雪の哲学

唯野眠子

第1話 雪と哲学

雪の結晶は、そのすべてが正六角形を基本にしたフラクタル構造である。微細な枝が分岐し、その枝からまた小さな枝が伸びる。無限の自己相似性。だがしかし、この世界に一つとして同じ形のものは存在しない。

その事実を、浩は何度確認しても不思議に思った。物理法則という絶対的なルールに支配されているはずの自然が、なぜこれほどまでに多様性を生み出すのか。研究室の片隅に置かれた電子顕微鏡のモニターには、今日も無数の結晶構造が映し出されていた。どれ一つとして同じものはない。完璧な秩序の中に宿る、完璧な無秩序。

「ねえ、これってまるで人と同じじゃない?」

唐突に、洋子が口を開いた。静寂に包まれていた研究室の空気が、彼女の声でふっと揺らぐ。その声は、いつものように突然で、いつものように本質を突いていた。浩は内心で、また始まったか、と思いながらも、彼女の言葉の続きを待った。

「何をいきなり哲学してるんだよ。あー、また何かに影響されてるな? ひょっとして、中谷宇吉郎かな」

浩はモニターから視線を外し、椅子をきしませて洋子の方を向いた。革張りの古い回転椅子が、抗議するように小さく軋んだ音を立てる。彼女の手元には、古びた文庫本がある。装丁の擦れた昭和の科学随筆だ。ページの隙間という隙間には、色とりどりの付箋がびっしりと貼られている。ピンク、黄色、水色。まるで小さな旗が林立しているかのようだ。無造作に見えて、その実、彼女らしい几帳面さが滲み出ていた。それぞれの付箋には、おそらく細かいメモが書き込まれているのだろう。

「だって、不思議だと思わない? この世界のどこを探しても、同じ結晶がないんだよ」

洋子は本を閉じ、その表紙を愛おしそうに指でなぞった。背表紙は色褪せ、角は丸くなっている。何度も何度も読み返された証だ。彼女は古い本が好きだった。特に、科学と詩情が交差するような文章を。

「水分子が結合する角度は決まってる。絶対的な物理法則の規則性があるのに、一度として再現されない。それって人間もそうでしょ。みんな同じ『ヒト』っていう生物の種に属しているのに、性格も、抱えている記憶も、みんな違う」

洋子の声には、いつもの軽やかさの中に、どこか真剣な響きが混じっていた。彼女は本当に不思議がっているのだ。科学者として、そして一人の人間として。

「まあ、言いたいことはわかるけどさ」

浩は苦笑しながら、手元のマグカップに口をつけた。すっかり冷めきったコーヒーが、苦味とともに喉を落ちていく。舌の上に残る渋みが、彼の疲れを思い出させる。今日はもう何時間、このモニターの前に座っているだろうか。窓の外はすでに暗く、時計を見れば午後六時を回っていた。

「雪の結晶と人間を同列に並べるのは、いささか論理が飛躍しすぎだろ」

浩の言葉には、半ば習慣的な突っ込みの響きがあった。これまでにも、洋子の突飛な比喩に何度も付き合ってきた。そして、その度に彼女は笑顔で反論してくる。

「飛躍じゃないよ。むしろロマンじゃない?」

洋子はふふっと笑うと、少し尖った顎を上げ、研究室の大きな窓の外へと視線を投げた。その横顔は、薄暗い研究室の中で、外からの微かな光に照らされて輪郭が浮かび上がっている。長い髪が肩に流れ、その先端が微かに揺れていた。

ガラスの向こうでは、細かい雪が光をまとってしんしんと降り続いている。大学キャンパスの夕刻は、独特の静けさを持っていた。昼間の喧騒が嘘のように消え去り、白い静寂だけが支配する時間。空は灰色から深い薄青へと沈み、等間隔に並んだ街灯のナトリウム光が、雪の中に円形のぼやけた輪をあちこちに浮かび上がらせている。まるで、無数の小さな月が地上に降りてきたかのようだった。

白い点々が無数に宙を漂い、風に舞う。どれも似ているようで、目を凝らせばどれも別物だ。ある雪片は直線的に落ち、ある雪片は螺旋を描いて舞い降りる。それぞれが、それぞれの軌跡を描いている。

浩はその横顔を見て、喉まで出かかった言い返す言葉を飲み込んだ。彼女の突拍子のない比喩は、いつもこうだ。科学者的な論理の積み上げというよりは、直観的で感覚的。データや数式よりも、心が感じるものを大切にする。けれど、妙に胸の奥に棘のように残る。彼女の言葉は、いつも何かを考えさせる力を持っていた。それが時として、浩自身の凝り固まった思考を解きほぐしてくれるのだ。

「まあ……ロマンって言われちゃうと、こっちは弱いな」

浩が肩をすくめると、洋子は満足そうに笑った。その笑顔には、小さな勝利を得た子供のような無邪気さがあった。彼女はいつもこうやって、浩の理屈を柔らかく包み込んでしまう。

その屈託のない表情を見た瞬間、浩は少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。それは、友情とも少し違う、名前のつけられない感情だった。大学院に入ってからの二年間、来る日も来る日も、ずっとこの狭い研究室で彼女と共に過ごしてきた。朝早くから夜遅くまで、時には徹夜で実験を続けた日もあった。彼女の自由奔放な発想と、科学者らしからぬ情緒的な感性に振り回されることも多い。突然、実験の手を止めて詩集を読み始めたり、データ解析の最中に窓の外の空を眺めて物思いに耽ったり。だが、正直言えば嫌いではなかった。むしろ、論理の壁にぶつかった時、その鋭い「閃き」が研究の行き詰まりを何度も救ってくれたのだ。彼女の一見無関係に見える観察が、思いもよらない角度から問題の突破口を開いてくれることがあった。

「でもさ、雪ってどれも違うのに、全部きれいに形が整ってるんだよね。そこが不思議だよね」

洋子が窓ガラスに近づき、白く曇った表面に指先で小さな円を描く。キュッという音がして、円の中だけクリアな視界が開けた。結露した窓ガラスに、小さな覗き窓ができる。その向こう側、暗がりの中をまた雪片が一つ、ゆらりと落ちてくる。重力に引かれながらも、風に翻弄されて、複雑な軌道を描きながら。

「結晶だからな。水分子の水素と酸素が結びつく角度が決まってる。それが成長の土台になるんだ。言ってみれば、自然が導き出した最適解ってやつだよ」

浩は立ち上がり、洋子の隣に歩み寄った。二人並んで窓の外を見る。彼らの研究室は建物の三階にあり、キャンパスの中庭が一望できる。今は誰もいない中庭に、雪が静かに積もっていく様子が見えた。ベンチの上にも、木々の枝にも、白い層が少しずつ厚みを増していく。

「でも、それならどうして同じ形にならないの? 物理法則っていう条件が全部同じなら、工場製品みたいに同じ形を作ったってよくない?」

洋子の問いは、単純だが本質的だった。彼女はいつもこうして、当たり前だと思っていることに疑問を投げかける。その素朴な問いが、時として科学の核心を突くことがある。

「全部の条件が同じなんて、現実の世界にはありえないだろ」

浩は机の上に散乱していた資料を手に取り、整えながら言った。論文のコピー、実験データ、手書きのメモ。研究の痕跡が、机の上に重層的に積み重なっている。彼はそれらを丁寧に揃えながら、言葉を続けた。

「上空から地上に落ちてくるまでの間、気圧、温度、湿度、風の流れ……それら全部がカオス的に複雑に変わる。その環境履歴がそのまま形に刻まれるから、六花結晶の枝の伸び方が微妙に違ってくるんだ。それが不均一さを生むんだよ」

浩の説明は、教科書的で正確だった。だが、その声には、事実を述べる以上の何かがあった。彼もまた、この現象に魅了されているのだ。完璧な法則と、完璧な偶然の交差点に。

浩の説明を聞きながら、洋子は窓の外を見つめたまま考え込んでいる。彼女の瞳には、降り続ける雪が映り込んでいた。その表情は、何かを深く考えているときの、彼女特有のものだった。

「ふうん。……じゃあ、人間の違いもそうなのかな?」

「何が?」

浩は、資料を整える手を止めて聞き返した。

「記憶だよ。私たちの性格とか、考え方とか」

洋子は振り返り、浩をまっすぐに見つめた。その眼差しには、いつもの茶目っ気ではなく、真剣な光があった。彼女は本気で考えているのだ。何かを確かめるように。

「生まれた場所、育った環境、会った人、読んだ本。その全部の『履歴』がちょっとずつ違う。それが積み重なって、私たちの『心』を形作っているのかなって」

洋子の声は、少しだけ遠くを見つめるような響きを帯びていた。まるで、自分自身の内側を覗き込んでいるかのように。彼女は何を思っているのだろう。どんな履歴が、今の彼女を形作ったのだろう。浩は、そんなことを考えた。

浩は思わず吹き出した。「やっぱり今日は完全に哲学してるじゃん。どうしたの、急に」

だが、その笑いには、拒絶ではなく親しみが込められていた。彼女のこういう側面が、浩は好きだった。科学と詩の間を、自由に行き来する彼女の柔軟な思考が。

「雪の季節って、なんだかこういう気分にならない?」

洋子は茶目っ気たっぷりに肩をすくめてみせた。その仕草は、少し照れ隠しのようでもあった。自分でも、少し感傷的になりすぎたと思ったのかもしれない。彼女の頬が、ほんの少し赤く染まっているように見えた。

その瞬間だった。

静寂を破るように、研究室のドアがノックされた。

コン、コン、と控えめだが、どこか切迫した響き。その音は、二人の親密な時間に、突然割り込んできた現実の音だった。まるで、別の世界からの使者が訪れたかのように。二人が同時に振り向くと、ドアが開き、細身の助手である村上が顔をのぞかせていた。

いつもなら飄々としている彼の表情が、どこか曇っている。

「お疲れ様です。二人とも、まだ残ってたんだね。相変わらず雪のサンプル観察?」

言いながら部屋に入ってきた村上は、凍えた指先から革手袋を引き抜いた。その動作は、いつもより少しぎこちなく、手袋を外す間も、彼の視線はどこか宙を彷徨っているようだった。

「村上さん、外めちゃくちゃ寒いですよ。鼻、真っ赤じゃないですか。観測器の調整ですか?」

浩が声を掛ける。確かに、村上の頬は冷気に晒されて赤くなっており、呼吸のたびに白い息が漏れていた。コートの肩には、まだ溶けきらない雪が点々と残っている。

「うんまあ、そんなところかな」

村上は曖昧な返事をしながら、肩に積もった雪を払い、厚手のコートをハンガーに掛けた。雪が床に落ちて、小さな水滴になる。しかし、その背中はどこか重い。いつもなら「いやあ、寒すぎて温度計が壊れるかと思ったよ」なんて軽口を叩きながら笑っているはずだが、今日はやけに静かだった。言葉数が少なく、動作もどこか機械的だ。その横顔には、疲労とは違う種類の陰りが張り付いている。

洋子は窓際から村上の様子を窺っていた。彼女の直感が、何か普通でないものを感じ取っている。研究室の空気が、彼の入室とともに微妙に変化したのだ。

「どうかしたんですか?」

敏感に空気を察知した洋子が尋ねる。その声には、いつもの軽やかさではなく、慎重な響きがあった。

村上は一瞬ためらうように視線を泳がせ、やがて観念したように息を吐いた。その息は長く、重く、何かを諦めたような響きを持っていた。彼は眼鏡を外し、レンズについた曇りを拭う仕草をする。時間を稼いでいるようにも見えた。

「いや……たいしたことじゃないよ。ただ、ちょっと変な話を聞いてね」

彼は自身のデスクに腰を下ろさず、立ったまま視線を床に落とした。その立ち姿は、どこか落ち着かない。まるで、すぐにでもその場から逃げ出したいと思っているかのように。研究室の蛍光灯が、彼の顔に不自然な影を落としていた。

「さっき、北棟の事務職員から連絡があってさ。学生が一人、急に行方がわからなくなったらしいんだ」

その言葉が落ちた瞬間、研究室の空気が凍りついた。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。

「行方不明、ですか?」

浩の声が少しだけ鋭くなる。彼はモニターから完全に視線を外し、村上の方を向いた。大学という閉じた空間での失踪騒ぎは、決して穏やかな話ではない。学生の数は限られ、キャンパスの敷地も明確だ。その中で誰かが消えるというのは、尋常なことではなかった。

「まだ事件と断定されたわけじゃないけど、朝から連絡が取れないってさ。まあ、単位が危うくなった学生が連絡を絶つなんて、大学じゃよくある話だけど」

村上の声はいつもより歯切れが悪かった。単なる連絡事項ではなく、得体の知れない不安がにじむような口調。彼は眉間を揉みながら言葉を継ぐ。その仕草は、頭痛を抑えるようでもあり、記憶を手繰り寄せようとしているようでもあった。

「でもさ、ちょっと変なんだよ。話の内容が」

「変?」

洋子が聞き返した。彼女は窓際から一歩、村上の方へと近づいた。その動きは慎重で、まるで何か壊れやすいものに触れるときのような緊張感があった。

「彼の所属してたゼミの学生に事情を聞いたらしいんだけど、全員が『そんな人、いたっけ?』って言うんだよ。あまつさえ、指導教授ですら覚えてないって言うんだ」

その言葉が部屋に落ちた瞬間、時間が止まったように感じられた。

部屋の空気が、急激に温度を失ったように重くなる。

暖房の効いた室内のはずなのに、浩は背筋に冷たいものが走るのを感じた。それは物理的な寒さではなく、もっと根源的な、説明のつかない不安だった。窓の外で降り続ける雪が、急に意味を持ち始めたような気がした。

洋子の瞳が、顕微鏡の下の雪の六花のように静かに揺れた。彼女は窓際から動かず、村上をじっと見つめている。その表情には、驚きというよりも、何か予期していたものが現実になったような、複雑な感情が浮かんでいた。

「……そんなこと、あり得るんですか? 集団的な記憶喪失とか?」

浩の声は、いつもの冷静さを保とうとしていたが、わずかに震えていた。科学者として、論理的な説明を求めようとする。だが、その問いかけ自体が、すでに常識の枠を超えていることを、彼自身も気づいていた。

「普通ならあり得ない。僕だって信じちゃいないよ。でも、妙にリアリティのある噂話として流れてるんだ。気味が悪いくらいにね」

村上は無理に笑って見せたが、その笑みは紙のように薄く、頼りなかった。唇が引きつり、目は笑っていない。彼自身も、自分の話している内容に困惑しているようだった。信じたくないが、否定もできない。そんな宙吊りの不安が、彼の表情に刻まれていた。

浩は思わず洋子を見る。彼女は村上から視線を外し、再び窓の外の雪を見つめていた。

暗闇の中を、音もなく降り続ける白い粒。無数の個性を持ち、それぞれが違う物語を持っていながら、地面に落ちれば一瞬で溶けて、ただの水に戻ってしまう。美しく、儚く、そして取り戻せない。

洋子の横顔は、窓からの微かな光に照らされて、どこか透明に見えた。まるで、彼女自身が今にも消えてしまいそうな、そんな錯覚を浩は覚えた。

「記憶ってさ、そんな簡単に消えるものなのかな」

洋子が独り言のようにぽつりとつぶやく。

「記憶ってさ、そんな簡単に消えるものなのかな」

洋子が独り言のようにぽつりとつぶやく。その声は、研究室の静寂に溶け込むように小さかった。だが、その問いかけには、単なる疑問以上の重みがあった。まるで、自分自身に問いかけているかのような。

「いや、人の記憶っていうのは脳の神経回路の……」

浩は科学的な反論を言いかけて、ふっと言葉に詰まった。

科学者らしい論理で現象を否定し、彼女を安心させようとしたはずが、胸の中で何かが足を引っ張ったのだ。言葉が喉の奥で引っかかり、それ以上先に進めない。シナプスがどうとか、記憶の固定化がどうとか、そういう教科書的な説明が、今この瞬間には何の意味も持たないような気がした。

――でも、もし本当に。

物理的な肉体だけでなく、誰かの記憶ごと消えてしまったとしたら?

その想像は、かすかに震えるような、根源的な不安を伴っていた。存在の証明とは何か。自分がここにいることを、誰が保証してくれるのか。そんな哲学的な問いが、突然リアリティを持って迫ってくる。浩は無意識に、自分の腕を掴んでいた。確かな肉の感触。だが、それすらも信じられなくなるような、奇妙な浮遊感があった。

「まあまあ、ただのたちの悪い噂だよ。試験前でみんな神経過敏になってるんだろ」

村上が無理やり話を締めるように、パンと手を叩いた。その音は研究室に響いたが、どこか空虚だった。彼自身も、自分の言葉を信じていないように見える。笑顔を作ろうとしているが、その表情は硬い。

「俺たちは観測データの解析に戻ろう。雪の物理特性でも調べてれば、嫌でも現実的な気分になるさ。数字は嘘をつかないからな」

村上の言葉には、現実に戻ろうとする必死さがあった。数字、データ、物理法則。そういった確固たるものに縋りつこうとしている。彼は書類を手に取り、それを見つめたが、その視線は焦点が合っていないように見えた。

「……そうですね。やりましょう」

浩も頷いた。だが、その声には力がなかった。いつもの研究への情熱が、どこかに消えてしまったかのように。

そう言って、村上は逃げるように別室の解析室へと戻っていく。その背中は丸く、疲れ切っているように見えた。廊下を歩く足音が遠ざかり、やがて消えていく。

パタン、と扉が閉まると、研究室には再び静寂が落ちた。

だが、それは先ほどまでの心地よい静けさとは、明らかに質が違っていた。重く、圧迫感のある沈黙。空気が澱んでいるような感覚。パソコンの冷却ファンが回る音、分析装置の低い唸り、そして窓の外で雪が風に舞う気配。それらの音が、妙に大きく、妙に不協和音のように聞こえた。先ほどまでの穏やかな空気は消え失せ、代わりに張り詰めた何かが漂っていた。目に見えない緊張が、部屋中に満ちている。

浩は気持ちを切り替えるように席に戻り、キーボードに手を置いた。冷たいプラスチックの感触が、指先に伝わる。だが、画面に映る数字の羅列が、今はただの記号にしか見えなかった。いつもなら意味を持つデータが、今は何も語りかけてこない。

洋子はまだ窓際に立ったままだった。その細い背中が、ひどく頼りなく見える。彼女は動かず、ただ外を見つめている。まるで、何かを探しているかのように。あるいは、何かから逃れようとしているかのように。

「洋子?」

名を呼ぶと、彼女はゆっくりと、スローモーションのように振り向いた。

その動きには、普段の彼女らしい軽やかさがなかった。重力に引かれるような、緩慢な動き。彼女の顔は蛍光灯の光で青白く照らされ、どこか非現実的に見えた。

「ねえ浩くん。……もしも、だよ?」

洋子の声は震えていたが、その表情は真剣だった。目は浩をまっすぐに見つめ、その瞳の奥には、何か深い感情が渦巻いていた。恐れ、不安、そして確認したい何か。

「もしも誰かが、世界から『消失』したとして……そのことを覚えていられる人って、どんな人なんだろうね」

その問いは、先ほどの村上の話を受けたものだった。だが、それ以上に、個人的な、切実な響きを持っていた。まるで、自分自身の存在を確かめようとしているかのような。

「どうしてそんなこと聞くんだよ」

浩の声には、戸惑いと、わずかな苛立ちが混じっていた。彼女がこういう不吉な話をするのは珍しい。いつもは前向きで、明るい彼女が。

「だって」

彼女は小さく首を傾げた。その仕草は、普段なら可愛らしく見えるはずだった。だが、今は何か別の感情を呼び起こす。胸が締め付けられるような。

「私がもし、あの雪みたいに溶けて消えたら、浩くんは覚えててくれる? 私という人間がここにいたこと」

浩はその問いに、一瞬だけ息を呑んだ。

彼女の声は冗談の軽さを装っていた。けれど、その瞳の奥には、確かに怯えのような影があった。まるで、自分が次に消える順番であることを予感しているかのような。その目は、助けを求めているようにも見えた。否定してほしい、大丈夫だと言ってほしい、そんな無言の懇願が込められていた。

浩はキーボードから手を離し、強がりの言葉を探した。彼女を安心させる言葉。科学的で、論理的で、確かな言葉。だが、見つからない。

「そんなわけないだろ。人が消えるとか、あり得ないし。非科学的だ」

ようやく出てきた言葉は、どこか弱々しかった。自分でも、その言葉を信じられていない。そんな声だった。

「……だよね。そうだよね」

洋子は微笑んだ。

その笑みは美しく、しかしどこか壊れそう(fragile)だった。

窓からの冷たい光を浴びて、彼女自身が巨大な六花結晶のように見えた。

緻密で、美しく、儚く、そして二度と同じ形には戻らないもの。

浩は、その姿を目に焼き付けようとした。まるで、今この瞬間を記憶に刻み込まなければ、本当に失ってしまうような予感に駆られて。彼女の立ち姿、表情、声のトーン、すべてを。

研究室の無機質な蛍光灯が、静かに二人の影を床に落としていた。

外では雪が降り続いている。世界を白く塗り潰すように、すべてを覆い隠すように。

何かが、静かに、けれど確実に始まりつつあった。

――これが、後に世界を覆う『消失』の、最初の気配だった。

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