目には、涙が浮かんでいるように見えた。だが、それは光の加減かもしれない。彼女は微笑んだ。今度は、本当の笑顔だった。

「ありがとう、浩くん」

その声は、温かかった。

二人は、しばらく黙って立っていた。窓の外では、雪が降り続けている。無数の結晶が、それぞれの軌跡を描いて、地上へと降り注ぐ。

その光景は、美しく、そして不気味だった。

世界が、静かに変わりつつあることを、二人とも感じていた。

何かが、終わろうとしている。

そして、何かが、始まろうとしている。

昼過ぎ、薄暗い雲に覆われた研究室には、テレビの音が低く、ずっと流れていた。

普段なら静かな環境音として聞き流せるはずの気象ニュースやワイドショーの声が、今日ばかりは耳障りなノイズのように神経を逆撫でする。アナウンサーの抑揚のある声、コメンテーターの軽薄な笑い声、スタジオの拍手音。それらすべてが、今は不快な雑音でしかなかった。

浩はパソコンのモニターに向かい、気象観測データの整理を続けていたが、正直なところ、ここ一時間ほど作業は全く進んでいなかった。キーボードを叩く指が止まり、どうしても視線が部屋の隅にあるテレビ画面へと吸い寄せられてしまうのだ。集中しようとしても、三十秒と持たない。データの数値が目に入っても、その意味が頭に入ってこない。

画面の下を流れるニューステロップが、嫌でも目に飛び込んでくる。

《行方不明者の家族「そんな人は知らない」と証言》 《住民記録には存在するが、近隣住民との証言は一致せず》 《専門家「前例のない集団的な記憶錯誤か」》

赤や黒で強調された文字の断片が、鋭利な氷片のように心の中へ突き刺さる。一つ一つの言葉が、重い意味を持って浩の意識に食い込んでくる。記憶錯誤。証言の不一致。存在の曖昧さ。それらは、もはや単なるニュースの見出しではなく、自分たちに迫りつつある現実の予兆だった。

「……集団的な、記憶錯誤」

浩は小さくその言葉を反芻した。舌の上で、その言葉を転がしてみる。だが、どう考えても納得できない。そんな心理学用語で片付けられるような事象なのだろうか。もっと根本的な、世界のルールそのものが軋んでいるような違和感が拭えない。物理法則が書き換わるような、そんな恐ろしい予感があった。

浩は目を閉じ、深く息を吸った。冷たい空気が肺に満ちる。だが、それでも胸の奥にある不安は消えなかった。むしろ、時間が経つにつれて、その不安は膨らんでいく。雪だるまのように、転がるたびに大きくなっていく。

ふと視線を移すと、ソファに座った洋子が、膝の上でノートを広げていた。

昨日の続きだろうか、断片的なメモを走らせている。だが、その文字は乱雑で、いつもの彼女らしい丁寧さが失われていた。シャープペンシルを握る指先には力が入りすぎているようで、芯が紙を引っ掻くカリカリという音が、静寂の中で不規則に響いていた。その音は、まるで何かを掻きむしるような、切迫した響きを持っていた。

その横顔は真剣だが、どこか落ち着きがない。視線はノートに向けられているのに、意識は別の場所に飛んでいるように見える。書いては止まり、また書いては止まる。その繰り返し。

時折、ペン先が空中で迷うように細かく震えていた。彼女もまた、集中できていないのだ。不安に蝕まれているのだ。浩は、声をかけるべきか迷った。だが、何と言えばいいのかわからなかった。

部屋の空気は、重く沈んでいた。暖房は効いているはずなのに、どこか冷たさが漂っている。それは気温の問題ではなく、心理的な寒さだった。二人とも、言葉を交わさずにいた。言葉にすることで、現実が確定してしまうような気がしたからだ。

時計の秒針が、規則正しく時を刻んでいる。カチ、カチ、カチ。その音だけが、やけに大きく聞こえた。

「洋子……大丈夫か?」

浩が声をかけると、彼女は少し驚いたように肩を跳ねさせ、顔を上げた。その目は、どこか焦点が合っていないようだった。まるで、遠くを見ていたかのように。

「え……? うん。ちょっと、考え事してただけ」

洋子の声は、いつもより小さかった。力がなく、どこか空虚な響きがあった。彼女は笑顔を作ろうとしたが、その笑みは表面だけのものだった。

「不安なんだろ? 無理して平気なふりしなくていいよ」

浩の言葉に、洋子の表情がわずかに揺れた。驚き、安堵、そして諦めのような感情が、一瞬で通り過ぎていく。

「……わかる?」

「わかるよ。昨日のあの表情、忘れてないからな」

窓際で雪を見つめていた、あの儚げな横顔。浩の記憶に、鮮明に焼き付いている。

浩の言葉を聞いて、洋子はわずかに目元を緩めた。強張っていた肩の力が少しだけ抜ける。その変化は小さかったが、確かにあった。彼女は、自分の不安を隠す必要がないことを理解したのだろう。

「そっか。……浩くんにはお見通しだね」

彼女は自嘲気味に笑い、何か言いかけようと唇を開いた。その目には、何かを打ち明けようとする決意のようなものがあった。だが、その言葉が形になる前に――

その瞬間――。

バンッ、と乱暴にドアが開け放たれた。

その音は、研究室の静寂を暴力的に打ち破った。浩と洋子は、同時にドアの方を振り向いた。心臓が跳ね上がる。

「二人とも、すぐニュースを見ろ!」

飛び込んできたのは村上だった。いつも冷静な彼が、肩で息をし、髪を乱し、明らかに動揺している。その姿は、普段の彼からは想像できないほど取り乱していた。眼鏡が少しずれ、シャツのボタンも一つ外れている。まるで、走ってきたかのようだった。

「さっきの行方不明の件……一名、このキャンパス内の学生だと判明した!」

その言葉が、部屋の空気を一変させた。

浩と洋子は、弾かれたように同時にテレビ画面へ視線を向けた。

画面の中、現場リポーターが緊張した面持ちで、見慣れた大学の正門前でマイクを握っている。その背後には、浩たちが毎日通る正門が映っていた。いつも見慣れた景色が、テレビの中に映っている。それは、この出来事が遠い世界の話ではなく、自分たちの足元で起きていることを突きつけられるような感覚だった。

《速報です。本日未明より行方がわからなくなっている人物について、本学に在籍する理学部の学生である可能性が高いことが分かりました――》

リポーターの声は、努めて冷静さを保とうとしているが、その奥に緊張が滲んでいた。

《現在、大学関係者に緊急の聞き取りを行っていますが、証言に不可解な食い違いが生じています》

画面が切り替わり、大学の事務棟が映し出される。その前には、報道陣が集まっていた。

《所属ゼミの名簿には名前がありますが、ゼミ生や担当教授は『そのような学生は在籍していない』と回答しており……》

一瞬、部屋の空気が凍りついたようだった。

暖房の温風が急に冷たく感じられる。浩は、昨日感じた漠然とした違和感が、一気に巨大な質量を持って現実へと迫ってくるのを感じた。それは、もはや否定できない現実だった。この大学で、彼らのすぐ近くで、何かが起きている。

洋子は唇を震わせ、両手で自身の口元を覆った。その手も震えていた。顔は蒼白で、目は恐怖に見開かれている。

「……これ、完全に"同じ"現象だよね。昨日の村上さんの話と」

洋子の声は、かすれていた。

「ああ」

浩も頷いた。もはや、偶然だとか、噂だとか、そういう言葉で片付けられる段階ではなかった。

村上はドアにもたれかかるようにして、深く、重い息を吐き出した。その姿は、疲労困憊していた。まるで、重い荷物を長時間運んできたかのように。

「教授連中もパニックになってるよ。非公式だけど、上層部は学内で未知の"消失現象"が発生した可能性が高いと判断し始めてる」

「消失現象……」

その聞き慣れない造語が、研究室の温度を一段階下げたように思えた。単なる行方不明ではない。存在そのものが世界からこぼれ落ちるような、底知れない響き。それは、科学の言葉ではなく、オカルトの言葉だった。だが、今はそれが現実として語られている。

「しかも、一番の問題はそこじゃないんだ」

村上は一度言葉を切り、床の一点を見つめるように視線を落とした。その顔色は、雪のように蒼白だった。唇も血の気を失い、額には汗が浮かんでいる。彼は何かを言うのを躊躇しているようだった。だが、言わなければならない。その葛藤が、表情に刻まれていた。

「その学生の名前が……どう頑張っても、誰からも出てこないんだ」

その言葉は、静かに、しかし確実に部屋の空気を変えた。

「名前が……ですか?」

浩が問い返すと、村上は苦しげに首を振った。その動作は、何かに抗おうとしているようだった。認めたくない現実に対して。

「存在した記録はあるんだよ。学生ID番号も、成績データも、図書館の貸出履歴も残ってる。サーバー上のログには確かに『彼』がいる。……だけど、それを見ても誰も思い出せない。『ああ、この学生か』という認識が繋がらないんだ。顔写真を見ても『知らない』と言う」

村上の声は、震えていた。科学者として、この現象を受け入れることの困難さが、その声に表れていた。データは存在する。記録は残っている。だが、記憶がない。それは、彼の世界観を根底から揺るがす事実だった。

浩と洋子は言葉を失い、ただ呆然と村上を見つめた。

認識の空白。情報の断絶。

それは、人間の存在を定義する二つの要素が、完全に分断されていることを意味していた。物理的な痕跡と、人々の記憶。その両者が矛盾している。どちらが真実なのか。あるいは、どちらも真実なのか。

浩の脳裏に、様々な疑問が渦巻いた。だが、そのどれにも答えが見つからない。科学的な説明が、まったく思いつかない。

「でも……」

洋子が震える声で切り出した。その声は小さく、だが切実だった。

「でも、浩くんは昨日の学生の噂を、ほら……昨日の時点で村上さんから聞いてたよね?」

その言葉に、浩はハッとした。脳裏に閃くものがあった。

そうだ。昨日の夕方、村上はこの部屋で確かに言っていた。『学生が一人、行方不明になった』と。それは、まだ噂の段階だった。だが、確かに名前があったはずだ。固有名詞があったはずだ。でなければ、行方不明者として特定できるはずがない。

「……待ってください。村上さん」

浩は椅子から立ち上がり、村上に詰め寄った。その動きは急で、椅子が軋んだ音を立てた。浩の目には、確信に近いものが宿っていた。

「昨日、あなたが『噂だ』と言っていた行方不明の学生。その名前……昨日の時点では聞いていましたよね? 事務職員から連絡があった時、名前が出ていたはずです」

浩の声には、問い詰めるような響きがあった。だが、それは村上を責めているのではない。確認したいのだ。自分の記憶が正しいのかを。

村上は虚を突かれたような顔をした。その表情は、驚きと困惑が混じっていた。

「え……?」

「思い出してください。昨日の学生の名前です」

浩の言葉に、村上の顔が強張った。彼は、何かに気づいたようだった。恐ろしい何かに。

「昨日の……学生……」

村上は眉間に深い皺を寄せ、額に手を当てた。記憶の糸を手繰り寄せるように、視線が宙を泳ぐ。その目は、必死に何かを探している目だった。失われた記憶を、暗闇の中で探しているような。

「聞いた。……確かに聞いた。事務の人間が電話口で言っていたはずだ。ええと、理学部の……」

村上の声は、次第に小さくなっていった。自信が失われていく。

数秒の沈黙。

部屋の空気が、さらに重くなる。その沈黙は、答えがないことを示していた。

しかし、その先が続かない。

村上の表情が、次第に困惑から恐怖へと変わっていく。その変化は、見ていて痛々しいほどだった。彼は必死に記憶を掘り起こそうとしている。だが、そこには何もない。空白がある。

「……どうしてだろう。出てこない」

村上の声が震え始めた。その震えは、恐怖からくるものだった。自分の記憶を信じられないという、根源的な恐怖。

「喉まで出かかっているのに、形にならない。昨日まで普通に覚えていたはずなのに……俺、忘れてるのか? たった一日で?」

村上の手が、自分の頭を抱えるように動いた。その仕草は、痛みに耐えているようだった。記憶を失うことの痛み。自分という存在が揺らぐことの痛み。

その瞬間、研究室の空気がぐにゃりと歪んだような錯覚を覚えた。

忘れているのではない。記憶そのものが、物理的に削り取られている。

浩は、その確信に至った。これは、通常の忘却ではない。脳の老化でもなければ、記憶の混濁でもない。何か、もっと異常な現象が起きている。

まるで雪の結晶がわずかな温度変化で崩れ落ちるように、人の脳内から「彼」という存在のデータだけが、綺麗に溶けて消失している。

選択的な記憶の消去。それは、自然現象ではあり得ない。何かが、意図的に、あるいは法則的に、記憶を消しているのだ。

「浩くん……これ、もう"偶然"とかじゃないよ」

洋子の手が、小刻みに震えていた。彼女は自身の体を抱きしめるようにして、後ずさる。その動きは、何かから逃げようとしているようだった。だが、逃げる場所はない。この現象は、すでに彼らの周りを取り囲んでいる。

「感染してるんだ。忘却が」

洋子の言葉は、的確だった。そう、これは感染だ。ウイルスのように、記憶から記憶へと広がっている。誰かが忘れれば、次の誰かも忘れる。連鎖的に、集団的に。

浩は乾いた喉から、やっとのことで声を絞り出した。

「……ああ。始まってる。何かが確実に、俺たちの世界で」

その言葉は、現実を認めることだった。もはや否定できない。科学では説明できないが、起きている。それが現実だ。

窓の外では、陽が落ちかけ、薄暗くなった空から雪が舞い続けていた。

その白い粒のどれ一つとして同じ形を持たず、しかし地面に落ちればすぐに溶けて消えていく。

その当たり前の自然現象が、今は恐ろしくてたまらない。それは、人の存在もまた、同じように消えていくことを暗示しているように思えた。美しく、儚く、そして取り戻せない。

──

夕刻、大学構内は異様な緊張感に包まれていた。

廊下には動揺した学生や職員が行き交い、緊急の構内放送が断続的に繰り返されている。その声は、機械的で冷たく、かえって不安を煽るようだった。

《現在、一部の学生の安否確認を実施しています。関係者の方は直ちに――》

無機質なアナウンスが、かえって不安を煽るようだった。それは、事態の深刻さを物語っていた。通常の手順では対処できない何かが、起きている。

研究室に戻った浩と洋子は、しばらく言葉を交わせずにいた。

村上は別の場所へと向かい、二人だけが残された。部屋の電気をつける気にもなれず、薄暗がりの中で、ただそれぞれの思考が重たい雪のように降り積もっていくのを耐えていた。窓の外は、すでに夕闇に包まれ始めている。雪は、まだ降り続けていた。

時間の感覚が曖昧になっていた。どれくらい黙っていたのか、わからない。ただ、沈黙だけが、部屋を満たしていた。

ふと、洋子が静寂を破った。

「浩くん……もしも、だよ?」

また、昨日と同じ入りだ。けれど、その響きは昨日とは決定的に違っていた。より切実で、より現実的な響き。それは、もはや仮定の話ではなく、可能性の話だった。

「もしも、私が誰かの記憶から"抜け落ちる"日が来たら……」

彼女は窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、消え入りそうな声で言った。その姿は、ガラスに映る影のように、どこか非現実的だった。

「私、自分の存在をどうやって確かめればいいの? 周りのみんなが私を忘れて、記録だけが残って……そんなの、幽霊と同じじゃない」

洋子の声は、震えていた。その問いは、存在論的な恐怖を孕んでいた。自分が自分であることを、どうやって証明するのか。他者の記憶の中にしか、自分は存在しないのではないか。

浩は、胸の奥を鋭利な刃物で切り裂かれたような痛みを感じた。彼女の恐怖が、自分の恐怖でもあることを知っていた。

「そんな日、来させない。絶対に」

強い口調で言ったつもりだったが、声はわずかに上擦っていた。その言葉は、願いであり、祈りだった。

「でも……今日のニュース、見たでしょ? 家族でさえ覚えていなかったんだよ。あんなに確かなものが、一瞬で」

洋子が振り返る。その瞳は、窓からの雪明かりを閉じ込めたように潤み、揺れていた。その目には、諦めと抵抗が同居していた。

「それでも俺は覚えてる」

浩は彼女の目を見据え、言い聞かせるように言葉を紡いだ。自分自身にも、彼女にも。

「昨日も言ったけど、洋子、お前のことを忘れるとか……あるはずない。たとえ世界中がお前を忘れても、俺の脳細胞が全部書き換わっても、俺だけは絶対に抗ってみせる」

それは科学的根拠のない、ただの感情論だった。

けれど、今の二人には、すがりつけるものがそれしかなかった。論理が通用しない世界で、感情だけが武器だった。

洋子は、しばらく浩の顔をじっと見つめていた。

その視線は、何かを確かめるようだった。浩の言葉が本当かどうか。あるいは、浩の存在が本当かどうか。

やがて、小さく息をつき、安堵したように、あるいは諦めたように微笑んだ。

そして手元のノートをパタンと閉じる。

「……ありがとう。今は、それだけでじゅうぶん」

彼女はそう言ったが、浩は知っていた。

"それだけでは足りない"領域に、すでに足を踏み入れつつあることを。

言葉や想いだけで繋ぎ止められるほど、この現象は甘くないかもしれない。記憶は、感情よりも脆い。そして、消失は、願いよりも強い。

研究室の外では、街灯のナトリウム光の中できらめく雪が、しんしんと降り続けていた。

音もなく。

痕跡を残さず。

世界を白く、均一に塗り潰していく。誰かの記憶が、同じように消えていく未来を暗示するかのように。

そして、この日を境に――

"消失"という言葉が、初めて現実の輪郭を帯び始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る